STAP細胞に関して洪水のような報道が流され、これを受取る側からすれば報道に右往左往させられた感があります。一連の騒動の中で、科学者の良心といったものがクローズアップされてきたように思います。
我々は報道機関を通して情報の多くを得ております。そういった意味で報道機関の責任は重大なものといえます。しかし、その元ネタとなった情報を流しているのは科学者です。報道機関は、残念なことにその情報の価値を評価する能力を持っていません。
報道の情報をもたらしたのも科学者ならば、何が真実であるかを決着させるのも科学者です。
この点につき、リチャード・P・ファインマン著(大貫昌子訳)「ご冗談でしょう、ファインマンさん」Ⅱ-岩波書店の最終章の一節であるカーゴ・カルト・サイエンスといった標題のカリフォルニア工科大学1974年卒業式式辞より、その一部を長文ですが引用します。
「諸君が学校で科学を学んでいるうちに、きっと体得してくれただろうとわれわれが心から願っている「あるのもの」なのです。その場でそれが何であるかは取りたてて説明しないけれども、とにかくたくさんの科学研究の例を見て、暗黙のうちに理解してくれるだろうとわれわれが心から願っている「そのもの」です。ですから今これをはっきり明るみに出して、具体的にお話するのは有意義なことだと思います。その「もの」とはいったい何かと言えば、それは一種の科学的良心(または潔癖さ)、すなわち徹底的な正直さともいうべき科学的な考え方の根本原理、言うなれば何ものをもいとわず「誠意を尽くす」姿勢です。たとえばもし諸君が実験をする場合、その実験の結果を無効にしてしまうかもしれないことまでも一つ残らず報告すべきなのです。その実験に関して正しいと思われることだけではなく、その結果を説明できるかもしれない他の原因や、他の実験の結果から説明できるものとして省略してしまったことがらや、その実験の経過など、ほかの人にも省略したことがはっきりわかるように報告する必要があるのです。」~途中省略~「これをまとめて言うなら、他の人々が諸君の仕事の価値を判断するにあたり、その評価を特定の方向に向けるような事実だけを述べるのではなく、本当に公正な評価ができるよう、その仕事に関する情報を洗いざらい提供すべきだというのが、私の言わんとしていることなのです。」~途中省略~「こうしてわれわれは長い歴史を通して、自分自身を欺かぬ心がまえ、つまり純粋な科学的良心を培ってきたというのに、私の知っている限りでは残念ながら特にこれを教える課目というものがない。ただ何となくこれを肌で感じ、心に侵みこませることによって自分のものにしてくれることを、ひたすら念じているだけです。」~途中省略~「ですから私が今日卒業生諸君へのはなむけとしたいことはただ一つ、今述べたような科学的良心を維持することができるようにということです。つまり研究所や大学内で研究費だの地位などを保ってゆくために、心ならずもこの良心を捨てざるをえないような圧力を感じることもなく、自由に生きてゆけるような幸運を、との一念につきます。願わくば諸君がそのような意味で、自由であれかしと心から祈るものです。」-以上引用-
本来ならばこのような長文の引用は問題であるものと思われますが、物理学に感心のない方々が、物理学者の伝記など読まれることはないと思われますので、非難されることを承知の上で紹介させていただきました。(物理に興味や物理が分からないい方にも、気軽にかつ愉快に読むことができますので、是非ご一読をお勧めしたいと思います。)
上の引用中に今回のSTAP細胞騒動の核心部分が含まれているように思いますが、如何でしょうか?
発表当初は、一躍時の人となり研究内容とは全く関係の無いプライバシーまでが報道の対象とされました。このような報道の嵐に対して、私は小保方氏に同情しました。そして、掌返ししたかのうようなバッシングの嵐です。私は、このことについても同情を禁じえません。報道機関に一体どのような権利があるというのでしょうか。(税金が使われているとの考えもあるのでしょうが・・・。であったら、興味本位の報道は何だったのかと言いたい。)
科学者は科学者からの批判であれば、科学的な反論をすればそれでで良いのであって、科学者同士の議論の場で決着が図られるべきものであると考えます。本件についても、いずれ真実が明らかになるものと思います。
私にとって、生物学はほとんど門外漢ですので、この件についてあれこれ論評することはできません。というより分かりませんというのが正直なところです。そこで引き合いに出したのが、先に引用したファインマンさんのスピーチです。この中に「その評価を特定の方向に向けるような事実だけを述べるのではなく、本当に公正な評価ができるよう、その仕事に関する情報を洗いざらい提供すべき」という指摘があります。誰しも自分の主張に不利な情報は隠したいものです。これを敢えて提供すべきであるとの指摘です。これこそ真理を追究する科学者の良心そのものといえるのではないでしょうか。
私は科学者の世界に身を置いたことはありませんので、適当な例を出すことはできません。しかしながら、システム開発や新製品開発などの技術開発に携わってきた経験からも同様なことが言えるのではないかと思います。例えば、ある動作をする装置を開発するにあたって、正常動作をすることの検証は当然のこととして行われます。しかし、異常動作に対する検証は比較的疎かになってしまいます。これは、あらゆる異常を想定した検証の困難さもありますが、開発期間や費用の問題も絡んできます。従って、技術的には不十分であると思っていても見切り発車ではありませんが、製品が市場に出て行くことがあります。往々にして、このような製品が破綻的トラブルを引き起こすことになり、大きなダメージを受けることになります。営利企業においては、技術者の良心すら企業利益とのトレードオフの対象とならざるを得ません。私自身、「このような場合に体を張って抵抗してきたか」と問われれば、自信をもって”Yes”と答えることはできません。何らかの都合のよい理由を見つけて妥協してきたのではないかと思わざるを得ません。
今回は、科学者の良心の問題を扱いましたが、これは科学に限らず、様々な分野についても同様なことであろうと考えます。科学の場合には比較的黒白がはっきりしますが、他分野ではこれが明確にできないことも多いものと思われます。しかしながら、その中でもやってはいけないことなど明確な一線を引けることもあろうかと思います。そのことを良心というのか、道徳というのか、倫理というのか、そういった言葉で象徴してきたというのが今までの歴史ではなかったのではないでしょうか?
<参考> 「コピペの横行に思うこと」「個人的良心と組織」