山浦清美のお気楽トーク

省エネ、農業、飛行機、ボウリングのことなどテーマ限定なしのお気楽トークができればと思っております。

そろそろ走り始めようではありませんか!

2012-09-28 | 政治・経済・社会

 何事も方向性が定まらない昨今です。長期間に渡る景気低迷、年金に対する不信感、エネルギー問題などなど多くの問題が山積しているにも関わらず、解決の糸口すら見つからず百家争鳴の様相を呈しております。議論の必要性は理解できますが、いたずらに結論を先送りするのは座して死を待つのと同じことではないでしょうか。

 日本人は走り始めると偉大なる力を発揮できると思います。原発問題でも早く決定すれば、あらゆる困難を乗り越え問題を解決できると考えます。ズルズルと決定を先延ばしすれば、来年の夏もまた同じような苦労をしなければならないでしょう。

 もう今までに充分過ぎるだけの時間を浪費してきました。そろそろ走り始めようではありませんか。手遅れになる前に・・・。


害虫といわれる昆虫について(農薬そして雑草と共存することについての一考察)

2012-09-27 | 農業

 害虫駆除のため多量の農薬が使用されております。ミツバチが激減したのも農薬が原因だと主張されております。農薬は害虫だけでなく益虫も殺してしまいます。そもそも「害虫」や「益虫」と分類することは、何とも驕った考えではないのでしょうか。人間にとって都合が良いか悪いかだけで勝手に害虫とされてしまった虫君こそ哀れです。そして農薬を散布しても、一時的に抑制できても害虫を根絶することはできません。

 と言いつつ、私も農作物に影響を与える虫を駆除しております。ただ農薬を使用せず手作業で実施しております。これは作物の生育を大きく阻害している場合に必要最小限(これは労力が足りないからでもありますが・・・)に抑えております。

 植物に虫が取り付くのは、植物本体を食べたり、養分(体内の液体)を吸いとるためです。植物は生長を妨げられたり、極端な場合には枯れてしまいます。虫の中には雑草に取り付く虫もいます。ですから作物に取り付けば害虫とされ、雑草に取り付けば益虫とされるのでしょう。

 ミツバチは花の蜜や花粉を集める際に受粉を手助けすることから益虫として扱われております。蝶も同様に受粉の手助けをしますが、一方で作物に産卵し、その幼虫は作物の葉を食害します。ですからどの範疇に入れるべきでしょうか。更に、例えばテントウムシがアブラムシを捕食するように害虫とされるものを捕食する虫、いわゆる天敵と言われている虫も益虫であると考えられます。

 田畑の植物が多様であれば、昆虫も多様になります。害虫が増えれば、それを捕食する天敵も増加して一定の均衡を保つようになっております。このように田畑においては、小さいながらも生態系を構成しているといえます。しかし、現代農業においては、生産性の向上のため単一作物を作付けすることが主流となっております。そうすると、その作物を好む害虫が大量に発生する要因になります。天敵の数は、害虫の増加にやや遅れて増加するでしょうから、均衡する前に作物は害虫によって大きなダメージを受けてしまうでしょう。これを避けるために農薬散布による害虫駆除が行われることになります。害虫だけを選択的に駆除することは難しいでしょうから、益虫をも同時に駆除してしまうことになります。しかし、しばらくすると再び害虫が発生します。このとき天敵もいなくなっておりますので、また農薬に頼らざるを得なくなります。

 田畑の植物が多様であれば、害虫も天敵も多様になります。一時的に特定の害虫が優性になっても、多様な天敵により害虫が抑制され、単一作物ほどの被害は受けなくなります。また、害虫の被害を少なくしたいならば、手作業等で一時的に害虫を駆除してやれば天敵優性な状況を作れますので均衡の時期を早めることができます。これは作物と雑草の関係と同様に考えられます。

 このような観点から、たとえ単一作物を作付けした場合でも雑草と共存することにより生物多様性を高めることができるのではないかと考えます。これが「雑草と共存する農業」で述べている「雑草の繁殖は害虫の温床になる」との指摘への私なりの回答になろうかと思います。

 余談になりますが、F・シャブスーによれば、害虫が好む植物の体内には、アミノ酸、糖類、可溶性の無機養分などの水溶性の養分が多く蓄積されているとのことです。健康な植物は、物質代謝が高く、これらの養分が蓄積することが少ないそうです。これらの養分が蓄積される要因として、植物が不健康であるか、与えられた養分が過剰であることが挙げられると思います。いわゆる化学肥料は植物にとって吸収しやすい形態となっており、これを過剰に与えることによって、植物体内に不要な養分の蓄積が発生してしまうことになるという訳です。

 害虫といえども不味いものは食べたくないでしょう。先ずは美味いものに取り付くのが道理です。現代農業は自ら害虫にとって美味しいものを提供して、害虫を呼び寄せ、そして天敵もろとも駆除しているともいえるのではないでしょうか。ここ数十年このようなことを繰り返し繰り返し行ってきても一向に害虫が死に絶えたという話を聞いたことがありません。それどころか次々と新しい強力な(?)農薬が開発されているではありませんか?

<参考> 「現代農業は巨大な化学実験場か?


野田首相が大局観に言及

2012-09-26 | 政治・経済・社会

 報道によると野田首相は記者団に対し「尖閣諸島をめぐる問題が日中間の全体に悪影響を及ぼさないようにお互いに大局観を見失わないことが大事だ」と述べたそうな。笑止千万というべきでしょう。大局観がなかったからこそ、今の民主党政権の現状があるというべきなのではないですか。

 民主党の代表選の演説やその後の発言を聞くにつけ、野田首相は自己陶酔状態にあるのではないかと思えます。このまま首相を続けさせると少々ヤバイことになるのではないかと心配です。これには何の根拠もありません。単なる私の直感ですが・・・。


雑草と共存する農業

2012-09-26 | 農業

 「雑草という草は無い」というのは、昭和天皇のお言葉として知られております。雑草とは、本来育成したいと思っているもの以外の植物を総称しているのでしょう。農業の目的は作付けした作物を収穫することにあります。その目的の邪魔をするもの(雑草、害虫など)を全て排除しようとします。雑草は、作付け作物と水、光、養分などと競合関係にあります。雑草がはびこると本来は作付け作物に行き渡るべきものを奪ってしまうことになります。ですから、農業に従事するものは、田畑に雑草がはびこることを忌み嫌ってきたように思います。そのような田畑を見るにつけ、それを管理している人までがだらしない人だと看做すような風潮もありました。私もそのように教えられて育ちました。ですから、このような考え方は百姓の子弟では固定観念として強く植えつけられているものと考えられます。

 翻って考えてみますと、雑草はその土地に適合しているから良く育つのです。農家が何もしなくても勝手に長年生きてきたのです。謂わばその土地の先住民であるともいえるのです。そのような雑草を作付けに邪魔だから、耕したり除草剤を散布して根絶やしにしたいと考えるのです。全く人間の都合によって、雑草が形成してきた生態系を破壊した上に、新たなる生態系を構築しようと試みます。しかし、ここから雑草の反撃が始まります。元々、この土壌は雑草の生態系に適合していたものですから、新参者にとっては住み難いものです。ですから勢い雑草が再度勢力を盛り返します。これを抑制するために除草作業(除草剤散布を含む)が必要になります。所謂イタチゴッコが始まるのです。

 果たして、雑草は撲滅する対象なのでしょうか。共存する道はないのでしょうか。このことも不耕起農法と同様、従来の農業の常識に反する考え方です。

 ここに次のような考え方があります。即ち、雑草を作物を育てる協力者とみなすとするものです。雑草は、その土地に大昔から自生し、表土を守り、根で土を耕し、土壌微生物と共生し土の団粒構造を作り上げ、生物多様性に貢献しているといった考えです。

 先にも述べましたが、作付け作物は、その土地への新参者です。何もしなければ、先住者である雑草が圧倒的に勝ります。これでは作付け作物の生長・収穫は見込めません。しかし、作物の生育期間の前半3分の1だけ雑草を抑制することによって収穫の減少を無くすことができるという実験結果があるそうです。これは、種蒔きや定植後、雑草に負けない位に根付けば、その後は雑草より優性になり、例え雑草があっても順調に生育できるということでしょう。であれば、除草作業が相当に軽減できるということになり、雑草と共存することができます。そうすることによって、表土を雑草でカバーすることによる風雨による表土亡失の防止、生物多様性の維持、根圏微生物の育成等々の多くのメリットを享受できることになります。

 問題は、冒頭に述べたような「雑草が繁殖している=だらしない」といった強固な固定観念を取り払えるかです。私自身は人からどのように思われても構わないと思っております。しかし、いわれなき中傷それは「雑草の繁殖は害虫の温床になるから近所迷惑だ。」といった指摘に抵抗出来るかにかかっているように思います。この点については、後日改めて私の考えを述べたいと思っております。(参考:「害虫といわれる昆虫について(農薬そして雑草と共存することについての一考察)」)


耕さない農業

2012-09-24 | 農業

 農業というと大きなトラクターで田畑を耕している光景を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。種蒔きや植え付け前に田畑を耕すことは、農業の常識として考えられていることでしょう。

 農業(agriculture)の語源は、耕すこと(culture)だそうです。また、文化の語源は、心を耕すこととされているように、耕すということは人類にとってとても重要なこととされてきたように思います。

 このような常識に反して、耕さない農業(不耕起農法)というものがあります。私も5アール程の田んぼと庭先の畑で、この不耕起農法を試験的に行うようになってから既に2年が経過しました。

 不耕起農法のきっかけとなったのは次のような出来事があったからです。農業を始めるにあたってトラクターで田んぼを耕してみました。耕した直後の土壌は、何となく良質な土壌に思えたのですが、一雨降った後の土は何日経ってもぬかるんで、田んぼの中に入ることもままなりません。そして乾いたらカチンカチンに固くなって、素人目にも良質な土壌とは言い難いものに成り果ててしまいました。その原因を色々と調べる内に、自然農法に行き当たったのでした。それ以来、不耕起農法を採用しております。

 大豆、小豆、エンドウなど直接種を蒔く作物は、移植ごてで小穴を穿ち種を植え込みます。ニンジンや大根などの根菜類の場合には、当初は深さ十数センチ位の表土を移植ごてを用いて軽く耕し整地して種蒔きしておりましたが、最近はこれも同様に小穴でやってます。その他の作物は、育苗ポットに種蒔きし成長した苗を定植するようにしております。この時も移植ごてを用い必要最小限の穴を穿ち植えつけるようにしております。不耕起でも何ら遜色なく作物は生長し、収穫できるように思います。

 ただ、陸稲の直蒔き栽培ならばできるかも知れませんが、水稲は難しいかも知れません。また、大規模農業には適さない農法であることは容易に想像できることでしょう。しかし、小規模な場合でしたら、わざわざ耕さずとも栽培が可能ですから、トラクターなどの大型農機具も不要ですし、それに費やすエネルギーも不要となります。そして、大型農機による土の踏み固めや耕耘による土の団粒構造の破壊もなくなります。

 このような逆転の発想ともいえる英知はどこから来たものでしょうか。常識的な考えからは、とてもではありませんが出てきそうにありません。やはり、自然から謙虚に学ぶ姿勢があればこそというべきものかと思います。


現代農業は巨大な化学実験場か?

2012-09-22 | 農業

 古代から持続してきた農業は、この50数年で巨大な化学実験場と化してしまったのではないかと思ったりします。以前ご紹介した「生きている土壌」を読み返してみて、想像力を逞しくしてツラツラと考えてみたところです。

 現代農業以前の農業は、いわゆる循環型農業でした。私が小さい頃までは、化学肥料もありましたが、いわゆる下肥は貴重な肥料として用いられておりました。また家畜の糞尿等も稲藁や麦藁と混ぜて堆肥を作っておりました。

 その後、農薬や化学肥料が大量に使用されるようになり、確かに収量の増加や安定した生産が可能になりました。と同時にクリークに死んだ魚が大量に浮かんでいるのを見かけるようになりました。余談ですが、小学3年生の時の社会科見学で、大牟田市にある肥料工場を訪れました。薄暗い工場に真っ白に輝く尿素が富士山のようにうず高く置かれており、大型のブルドーザーのようなもので運搬車両に積み込んでおりました。これが物凄く印象的に残っていたとみえ、後日このことを図画工作の時間に描きました。これがどこが間違ったのか県展に入選してしまいました。このようなところにも高度成長時代が影響しているのでしょうか?

 農業の機能の一つとして自然環境を守ることが挙げられることがあります。従来農法のような循環型農業であれば、確かにそのような機能を認めることができるでしょう。しかし、農薬や化学肥料を大量に使用する現代農業に、そのような機能を認めることが果たしてできるでしょうか。大量の化学肥料を田畑に散布しますが、果たして全てが植物体に吸収されるでしょうか。不要の栄養素は土中に蓄積されるものもあるでしょうが、一部は地下水や放流水へ流れ出しているものと考えた方が合理的ではないかと思います。最終的には、河川や海に流れ込みます。赤潮の原因として合成洗剤のリン酸塩が疑われておりましたが、化学肥料が原因である可能性も捨て切れません。

 従来型の循環型農業は、過去数千年に渡って人類が繁栄してきたことからしても、その安全性が検証されたものと考えられます。しかし、現代農業は高々数十年の歴史しかありません。農薬や化学肥料を大量に用いることに対する副作用が誰も経験したことがないような形で現れるかも知れません。あるいは現れないかも知れません。

 ただ言えることは、従来型の循環農法の方が検証済みであることから、例え収量や安定生産が望めないとしてもベターであると考えます。私が目指す「自然農法」もその延長線上にあります。相当困難なことであろうとは思いますが、個人的に大変興味がありますので、試行錯誤を重ねて行きたいと思っております。

 50歳半ばに達した今、そんなに長くない人生です。百姓をしながら、風の吹くまま気の向くまま、気負わず、お気楽に過ごして行けることが願いです。


国語世論調査で思うこと

2012-09-21 | うんちく・小ネタ

 文化庁の国語世論調査が発表されたとの報道がありました。論評等は専門家や評論家にお任せするとして、私自身調査結果を一読して「身につまされる思い(これも誤用と言われるかも知れませんが・・・。」)でした。知らず知らずのうちに使っているなーという思いです。

 先日も「LEDという枕詞」の中で、「風潮に棹さすわけではありませんが」とやってしまっておりました。読者から、ご指摘を受けてはじめて気がついたのです。以来、色々と調べながら書いているつもりですが、誤用の不安は拭いきれません。今更ながら国語力の低さを思い知らされております。

 母国語の能力はあるレベルまでは自然に身につくものだと思います。であるがゆえに、その能力を向上させることが軽視されるのかも知れません。私も以前は、言葉などというものは、お互いに意味が通じればそれで良いのではないかと考えておりました。

 しかしながら、感情や考えを正確に理解したり表現するためには、国語力が必要になってきます。国語力を向上させるためには、当然のことながら教育が重要であろうと考えます。ただ、私にとって国語の授業は退屈そのものでした。ほとんどの時間を無為に過ごしていたように思います。私の国語力の低さは、そのつけが廻ってきているといえるのでしょう。

 日本人の国語力がどのような状況にあるかは知りませんが、向上してきているという話は聞いたことがありません。国語世論調査や全国学力テストの結果からしても向上しているとはいえないように思います。このような状況にも係わらず、小学校における英語教育が必須化されております。(参考:「英会話教育に関する違和感」)

 私には、国際化という大義名分を振りかざし、英語学習産業が大手を振っているようにしか見えません。私の廻りを見回してみても、英会話スクールに通って英語を身に着けた方を知りません。英語力が高い方は、英語を必要としている方々ばかりです。英会話スクールに通っただけ。授業で教わっただけではとても身につくものではありません。必要性が大切なのです。

 それとは対照的に母国語の必要性は言うを待たないでしょう。私のようにならないためにも国語力をつけていただきたいと思います。遅蒔きながら私も努力をしていきたいと思っております。


社会保障と税の一体改革に関するテレビCMについて

2012-09-13 | 政治・経済・社会

 ここ数日、テレビから「社会保障と税の一体改革」という政府広報がテレビからやたらと流れてくるようになった気がします。今日も朝から聞かされ、少々「イラッ」としてこの記事を書いております。

 ネットで調べてみましたら、このスポットCMは3種類あるようです。(参考:内閣府大臣官房政府広報室-スポットCM一覧

 そもそもこのCMに何の目的があるのでしょうか。私は観るたびにムカつきます。我々が、お前達(国民)のために改革をやってあげているんだ。そのために策を弄して安定財源を確保してあげたんだということを勝ち誇っているように思えてなりません。

 「始まっています社会保障と税の改革」とのことですが本当ですか。国会の現状はどうなっているのでしょうか。増税は先行しましたが、社会保障の議論はそっちのけで、リーダー選びに明け暮れているだけではありませんか。

 「消費税の増税部分は全て社会保障に使われます。」とのことですが、増税により他の財源に余裕が出た分を浪費されるのではないかと疑われます。

 政府広報は、国民にとって必要な情報を様々なメディアを通じて広く国民に伝達するためのものでしょう。今回のテレビCMにより国民に伝達すべき情報とは何なのでしょうか。このような情報に税金を使うことを無駄というのではないでしょうか。もっと他に伝えるべき情報があるのではないでしょうか。

 とついつい愚痴になってしまいました。


佐賀弁・筑後弁お国言葉比較考(8)

2012-09-10 | うんちく・小ネタ

 昨日、市民ソフトボール大会が開催されました。このような行事が終わった後には、行事が無事終了したことや参加者の慰労と親睦を兼ねて懇親会が催されることが多いでしょう。いわゆる「打ち上げ」のようなものです。

 佐賀弁では、「打ち上げ」のことを「しめあげ」と言います。少々物騒な印象を受けますが、おそらく「〆上げ」とでも書くのでしょうか?

 筑後弁では「〆祝」と言います。発音は「しめゆぅえ」と「しめいぅえ」の中間みたいになります。私自身も正確な発音は出来ないと思います。

 昨日は、ソフトボール終了後にアーチェリー大会のお手伝いに行かねばなりませんでしたので、残念ながら「しめあげ」に参加することが出来ませんでした。

 皆様の地域では何と言っておられますか?

<2014/01/07 追記> 「〆上げ」の語源らしきものが判りました。本日、当地(晴田地区)に伝わる注連元(しめもと)行事に参加し、神主さんより頂戴した資料に一連の神事(初寅、榊立て、八朔、くんち祭)の最後に「締め上げ」という神事が執り行われることが記述されておりました。この神事から諸行事が無事終了したことを祝す宴会を「しめあげ」というようになったのではないかと想像します。


第18回佐賀市長杯アーチェリー大会が開催されました

2012-09-10 | スポーツ

 昨日、恒例の佐賀市長杯アーチェリー大会が、佐賀県立森林公園アーチェリー場にて開催されました。雷雨の予報が出ていたりと空模様が心配されましたが、無事全大会日程を終了することができました。遠路多数参加いただきまして誠に有難うございました。選手の皆さん、お疲れ様でした。

 大会は、初心者向けの20mダブル、30mダブル、一般向けのシングルでリカーブ男女、コンパウンド男女の競技が実施され、佐賀市長杯は、30-50mの成績で争われました。日頃の練習の成果が発揮されたのか白熱した試合が展開されました。

 私はというと、ここ一年間は弓を引いておりませんので、今回はエントリーせずに大会運営のお手伝いをさせていただきました。久々にアーチェリーレンジに立つと再び練習したいとの思いを湧かせてくれました。

 大会主催の佐賀市アーチェリー協会では、この他にも初心者講習会や練習会を開催しております。ロンドンオリンピックでの日本選手の活躍から、再びアーチェリー人気が高まっているそうです。アーチェリーを体験したいとお考えでしたら、初心者講習を受講されてみてはいかがでしょうか。

 詳細は、佐賀市アーチェリー協会事務局(電話0952-98-3066 七田さん)に、お問い合わせください。

 <大会スナップ>

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佐賀市アーチェリー協会会長七田さんの華麗なる(?)シューティングフォーム


九電の節電要請期間が無事終了しました!

2012-09-08 | 省エネ

 昨日の20時をもって節電要請が終了しました。発電所のトラブル等があったものの停電に至るような電力不足は発生せずに無事この夏の需要期を乗り切ることができました。九電の集計によると電力需要は2010年比9.5%減で、節電目標の10%以上をほぼ達成できていたようです。

 我が家の節電実績は、7月分(6/15~7/12)218kWh(前年比-26%)、8月分(7/13~8/15)339kWh(前年比-14%)と目標達成できております。以前から省エネに取組んで相当削減していたつもりでしたが、まだまだ絞る余地はあったのですね。といってもこの夏は、大した対策は行いませんでしたが・・・。

 ただ「アンペアダウンツール:家庭用電流報知器(Aらまー)を取り付けてみました」で書いた「Aらまー」なるものを取り付けたくらいです。元々は電力が切迫した時に九電から携帯メールが送られてくるようにしておりまして、この時に設定アンペア数を一時的に落として節電に協力しようとの思いで導入したものです。

 現在の契約は60Aですが、「Aらまー」は40Aに設定しております。この設定ですとIHを二口ONすると確実に警報が鳴り出します。IHと電子レンジの同時使用も警報です。しかし、これが結構効果的だったのかも知れません。リミッターは60Aなのでトリップすることは無いのはわかっているのですが、警報音が鳴ったという心理的なものが大きかったように思います。

 過去60Aのリミッターを数度落としたことがありますので、アンペアダウンに今一踏み切れなかったのですが、「Aらまー」のお陰で60A⇒40Aへアンペアダウンしてみようという気になってきました。うっかり電化製品の同時使用しても、電気を使い過ぎれば警報が鳴ってくれるので一々気にせずスイッチONできます。

 ということで無事節電の夏が終わったことは何よりでしたが、この節電の機運が永続的に続くことを願います。


一票の格差を是正するまで解散なし?

2012-09-08 | 政治・経済・社会

 今朝の民放テレビ番組に出演していた民主党の仙石政調会長代行から「違憲状態のまま解散・総選挙はできない」といった趣旨の発言がありました。

 「早期の総選挙実施を!!」で危惧していたことが現実のものとなりつつあります。しかしながら、この時期にこのような発言が出てくることの真意は如何なるものでしょうか。お調子ものの軽薄な議員であれば本音がポロリといったことでしょうが、仙石氏ともあろう方が見え透いた失言をするものでしょうか。

 代表選へ向けての牽制球でしょうか、それとも今後開催されるであろう臨時国会へ向けての発言なのか、色々と憶測が可能であるように思います。その後の議論においても、ことによっては0増5減で決着を図ることもあり得るとの趣旨の発言もありました。特例公債法案の成立と引き換えに0増5減でといった誘い水とも考えられます。

 野田首相は、有利な解散のタイミングを計っているものと思われますが、この仙石氏の発言は、解散権に対する牽制ともなります。今まで、解散するタイミングは何回かあったように思いますが、何れも先送りされてきました。しかし、選挙を先延ばしすることが必ずしも有利とは限りません。もう皆さん選挙モードに突入しておりますし、先送りしている間に維新の会などは着々と準備を進めてきており、既に無視できない影響力を持つどころか、既成政党を引きずり回す位の勢いがあります。

 確かに一寸先は闇とは言いますが、政治に関わる方々が天佑や神風に期待する状況は見るに耐えないものがあります。そのようなお考えで政治をしているのであれば、即刻退場願いたいものです。そして、一票の格差是正も出来ずに任期満了の解散になってしまうなどといった醜態だけは晒さないように願いたいものです。


原子力規制委員の首相任命について

2012-09-06 | 政治・経済・社会

 本来、国会同意人事である原子力規制委員会の委員長及び委員を首相が任命する方針を固めたとの報道がありました。国会の会期末の8日までに同意が得られないため首相が任命権を行使する模様です。

 このように国民にとって非常に重要な人事を放っておいて、国会議員各位は代表や総裁選びに現を抜かしております。一票の格差是正、特例公債法案、その他の重要案件も同様にです。

 特に、原子力規制委員会の委員は今後の原子力安全に関して重要な役割を担う機関です。それをドサクサに紛れて首相の一存で任命しようとするのですから、開いた口が塞がりません。原子力安全・保安院に替わる規制機関の新設を遅れに遅らせたのは、そもそも首相に責任があるのではないですか。

 自民党も訳の判らん時期に問責決議案を提出するなど理解に苦しみます。消費税増税を民主党の手でやらせたかっただけと言われても仕方ないでしょう。

 この上は、会期末までに原子力規制委員の同意人事と一票の格差是正だけでも片付けて、サッサと解散してください。このままだと国民から総スカンを喰らいかねませんよ。


「節電塗装」に関する新聞記事について

2012-09-04 | 省エネ

 本日の朝日新聞朝刊(九州版?)に”「節電塗装」クールな知恵”と題する斉藤徹氏の署名記事が掲載されておりました。この記事中で業者談と思われるが「約115平方メートルのモルタル2階建ての場合、節電塗装は約100万円で通常より約20万円高くなるが、電気代は年間2万7千円ほど安くなり、10年足らずで相殺できる。」とありました。

 そこで九州電力の従量電灯単価21.72円(300kWh超過単価)で計算してみますと、1243kWhの削減に相当します。我が家(当時5人家族)で省エネ活動をする以前(平成17年)の年間電力使用量が5704kWhでしたので、これと比較すると約21.8%の削減です。ちなみに、省エネ実施後の翌平成18年の年間使用電力量は、約24%減の4334kWhでした。

 エアコンの電力使用量を全体の25%と仮定すると、年間1426kWhとなります。これだと約87.2%削減できることになってしまいます。我が家より使用量の少ないご家庭では、年間エアコンの使用電力量より多く削減できることになってしまうことでしょう。

 俄かに信じがたい数値です。どこから出てきた数値だか気になります。たまたま出てきたデータを用いているのか、多くのデータの平均値なのか、どのような条件で採取したものであるか等々を業者は説明する責任があると思います。

 「節電塗装」に関する考えは、「省エネ・節電製品について思うこと」で既に表明しているところです。この記事からは、冷房についてのみ効果があるのか冷暖房を通して効果があるのか読取れません。暖房に効果があるとすれば如何なる理屈によるものなのか。もし冷房のみの効果だとすれば、とんでもなく素晴らしい効果だと思われます。

 以上、ザット計算してみただけですので、確定的なことは言えませんが、何となく釈然としない記事でした。勿論、私の考えですので、間違いもあるでしょうし、誤解もあるでしょう。できましたら、お詳しい方のご批判、ご反論をお待ち致しております。


解散権は首相の大権と言いますが・・・(2)

2012-09-03 | 政治・経済・社会

 「解散権は首相の大権と言いますが・・・」で述べておりますように、憲法第7条による解散は抑制的であるべきと考えます。しかし、行政府と立法府が対立しており、国民に信を問うべきさしせまった状況であれば、第7条による解散も認められると考えます。

 例えば、現在のように衆参がねじれている状況において、衆議院は通過したが参議院が否決したりした場合には、行政府が必要とする法案が成立しなくなります。内閣は妥協の道を探るか、法案を断念しなければなりません。衆参がねじれているのは、選挙時点での国民の意思でありますから、行政府はその意思に従うといったことかと思います。

 しかし、内閣がどうしても成立させたいと考えるものでしたら、国民に信を問うことが民主主義に適うことであると考えます。参議院を解散することは出来ませんし、衆議院で3分の2以上の賛成を得ることにより、衆議院が優越するという憲法第59条の規定があるわけですから、これを目指して衆議院を解散して国民に信を問うことには理があると考えます。小泉元首相が、郵政改革法案が参議院で否決された直後、衆議院を解散した時には、奇異に感じたものですが、改めて考えてみると急迫性があったかどうかは別として、至極真っ当なことに思えてきました。

 法案が宙に浮き行政府が予算執行できず国民生活に多大な影響を及ぼそうとしているこの時期に解散せずして、民主党政権にとって如何なる大義名分があるというのでしょうか?

 テーマには関係ないことですが、報道によりますと、民主党の前原政調会長が講演会において「政治経験の無い人がいっぱい出てきて議席を取ったらこの国の政治はどうなるのか」と言ったとか。前々から不用意な発言が多い方だと思っておりましたが、何とも子供じみた薄っぺらな方だと改めて思いました。(参考:「エンドレスが強制終了とは」) 多くの人が、前原氏がご心配なさっていることを民主党そのものに感じているということを指摘しておきたいと思います。