近代農法は、自然の恵みを享受していると言えるのか?
先に、「農業と省エネルギー」で農業におけるエネルギー収支について言及しておりますように、近代農法においてエネルギーベースで考えるならば、投入エネルギーの方が産出エネルギーを上回っております。太陽の恵みを受けても産出エネルギーが少ないのです。「植物工場(野菜工場)」ともなれば、もっとエネルギー収支が悪化します。これでは、エネルギーが枯渇してしまえば農業すら持続できなくなってしまいます。
そこで注目されるのが自然農(参考:「自然農について」)です。自然農においては、農薬はもとより肥料さえ用いません。ではどのようにして植物は栄養分を得るのかといった疑問にぶち当たります。自然農を理解する上では、この問題を避けて通れません。ですから、非科学的な理屈(「農業の常識は、自然界の非常識」、「農業の常識は、自然界の非常識」-その2)が跋扈する一因ともなり、ますます自然農に対する理解が得られないような状況になっております。
自然農をやっている畑で発生する色々な出来事を通して様々な考えが出てきますが、まだまだ納得するには至っておりません。ただ少なくとも言えることは、畑から取り出したものは、何らかの形で補ってやる必要があるということです。自然においては、持ち出すということが行われておりませんので、補ってやる必要もないのです。そこでは永続的に循環が行われております。しかし、農業においては収穫が行われ、人の用に供されます。人が介入することで循環が断ち切られてしまうのです。
慣行農法では、その補いが無機肥料であったり有機肥料である訳です。肥料を製造するエネルギーは、無機肥料>>有機肥料でしょう。ですから有機農法は、肥料という点からすれば省エネ農法といえます。
自然農において補う場合には、有機農法のように堆肥化したものをすき込むようなことをせず、ただ土の上に置くだけです。これは自然の営みのあり方そのものといえます。動物であれ植物であれ生を終えたら、大地の上に横たわり自然に朽ちていきます。これが土壌と一体化して次なる命の糧となります。有機物(動植物の死骸)は、小動物や微生物の働きによって分解され、土壌の一部となっていきます。ですから、人が出来る役割は、畑の営みから人が持ち出したものを補ってやることです。例えば、家庭で生ずる生ゴミをそのままの形で土の上においてやることです。このことが不衛生ということであれば、コンポスト化したものでも構いません。そうすれば、自然の営みでのなかで循環させることができます。そこには、外部から新たなエネルギーを供給する必要がありません。
自然農と有機農法を含む慣行農法の最大の違いは、不耕起(参考:「耕さない農業」)ということでしょう。有機農法ですら耕すことは常識とされています。しかし、大自然においては、人が耕すことなくチャント植物が生長しているではありませんか。自然農は耕すことを否定することから始まります。そこでは耕すための機械や燃料すら必要ありません。
これらの点より、自然農は究極の省エネ農法であると考えます。エネルギーや資源が枯渇してもなお存続可能な農業のスタイルとなり得ます。例え生産性が落ちようとも、最も環境にやさしい農法であることは疑いようがありません。今後、大いに普及させるべきかと考えます。
<参考> 「ニセ科学とどうつきあうか」「省エネ農法~自然農ことはじめ」