山浦清美のお気楽トーク

省エネ、農業、飛行機、ボウリングのことなどテーマ限定なしのお気楽トークができればと思っております。

究極の省エネ農法~それは自然農にあり!

2013-12-28 | 省エネ

 近代農法は、自然の恵みを享受していると言えるのか?

 先に、「農業と省エネルギー」で農業におけるエネルギー収支について言及しておりますように、近代農法においてエネルギーベースで考えるならば、投入エネルギーの方が産出エネルギーを上回っております。太陽の恵みを受けても産出エネルギーが少ないのです。「植物工場(野菜工場)」ともなれば、もっとエネルギー収支が悪化します。これでは、エネルギーが枯渇してしまえば農業すら持続できなくなってしまいます。

 そこで注目されるのが自然農(参考:「自然農について」)です。自然農においては、農薬はもとより肥料さえ用いません。ではどのようにして植物は栄養分を得るのかといった疑問にぶち当たります。自然農を理解する上では、この問題を避けて通れません。ですから、非科学的な理屈(「農業の常識は、自然界の非常識」「農業の常識は、自然界の非常識」-その2)が跋扈する一因ともなり、ますます自然農に対する理解が得られないような状況になっております。

 自然農をやっている畑で発生する色々な出来事を通して様々な考えが出てきますが、まだまだ納得するには至っておりません。ただ少なくとも言えることは、畑から取り出したものは、何らかの形で補ってやる必要があるということです。自然においては、持ち出すということが行われておりませんので、補ってやる必要もないのです。そこでは永続的に循環が行われております。しかし、農業においては収穫が行われ、人の用に供されます。人が介入することで循環が断ち切られてしまうのです。

 慣行農法では、その補いが無機肥料であったり有機肥料である訳です。肥料を製造するエネルギーは、無機肥料>>有機肥料でしょう。ですから有機農法は、肥料という点からすれば省エネ農法といえます。

 自然農において補う場合には、有機農法のように堆肥化したものをすき込むようなことをせず、ただ土の上に置くだけです。これは自然の営みのあり方そのものといえます。動物であれ植物であれ生を終えたら、大地の上に横たわり自然に朽ちていきます。これが土壌と一体化して次なる命の糧となります。有機物(動植物の死骸)は、小動物や微生物の働きによって分解され、土壌の一部となっていきます。ですから、人が出来る役割は、畑の営みから人が持ち出したものを補ってやることです。例えば、家庭で生ずる生ゴミをそのままの形で土の上においてやることです。このことが不衛生ということであれば、コンポスト化したものでも構いません。そうすれば、自然の営みでのなかで循環させることができます。そこには、外部から新たなエネルギーを供給する必要がありません。

 自然農と有機農法を含む慣行農法の最大の違いは、不耕起(参考:「耕さない農業」)ということでしょう。有機農法ですら耕すことは常識とされています。しかし、大自然においては、人が耕すことなくチャント植物が生長しているではありませんか。自然農は耕すことを否定することから始まります。そこでは耕すための機械や燃料すら必要ありません。

 これらの点より、自然農は究極の省エネ農法であると考えます。エネルギーや資源が枯渇してもなお存続可能な農業のスタイルとなり得ます。例え生産性が落ちようとも、最も環境にやさしい農法であることは疑いようがありません。今後、大いに普及させるべきかと考えます。

<参考> 「ニセ科学とどうつきあうか」「省エネ農法~自然農ことはじめ


今こそ兼業農家を始めよう!

2013-12-27 | 農業

 「国が言うことなすことの反対をやっていれば道を大きく誤ることがない。」とは誰が言ったか知りませんが至極名言なのではないでしょうか。

 今政府は、減反政策を廃止し、兼業農家への補助金をなくし、兼業農家を撲滅しようとしております。(このような政策をとっても兼業農家がなくならないのは「なぜ兼業農家を続けるのか(1)」で既に述べた通りですが・・・。)

 こういう時こそが兼業農家を始める絶好のチャンスです。誰に対しても何のはばかりもしがらみもなく、大手を振って農業ができるではないですか。

 とは言うものの、元々儲からない農業にいきなり参入するといったことはかなり無謀なことだと思います。このようなことに人生や社運を賭けて参入すべきではありません。ただでさえ儲かりそうな分野に参入しても難しいのに、農業への参入ともなると落ち目の企業が手を出しても大火傷して命取りになるだけです。本業がシッカリしていてこその新規ビジネスです。

 最初は家庭菜園の延長(「TPPについて(20)-強いものが生き残るのか、生き残ったものが強いのか?」)といわれても良いではないですか。先ずは家庭菜園の一区画や田んぼ一枚でも借りて、実際の農業の楽しさ・辛さを味わってみましょう。先進成功例(?)を見学したりして判ったようなつもりで事業計画をしたらとんでもない結末を迎えてしまうでしょう。

 特に中高年で定年退職後や転職で農業を検討されておられるのであれば、先ずは兼業農家となることをお勧めします。現職のまま農業に親しんでみてください。数年間農業体験をしてからでも決して遅くはないと思います。

 参入にあたっては、出来るだけ出費を控えましょう。農地を買うお金があるくらいだったら農地を借りましょう。自然農(「自然農について」)というやり方があります。これでしたら耕作放棄地を探しましょう。一般的には放棄地は耕作に適さないように思われておりますが、自然農を始めるにあたっては、優良農地よりも耕作放棄地の方がむしろ適することが多いと思います。今だったらただ同然で借りることができます。それから自然農においては、トラクターや耕耘機などの高価な農機具は必要ありません。肥料や農薬も使いません。浮いたお金は運転資金に残しておきましょう。

 そして、ニワトリなどの家畜も飼って、できるだけ自給自足的生活を目指します。余剰の農産物は販売するようにします。販売にあたっては、組織の力など借りずに独自の販路を開拓しましょう。農業で喰っていけるようになった暁には、堂々と専業農家として自立しましょう。

 今まで兼業農家が耕作放棄地の増加に一定の歯止めをかけてきましたが、もうこれも限界にきつつあります。これからは、兼業農家として新規参入者が耕作放棄地を再び耕作し、この中から自立した専業農家が生まれる可能性に賭けるしかないように思います。

 兼業農家は、決して撲滅する対象ではありません。兼業農家が実績を積むことによって兼業農家の社会的役割を再認識させようではありませんか。

 このように中高年が新規参入する場合には、兼業農家からスタートする方が無難であると考えます。(いい歳こいて失敗はできないのだから)

 農業に夢を持って参入される若い方々に対しては、大いにエールを送りたいと思います。若いのだから失敗を恐れず果敢にチャレンジしてみてください。

 企業がビジネスとして参入される分には、農村のルールを守っていただけるのであれば、どうぞご勝手にということですが、引き際だけは既存農家の迷惑にならないようにお願いするのみです。

<参 考> 「兼業農家のネットワーク


諫早湾干拓事業について思うこと(2)

2013-12-20 | 政治・経済・社会

 結局、国は開門賛成-反対両派の話し合いによる解決という立場から一歩も踏み出すことなく開門調査の確定判決による実施期限の満了を迎えてしまいました。

 「諫早湾干拓事業について思うこと」で指摘しておりますように、そもそも同干拓事業事業を開始したのは国なのです。本音からすれば開門調査を行い漁業被害が認められるような結果が出ることは是が非でも避けたいところでしょうし、それに繋がるような開門調査も実施したくないところでしょう。反対派からの開門調査差し止めの仮処分が提起されたことに対して、国に責任が及ぶ漁業被害の発生を主張しなかったのもこの路線に従ったに過ぎません。その結果、矛盾した司法判断となったともいえます。

 これを勘繰れば、開門調査の確定判決をうやむやにする法廷戦術であると見ることができるでしょう。そして開門賛成派-反対派間の双方を司法の場で争わせることにより、双方を疲弊させ、うやむやの内に収束させてしまおうといった魂胆に見えなくもありません。

 干拓事業やダム建設などの大規模公共事業は、地元住民をはじめ様々なものに対して多大な影響を与えます。自然環境に対しても非可逆的な影響を及ぼす可能性もあります。事前の周到な影響調査の必要性は言うに及ばないことでしょうが、その後に予期せぬ事象が発生することもあるでしょう。このような場合には、事業の実施主体に第一義的な責任があることも言うを待たないことでしょう。そういった意味においても、今回の国の姿勢には合点が参りません。


日本の農産物が海外で売れると言われておりますが?

2013-12-18 | 農業

 高品質の農産物は少々高くても海外で飛ぶように売れているとマスコミ等で喧伝されております。しかしながら、この事実をもって将来の日本農業の望ましい方向性を指し示していると言えるのでしょうか?

 第一に、海外でそんなに多くのマーケットが存在するのでしょうか。富裕層向けといってもたかが知れているでしょう。極一部の生産者を潤すことはあっても、日本全国の生産者を潤すとは到底考えられないことです。

 第二に、誰が儲けるかといったこともあります。これまで多くの生産地から輸出が試みられてきました。寡聞にして、生産者が大喜びをしたといった結果を知りません。その多くは日本国内の流通関連者、海外の関連者の利益とはなっても、生産者に還元されることが無かったのではないでしょうか。

 第三に、海外への輸出量が増加すれば、国内への流通量が減少します。その分を輸入農産物に依存することになります。よって、国内で流通する農産物は、国内の富裕層に廻る一部の高級農産物を除き、低品質、低価格のものが主流となるでしょう。

 このように、農産物を輸出したからといってバラ色の世界となるとも限りません。むしろ多くの消費者にとってマイナスになる可能性があることもご承知いただきたいと思います。

 今、政府が掲げている政策が100%実現できたとしても、農業が再生する可能性は限りなく低いと考えます。むしろ、政策を実現する過程において、多くの兼業農家、零細農家を排除し、より歪な農業となってしまうことにもなりかねません。私は従来から主張しておりますように、「経営規模拡大」、「攻めの農業」、「集約化農業」、「兼業農家」、「零細農家」、「趣味の農業」などなど多様性の高い農業のあり方を認め、互いの特色で相互補完することができてこそ足腰の強い農業となるのではないかと考えます。

 余談ですが、米の需要が年々減少してきております。米余りの一因でもあります。政府は米の需要喚起に消極的ともいえる政策を一貫して取ってきたように考えます。戦後の食糧難で米国から食糧援助を受けた一時期を乗り越えた後も、学校給食ではパン食のみが供されてきました。米の生産調整が行われるようになっても、やはりパン食が主流であることに変わりがありませんでした。私の小中学校時代では、ただの一度も米飯が供されたことはありません。このような食生活を経て成長した世代においては、パン食を愛する国民が生み出されたとしても不思議ではないでしょう。

 ついでに一言、米が高い高いといわれておりますが、私からみればパンの方がよほど高価に思われます。

<参考> 「TPPについて(13)-攻めの農業って?」「TPPについて(17)-農業の経営規模拡大の行き着く果ては?」「TPPについて(18)-六次産業化とはいうものの・・・

 


諫早湾干拓事業について思うこと

2013-12-13 | 政治・経済・社会

 開門調査せよとの確定判決と開門調査差し止めの仮処分決定によってデッドロックに乗り上げております。農水省は打つ手なしで、開門賛成派・反対派の双方から不信感が高まっている状況です。

 賛成派、反対派共それぞれの主張があり、生活もかかっているのですから、それこそ切実な問題なのです。このような状況を国は積極的に解決を図ろうとせず、ただただ手を拱いているだけのように見えます。

 そもそも干拓事業を始めたのも国ですし、確定判決も仮処分も被告は国であるのですから、国が明確に姿勢を示すことが重要だと考えます。

 ある意味、賛成派、反対派双方共に被害者なのです。国の無策、不作為は対立を煽ることにはなっても解決には繋がらず、ますます状況を悪化させるだけでしょう。

 農水大臣はTPP交渉等々でお忙しいでしょうが、両当事者と膝詰め談判するような覚悟を持って早期に問題解決を図るべきであると考えます。総理もこのような時にこそ、政治判断を行う必要があると思います。

<参考> 「諫早湾干拓事業について思うこと(2)


農地の集約化と生産性向上の限界

2013-12-12 | 農業

 農地を集約して生産コストを低減させようといった政策があります。識者からもこのような主張が度々なされております。いわば、これはこれからの農業政策の主流であろうと思われます。しかし、このような考え方は、遥か昔からありますし、大規模化や集約化は、これまでの農政そのものと言っても良いことであって、何を今更の感があります。これまでは、やり方が拙かったとのことで、これからは上手くやるそうです。

 この農地の集約化という言葉は何を指しているのでしょうか。漠然とした意味は理解できるとしても、私には具体的にどのようなこのとなのか正直言って良く判りません。私自身も大規模集約農業とか何気なく使ってきましたが、集約を色々な意味で便利な言葉として使っております。

 集約農業の場面では、資本や労働の集約といった意味で用いておりますし、農地の集約化という場面では、農地を単一の耕作者に集中するとか単一の場所に集中するとかいった意味で用いております。

 農水省は単一場所に農地を集めることを集積化と呼んでいるようにも窺えますが、集約化とも呼んでいるようでもあります。何となく集約化とはいうもののチャントした定義はないのではないかと思ったりしております。

 のっけから脇道に逸れてしまいましたが、農地の集約化といった場合には、次のような場合が考えられるのではないでしょうか。つまり、単一の耕作者に農地を集中させることと単一の場所に農地を集中させるといったことになります。

 前者の場合には、単一の耕作者に集中することとなり、経営の大規模化といったことになりますので、経営の安定化に資するといったことになろうかと思います。後者の単一場所に集中させるということは、点在している耕作地を耕作者毎にまとめ、一枚の田んぼの面積を広くするということになり、生産性の向上に資することとなります。しかし、土地を動かすことは出来ませんので、土地の耕作者間での権利の移動(所有、賃貸借など)が伴います。農地の権利関係は、相対で行われることを通例としておりますので、なかなか集約化が進展しないのが現状です。そこで、農地集約化のための機関を創設しようといった政策が進行中で、これが実現すればそれなりの効果があるのではないかと考えます。

 めでたく農地の集約化が出来たとした場合、果たして如何ほど生産性が向上するのでしょうか。一枚の田んぼの面積が広くなれば、水管理などは格段に省力化が出来るものもあるでしょうし、大型機械で効率的に作業が出来るようになります。しかし、農作業全般でみれば、様々だといわざるを得ません。一台の機械の能力には、自ずと限界があります。農作業は時間との勝負ですから、足りないとなれば機械の台数を増やさざるを得ません。それと共にオペレーターも必要になります。ということで生産性は一定面積を超えると頭打ちになるような性質を持っております。例え、機械操作を完全自動化したところで、頭打ちになる面積が広くなるだけで事情は同じです。また、肥料や農薬の使用量は、面積に比例しますので面積の広狭による生産性にはあまり影響しないものと考えられます。

 ですから集約化するにしても広ければ広いほど良いといった考え方は如何なものでしょうか。集約するにしても適正規模があってしかるべきだと考えます。それが1haなのか20haなのかは判りません。それは農業経営者が決定することであって、政府は農業者が集約し易い環境整備をすることが重要だと考えます。但し、中小零細農家に皺寄せが行かないような配慮も同時に行う必要があります。

 以上から、農地の集約化による生産性の向上には限界があります。技術革新によってこの限界面積を広くしていくことは可能でしょう。しかしながら、常に生産性の向上と投資のトレードオフを意識しなければなりません。

 一方で、単位面積当りの生産量自体にも当然限界があります。これはむしろ小面積の零細農家の方が高い場合が多いでしょう。大規模農家の場合には、効率を追求するあまり作物管理が希薄になる可能性があります。従って、農地の集約化と生産量との間には相関性が低いのではないかと推測されます。このように農地の集約化によって販売量はさして増大するとは考えられません。結局、販売額は販売単価に依存することになります。

 結論として、生産性の向上は頭打ちとなり、販売額は単価次第ということになれば、農業経営的には米価に依存しているといわざるを得なくなってしまいます。貿易が自由化されれば、米価は低落するでしょうから、いくら生産性が向上しても太刀打ちできない局面が必ず訪れます。政府としては、そのような場合をこそ想定して農業政策を策定しておく必要があるのではないかと考えます。

<参考> 「TPPについて(17)-農業の経営規模拡大の行き着く果ては?

 


「嘘つけば嘘が嘘よぶ見苦しさ」

2013-12-11 | 川柳

 都議会が始まり質問の矢面に立たされ、大汗をかき、しどろもどろの答弁を繰り返している都知事であります。視ていて何とも見苦しい限りです。あたかも嘘がばれて親から叱られているときの子供のようです。嘘に嘘を重ね、嘘と嘘の間に矛盾が生じ、切羽詰まって仕舞いには泣き出してしまいます。

 5,000万円もの大金を初対面の人から、無利息、無担保、無期限で借りたなどということ自体が無理筋の言い訳ですから、何とも為し難いものがあります。万々一、本当に借用が事実であったとしても、世間常識からすればあり得ないことに映ります。政治家として、この時点でピンとこなかったことだけでもアウトでしょうし、ましてやノンフィクション作家として利権構造のことは知り尽くしていたでしょうに。もうこれだけで都知事としての信頼を失い、求心力も急激に低下します。もちろん再選は望むべくもありません。要は政治家としては、既にお仕舞いなのです。なのに何故そこまで都知事の職にこだわるのでしょうか。引くに引けないしがらみでもあるのでしょうか。


なぜ兼業農家を続けるのか(8)

2013-12-10 | 農業

 ここまで書いてきて、何となく虚しさを感じてしまいました。そもそも何でこんなことを書かなければならないのでしょうか。兼業農家である私は、自分の置かれた立場で農業を営んできているだけなのです。不道徳なことをやっているのでもなく、ましてや不法行為をしているのではありません。それをとやかく批判されるいわれはないと思います。我が日本国は自由主義経済を標榜しているものです。公共の福祉に抵触しない限り、経済活動の自由が保障されております。

 農業が甘やかされているからですか。それとも補助金をもらっているからですか。そんなに羨ましいとお思いならば、どうぞ農業に参入してください。大歓迎です!!!

 農業には参入障壁があって、新規参入は難しいではないかと仰います。「TPPについて(14)-農業への新規参入の難しさ」「TPPについて(15)-農業への参入障壁とは?」で指摘している通り、それは単なる思い込みに過ぎません。どのような仕事であれ、新規参入、新規立上げは、並大抵のことではありません。そのような覚悟もなしに識者は、所詮他人事として色々とあげつらいます。そして自説に対する責任もお取にならないようです。

 ある時は、「高品質の農産物は高く売れる。」、またある時は、「こんな高い農産物を消費者は買わされているのだ。」と。とても同じ人から出た言葉とも思えません。番組制作サイドの意図に合わせて、変幻自在に主張を変えます。面白おかしく批判するのが飯の種。これもコメンテーターなるものの宿命でしょう。政治家だって似たり寄ったりでしょう。選挙の時だけは上手いこと言い逃れて、やることなすこと正反対のことばかりといった議員も多いものです。このような人種の言説に惑わされて右往左往するのも馬鹿馬鹿しい限りです。

 ということに気付きましたので、未だ書き足りない事柄があったのですが、この件でこれ以上書くのは止めにします。気分が変れば、また書くかも知れませんが・・・。

 最後に、将来の農業については、暗澹たる思いしか持たざるを得ないということを申し添えておきます。

 私は、ただ我が道を行くのみです。

 「なぜ兼業農家を続けるのか(7)」へ戻る。


なぜ兼業農家を続けるのか(7)

2013-12-09 | 農業

 これまで延々となぜ兼業農家が絶滅しなかったのかということを述べてきました。しかし、今後はどうかということは何とも推測不能です。経済的なことで絶滅することはまず考えられないでしょう。ただ、後継者が無いことが最大の問題であると思います。私の場合には、男子3人の子供がおりますが、それぞれに職業を持ち家を離れております。私の両親がそうであったように、常々「仕事と結婚相手は自分自身で決めろ!」と言ってきました。私自身は農業が嫌で家を離れました。しかしながら、紆余曲折あっても農業に戻ってきました。我ながら不思議に思うことがあります。農家に生まれた者のDNAに刷り込まれたものなのでしょうか。であれば今後とも農業が衰退することはないと考えられます。

 しかし、どうもそうではないようです。後天的な事由によるものが大いに影響しているものと思います。経済的理由もその一つでしょう。経済的に有利であれば参入者も増加しますし、不利であれば減少します。しかし、兼業農家の場合には、先述の通り経済合理性を超えたところに、その理由を見出します。少なくとも私共の世代が現役でいられる後15年位は。

 私が生まれた昭和30年前半までは、未だ前々世代いわゆる明治・大正生まれが現役世代で、世帯の実権を掌握しておりました。「百姓の子は百姓。学問はいらない、余計なことは考えず身体を動かせ。」といった考えの下に育てられました。また、村落共同体の一員として生活していく術も教えられております。ですから、人格形成上多くの部分にこれらの考え方の多大な影響を受けております。

 このような中でも、社会的、経済的要因で大きく農村も変化してきました。新しい息吹きの影響を受けてか、百姓の子が百姓を嫌がり家を飛び出すことになってしまった訳です。私の親の世代では、我々よりもっと強くこのような教育の下で育っております。そして、農業を受け継いだものの社会、経済構造の大変革に直面したのです。専業農業で生計を立てることが困難になる中で、我が子に百姓になれとは言い難いものがあったのではないでしょうか。ですから、祖父世代と親世代の板挟みになるような環境で育ったともいえます。農業を離れて別の世界を見てみたいと思えましたし、一方では何とか農地を守らなければならないといった思いもありました。

 しかし、次世代に対しては、農業で喰っていけなどとは口が裂けても言えません。むしろ百姓以外の道で喰っていく道を探せといったことになります。農家に生まれながらも、農業と無縁に育っております。実際に農作業を体験したといったことは皆無ではないかと思います。このあたりに我々世代と次世代の間は、本質的に異なる点があるのではないかと思っております。これは何も私だけではなく、±10年程度の世代では多かれ少なかれ似たような状況にあるのではないかと思っております。

 このことが良い影響を与えるのか、それともその逆なのか、今のところは全く判断がつきません。我々世代には、「先祖代々の農地を守っていこう。」、「田畑を荒らすのは恥だ。」といった考え方が、心のどこかに存在しているものです。次世代には、このような考え方をすることはほとんどないものと思われます。であるからこそ、新しい視点で農業を見つめることが出来るのではないかと思ったりもします。現時点では、そこに期待をするしかないのではないかとかなり悲観的に考えております。

以下、「なぜ兼業農家を続けるのか(8)」に続く。

 「なぜ兼業農家を続けるのか(6)」へ戻る。

 


なぜ兼業農家を続けるのか(6)

2013-12-08 | 農業

 兼業農家は、新しい農業へのアプローチが可能であるといった側面も見逃せないように思います。大規模専業農家は、いわば工場の生産ラインに例えられるでしょう。米なら米を一定品質を保ちつつ大量に生産することにあります。量産効果により生産コストを低減させ、収益性を向上させます。そこでは、生産性の向上が求められることはあっても、新製品開発のような経費を増大させるようなことは求められることはないように思います。そのような時間的、経済的余裕もないでしょう。

 兼業農家は、農業以外に職業を持っております。その職業もバラエティーに富んでおり、様々な経験も持っていることでしょう。このような中で、様々なアイデアが出てくる可能性もあります。兼業農家の多くは、本質的に農業が好きである場合が多く、出来ることならば農業で生きて行きたいといった希望も持っていると思います。もし、アイデアの中で事業化できるようなものが出現すれば、専業化へ発展することも考えられます。

 さて、私はというと、まるで農業の近代化に逆行するような農業を目指しております。それは自然農といわれているもので、耕さず、肥料や農薬は用いず、草や虫を敵しないといった川口由一さんが提唱している農法です。これは環境への影響を極力低減させ、私がライフワークとしてきた省エネの方向性にも合致するものです。行く行くは稲作も自然農にしたいと願っているのですが、これは営農集団等々の村落共同体との関係もありますので、当面は慣行農法で行かざるを得ません。

 自然農の場合、おそらく経済合理性が入り込む余地はほとんど無いと思います。農地を舞台として多くの生命が育まれており、人といえどもその一員にしか過ぎず、人はその恩恵に預かっているといったことではないかと考えます。そこには、肥料を沢山与え作物を無理やり肥らせたり、作物に害をなす虫や細菌を殺すために農薬による防除をしたりすることはありません。基本は自然のあるがままに任せるということですが、種蒔き直後で作物が弱々しいときに、草に負けないようにその周りの草々をほんのすこし除いたり、作物が必要以上に弱らない程度に虫を手作業で取り除く程度の手を貸すことはあります。そして、後は作物が育つ力に任せます。ですから、水遣りなども余程の干ばつでない限り行いません。このような農法は、大規模農家や専業農家では試すことは出来ないでしょう。

 また、兼業農家は専業農家の予備軍でもあります。離職し他の収入が途絶えれば、自動的に専業農家に移行します。耕作を放棄せず耕地を維持していればこそ、何時からでもフル稼働できるようなスタンバイ状態にあります。つまり、本軍が一旦危急存亡の時には可及的速やかに援軍として活躍できる状況にあります。予備軍のない本軍だけの軍隊では、危なっかしくて仕方ないのではありませんか?

 更に、大規模農家だけの均質化した農業では、変化に対して脆弱になるのではないでしょうか。自然界には実に多種多様な生物が相互に関連しつつ存在しております。単一の生物が大量に増殖した歪な状況は長続きしません。多様性が高ければ高い程、環境変化に対する順応性も高くなるものと考えられます。農業にも大規模農家、中規模農家、零細農家、専業農家、兼業農家などなど、多様な規模、形態が存在し、相互に補完しあってこそ足腰の強い農業といえるのではないでしょうか。

以下、「なぜ兼業農家を続けるのか(7)」に続く。

 「なぜ兼業農家を続けるのか(5)」へ戻る。 


なぜ兼業農家を続けるのか(5)

2013-12-07 | 農業

 前回経済合理性について言及しましたが、全ての人が完全無比な経済合理性を追求しているのでしょうか。私は合理的な人間であるという人でさえ、その人の中には何か割り切れないものを持っていると思っております。人間は経済合理性のみに従うものではないとは思いますが、ひとまずこれに従うものとして農業というものを考えてみたいと思います。

 農家が経済合理性を追求するとしたら、単一作物の多量作付けをすることになるでしょう。これは工業製品の大量生産によるコストダウンの考え方と同様です。このためには、経営の大規模化と農地の集積が必要となります。これが今国が進めようとしている農業政策です。このことによって、農業生産物のコストが下がって収益性が向上するでしょう。一方で、価格も低下し消費者にとっても好ましいことになると。そのようなバラ色の世界を描いておりますが、果たしてそんなに上手く行くものでしょうか。

 工業製品がコスト削減して安く製造できたとしても、世の中のニーズ以上には売れることはありません。いくら価格が下がろうと必要ないものを買うことはありません。農産品といえども例外ではありません。現在でも生産過剰のところに大規模農家が大量に作付けします。確かにコストは削減するでしょうが、それ以上に価格が下落することでしょう。海外に輸出しても同様なことが起こります。日本製品は品質が良いので、いくらでも売れるといった幻想は持たない方が良いでしょう。家電製品その他の状況をみれば容易に理解できることでしょう。

 その内に大規模農家はバタバタと倒れてしまう可能性だってあります。そのあたりの事情は、既に「TPPについて(20)-強いものが生き残るのか、生き残ったものが強いのか?」でも書いております。その結果は、1993年に起こった米不足の比ではないと思いますよ。一番困るのは、生産手段を持たない消費者に他なりません。いくら金を持っていたからといっても無いものは無いのですから。1993年の時には、農家は自家消費分である保有米をも供出し、米農家もタイ米を購入しました。これは、日頃生産調整で米価を維持してもらい消費者に協力してもらっていると思っていればこそであります。近年は、農家を補助金泥棒などと呼ばわっているような状況ですので、今後は協力しようなどといった気持は失せてしまっていることでしょう。それが経済合理性ということだと言わんばかりに高額で売りさばく農家が続出することでしょう。

 そうすると再び兼業農家バッシングが始まります。「兼業農家が米を作りすぎるからだ!」とかいって、「米を作らせるな!」とでも言い出すのでしょうか。それとも、強権発動して自家消費分に貯蔵している米を取り上げるといったことにでもなるのでしょうか。過去の百姓が虐げられ続けてきた歴史が物語るように!

 経済合理性からすれば消滅し存在するはずのない兼業農家の所為にしようと仰るのは片腹痛いと言わざるを得ないと思います。兼業農家は、自由意志に従って農業に従事しているのです。強権発動などもってのほかでしょう。経済合理性を追求する自由主義国家だといいながら、いつの間にか強権的統制経済国家になってしまうではありませんか。

 このように経済合理性を追求するだけでは、不安定な状況を生み出してしまいます。何らかのバッファーが必要とされる所以です。これが米の生産調整であったのです(参考:「減反政策について」)。減反政策が終わりを迎え、今後は剥き出しの市場原理と戦わねばならないのです。結末は見えすぎるように見えていると思いますが・・・。生産者も当然覚悟をしなければなりませんが、消費者もそれなりの覚悟をしてもらう必要があると思います。

 この点、兼業農家は何ら痛痒を感じないと思います。そもそも収益を度外視(経済合理性に従わず)して農業を続けているのですから、むしろ毎年米が作れて有難い(少なくとも転作による赤字の拡大がなくなる)と感じるでしょう。米価が暴落したとしても、作付け量が少ないので大規模農家ほどの影響はありません。相も変らず自家消費分+αを作り続けていることでしょう。逆に、大規模農家が壊滅的な打撃を受けたときでも、兼業農家の存在が食糧難を救うことになるかも知れないという何とも皮肉な結果となる可能性だってあります。

 更に、経済合理性を追求するならば収益性の高い農産物に作付けが集中する傾向が生まれるでしょう。コストダウンのためには単一作物の大量作付けが必須です。では収益性の低い農産物は誰が作るのでしょうか。経済合理性に拠れば、儲からないものは作らないことになります。食卓にのる食材は、収益性の高い農産物に限られてくるでしょう。ということは高い農産物しか手に入らないし、食卓のバラエティーもなくなるといったことにも繋がります。もっとも作りすぎて価格が暴落することもあるでしょうから、その時には安いものが手に入ることになりますが・・・。

 以上ざっと述べたように、農業に経済合理性を強調しすぎるとろくなことが起こらないようです。少なくとも、兼業農家は経済合理性に従っていないというより、経済合理性そのものを否定したところから出発しているといえるのではないでしょうか。でなければ、とっくの昔に兼業農家は壊滅してしまってたことでしょう。つまり、経済合理性においては兼業農家のことなど議論する余地がなかったのです。しかし、現に存在し、その数において無視できなくなった。このことを理解するために、「補助金を目当てにしている。」などといった、そもそも無理筋の主張がなされるのでしょう。

 以下、「なぜ兼業農家を続けるのか(6)」に続く。

 「なぜ兼業農家を続けるのか(4)」へ戻る。 


自民党に対する風向きが変りつつあるのでは?

2013-12-06 | 政治・経済・社会

 強行採決を幾度も、これでもかと見せ付けられると自民党に対する期待(これは民主党政権の体たらくに対する反動でもあったわけですが)が急速に薄れるのではないかと危惧します。

 先の衆議院議員選挙で大勝し、政権を取り戻した時には、はしゃぎ過ぎ程度(参考:「小池百合子氏の断髪式について思うこと」)と思っていたのですが、近頃は昔の自民党が見え隠れしてきたのではないかと思われます。自民党下野の反省はどこへ行ってしまったのでしょうか?

 自民党に対する国民の期待は、下野したことにより古き悪しき体質から脱却し、新しき自民党として再生することにあったと思います。今やっていることは、数に物言わせた従来の体質そのもので、何ら変ることがなかったことを雄弁に物語っているように感じます。

 今回は、一旦逆風が吹き始めると、もう誰にも止められなくなる位の強風になるように思います。早めに自民党諸氏が、このことを自覚されることを切に願うものです。


なぜ兼業農家を続けるのか(4)

2013-12-06 | 農業

 なぜ農業をしているかと問われれば、兼業農家云々は抜きにして私の場合には「面白いから!」としか答えようがありません。今まで色々な仕事を体験してきましたが、農業ほど面白いものはないように思われます。何がそんなに面白いかって?

 それは判りません。ひょっとすると自分が置かれた立場を正当化しようと、そのように思い込んで、いや思い込もうとしているのかも知れません。しかし、よく説明は出来ませんが、人間のというか、生き物としての何か根源的なところに根ざしているのかも知れません。

 一般的には収穫や無から形あるものを作り出す喜びなどで説明されるのでしょうが、そういったものを通り越したような何かを感じることがあるからです。苦労も多いし、報われることが少ないのも事実です。これはあくまでも個人的感覚ですので、どうぞご勝手にの世界です。

 では社会的にみて、兼業農家が存在する意義とは何かあるのでしょうか。私からすれば、面白いからやっているだけですが、世間様からみれば色々とご批判があろうかとも思います。そこで、後付ではありますけれども、少々屁理屈を捏ねてみたいと思います。

 兼業農家は一体何を作っているかというと、やはり主食である稲作が主体でしょう。稲作はかなりの部分機械化が進んでおります。また、栽培管理の標準化(?)がなされており、極端に言ってしまえば配布される営農カレンダー通りにやれば素人にも出来てしまうのではないでしょうか。農業機械も作業委託すれば所有の必要もありません。それから、当地では裏作に小麦やビール麦などを作付けしております。これも稲作と似たような手間で栽培可能です。米は自家消費部分を除いたものが流通に廻ります。小麦の場合には、ほぼ全量が流通に廻っていると思います。減反に該当する場合には、転作作物として当地では、大豆が作付けされております。このように、兼業農家の作付けは穀類を中心に行われております。

 次に、少々手が廻る兼業農家では、蔬菜類が栽培されることもあるでしょう。そのほとんどは自家消費されているものと思われます。自家消費で剰余分があれば、直売所などに流通しているものもあると思います。専業農家の場合には、単一作物を多量に作付けし、収穫後は農協経由あるいは独自ルートに出荷されていると思います。ところが兼業農家や零細農家の特色として、多品種・少量作付けが挙げられると思います。先述のように、自家消費が主目的ですから、このような栽培方法が取られているものと考えられます。

 このような兼業農家の収益構造はどうなっているのでしょうか。現在の米価からすれば、農業用の機械類(トラクター、田植え機、コンバインなど)を自己所有しかつ減価償却を考慮せず、自己ないしは家族の労務費も参入しないなど現金等で支払われる純粋な出費(種、肥料、農薬、燃料などなど)のみを参入した場合で、作付け面積にもよりますが、トントンか赤字といった状況ではないかと思います。機械類も当然のこととして、修理や買い替えが必要になります。この負担に耐えられず、離農するケースも多いと思います。作業委託といった方法もありますが、この場合には当然のこととして赤字となってしまうでしょう。人件費などを入れたら、もちろんのこと大赤字となってしまいます。

 それでもなぜ兼業農家を続けているのでしょうか。経済合理性の信奉者からすれば、狂気の沙汰としか言いようがなく、どうにも理解不能な事柄に映ってしまうのでしょう。ですから識者の多くは、何か裏があるのではないか、隠された旨味があるのではないかと疑われることになるのでしょう。

 正直言って経済的な旨味は全くありません。強いて挙げれば、新鮮で安全・安心なものが手に入るといった旨味はあります。これは何ものにも代えがたい贅沢さではないかとは思いますが・・・。

以下、「なぜ兼業農家を続けるのか(5)」に続く。

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近頃の自民党は何か変?

2013-12-05 | 政治・経済・社会

 決められない政治だと決め付けられた民主党でしたが、決めすぎに突っ走る自民党になってしまったかのようにも感じられます。そんなに急いで、この日本国をどこへ導こうというのでしょうか?

 先日、石破幹事長がデモはテロに等しいといったブログが批判を浴びました。その後の記者会見で撤回・訂正されました。その時にテロの定義についての発言が再び記者会見を開き政府見解通りに訂正されました。

 法案でのテロの定義は次の通りとなっております。以下法案から抜粋

 【テロリズム(政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう。同表第四号において同じ。)】 以上

 当初の石破幹事長の発言では、法案通り強要しただけでテロに当たるとの見解でしたが、その後政府見解と異なるとの指摘を受け、強要しただけでは足らず、人を殺傷し云々も要件として必要だとの見解に改められました。

 法律を少しでもかじったことがある方でしたら、石破見解の方が正しいことがお分かりになると思います。森雅子担当相は弁護士出身とのことですので、当然のこととしてこのことは知った上での国会答弁でしょう。法案を通すために、適当に誤魔化してしまえみたいな感覚で審議されているようにも見えてしまいます。

 テロの定義は、現在のところ他に無く、唯一の定義となりますので、今後様々な場面で一定の基準として利用されることが予想されます。一旦法律が制定されるとこの定義が一人歩きし始めます。政府見解は、あくまで政府見解に過ぎません。政府見解が変更されるとはよくあることです。このことは歴史が証明しております。

 法文の解釈としては、石破見解の通りですから、強要しただけでテロと看做されてしまうことになります。

 一事が万事と申します。世の大多数の思いは、慎重審議だと思います。このまま突っ走られると、自民党への信頼が大きく揺らいでしまうのではないでしょうか。今は景気が上向きつつあるのでしばらくは様子を見ていようといった方々も、少しでも景気が悪くなるような兆しでも見えようものなら、一気に自民党へのバッシングが始まります。その結果は、日本にとって最も望ましくない方向となってしまいます。何とか自民党の良識を発揮していただきたいものだと切に願うものです。


なぜ兼業農家を続けるのか(3)

2013-12-05 | 農業

 兼業農家が生まれる形態の第3番目です。これもありがちであることですが、元々専業農家であったものの、家族の一部が農業専従者とならずに外に働きに出ているような場合です。親は専業で子供が会社員や公務員などといったケースが該当します。実質的には専業農家と言える訳ですが、世帯収入といった側面では兼業農家に分類されるのではないでしょうか。第1、第2の形態と比較すると経営的に恵まれた兼業農家と言えるのではないでしょうか。しかしながら、この第3の形態は、第2の形態の前駆的、過渡的形態であって、早晩第2の形態で指摘した事態を迎えることとなります。

 その他にも、新規就農をしてはみたものの経営難で兼業化したり、現在は別の職業に従事しているが、将来就農予定で試験的に営農しているといったことなど色々な理由で兼業化した農家が存在すると思います。このように兼業農家と一口で言うものの、種々の形態、多くの理由があるものです。しかし、識者は「兼業農家は・・・。」と一括りで議論の槍玉に挙げてきます。その論拠の多くは、誤解・曲解、知識不足、思い込みに起因するもので、その結論において兼業農家を非難し、悪者扱いしております。何故にそこまで言われなければならないのか理解に苦しみます。そんなに旨味があると仰るならば、そのあなたがやればよろしいではありませんか。

 これまで、兼業農家がどのようにして生まれるのかをざっと眺めてきました。いよいよこれからが本論である、なぜ兼業農家を続けるのかといった議論に移りたいと思います。これにも色々な理由がありそうに思います。ですから、ここからは私自身の考えを中心に述べていきたいと思います。

 私が兼業農家となったのは、先述した第3の形態から第2の形態に移行したことにあります。義父母が農家であり、私と連れ合いは外で働いているといったものでした。義父母が他界したことにより、残された農地、みかん畑、山林をどのようにするかと課題に直面しました。

 先ず、みかん畑の方は、十数年前から耕作放棄状態でした。ですから、これ以上どうこうするもありません。山林の方は、これも十数年手入れをしていない状況です。私が佐賀に来た時分には、間伐、枝打ち、下草刈りなどが行われており、私も手伝ったことがあります。これも、とりあえず考えないことにします。問題は自宅周辺にある3枚の水田と畑、そして2km程離れたところにある水田3枚です。離れたところの水田は、親戚である大規模農家さんに貸すことができ、何とか落着しました。後は周辺の田畑です。これは、自宅敷地と地続きになっており、今まで義母が庭先野菜を栽培するなどしていた土地ですので、おいそれと貸すわけにも参りません。

 元々、老後は「豊かさって何だろう」で書いているような自給自足的な生活をしたいと考えておりましたので、「一丁やってみっか!」ということになった次第です。新米百姓の悪戦苦闘・奮戦ぶり、その後の変遷などは「農業ことはじめ」やこのブログの農業カテゴリに書いている通りです。

 本論に入るといいつつも、再び脇道に逸れてしまいました。私が兼業農家になった経緯は、先程から縷々述べてきました。そして、百姓を始めてから稲作を3回経験(1回は減反)しました。大規模・集約農業の対極を行くような、超零細兼業農家として今後も頑張って行きたいと考えております。自然農と出会い、ますますその意を強くしております。では、なぜそう考えるかに至ったかということは、次回以降ということで・・・。

以下、「なぜ兼業農家を続けるのか(4)」に続く。

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