山浦清美のお気楽トーク

省エネ、農業、飛行機、ボウリングのことなどテーマ限定なしのお気楽トークができればと思っております。

久々のシューティング

2014-01-22 | スポーツ

 先日、車庫にアーチェリーの練習場を作ったのをご紹介いたしました。本日は朝から積雪でしたので、私設練習場での初射ちをしてみました。

 久々に弓に触れるものですから、ストリングの小さい環っかはどっちだっけなどと、あれやこれや思い出しつつ長時間掛けて組み立て、いざシューティング!

 いきなり36ポンドで大丈夫かなと思いつつも、すんなりとクリッカーが切れました。昔取った杵柄ではありませんが、意外と身体が覚えているものだなーと感心してしまいました。近射で20射ほど射ち、初日はこれ位でと早々に練習を終えました。

 やはり自宅練習場があると便利ですね。ストリングを張るだけで即開始できますので、ほんの数分でも空き時間があれば練習可能です。後は継続できるかどうかにかかってますね。やはり試合に出るとかの目標が必要なのでしょうか。


アーチェリーの練習場を作りました

2014-01-21 | スポーツ

 諸事情でここ3年ほどアーチェリーから遠ざかっており、アーチェリー大会などで裏方のお手伝いをする程度でしか関わっておりませんでした。その間、練習をしたいのは山々なれど一番近いアーチェリーレンジまで車で30分ほど掛ります。弓を組み立てるなどあれこれ準備をしているとあっという間に時間が過ぎ去ってしまいます。費やした時間の割には実質的な練習時間が確保できないというのが実情で、ついつい縁遠くなってしまっておりました。

 そこで自宅に練習場を作れないかと前々から検討をしておりました。農業用倉庫に隣接してブロック壁で屋根がスレート葺きの車庫があります。車2台分のスペースがあるのですが、半分は農業用資材倉庫として使用され、その後は長年ガラクタ置き場となっておりました。これを片付ければ練習場に使えるとは思いつつも、なかなか重たい腰が上がらずにおりました。

 昨年の白蟻騒動(「大変だシロアリにやられていた!!」「白蟻駆除」)があったばかりですので、年末の大掃除で軒廻りは粗方片付けておりました。一旦掃除を始め、綺麗になった様子を眺めるのは気分が良いもので、車庫の方も放って置けなくなり、先週からやっとのことで着手したという次第です。半日あれば十分と思って始めたは良いものの積年の埃にまみれながら丸々二日掛かりの大仕事になってしまいました。

 その努力の甲斐あって、車2台分の駐車スペースとアーチェリーの練習場を確保することができました。昼間に近射だけの練習でしたら十分かと思いますが、的を照らす照明器具を設置すれば夜間練習や18mの練習が可能になります。

 長年のブランクがありますので、近射からじわじわと練習したいと思っております。いきなり36ポンドは無理かも知れませんね。筋トレ方々短時間でも毎日続けることが大切といいながらも、まだ1本も引いていないといった現実をどう捉えるべきか?

 出来上がりは下の画像のようなもので、ブロックの壁に事務所用のパーティションの廃材を3重に立てかけ、その前にダンボールを30cm厚に重ね、更にその前に古畳を2重に立てかけました。これだけあれば、よもや貫通することはないと思うのですが・・・。

Photo


みかん畑をどう活用しようか

2014-01-20 | 農業

 昨年から暇を見計らって十数年間耕作放棄されていたみかん畑の再生(開墾作業)を行っております。(参考:「畑は畑として活用を図ることにしました」「「自然農」を始めるための畑に最適!?」)

 畑2枚は何とか今年から作付けが出来そうな見通しがたちました。もう1枚の畑は竹藪と化しており、昨年末にエンドウマメの支柱にするため切り出してきましたが、面積的には1/100程度でしかありません。冬の内に粗方片付けたいとは思っておりますが・・・。

 その後、何を栽培しようかと考えあぐねておりました。元々はみかん畑ですから日当たりが良い傾斜地で、かつ灌漑設備も整っておりますので選択肢は数多くあるにはあります。しかしながら、近年イノシシが多く出没し、その被害も半端ではありません。果樹にしても鳥害等々がありますので、手が足りない中でそう簡単に栽培できるものでもなさそうです。

 そこで思い当たったのが、元々自生していたものが最も適するのではないかということです。春先にはワラビやゼンマイが多く採れます。また、タラの木も多くみられます。更に、小城市においては、山ウドの産地化を目指した取り組みもなされているようです。(余談ですが、阿蘇でパラグライダーして遊んでいた頃、パラの先生の手ほどきを受けてウドの新芽を慎重に掘り出し、マヨネーズをつけて食しました。生で食べられるとは驚きでしたが、その美味さは更なる驚きでした。)

 この産地化の動きに乗っかるのも手ですが、そこは生まれながらのへそ曲がりのひねくれ者です。そこで自生しているワラビ、ゼンマイに加え、試験的に山ブキとタラの木を栽培してみようと考えております。結局は、私の好物から選択してしまいました。

 販路や加工法などまだまだ検討することも多いのですが、とりあえず動き始めようかと思っております。何事も最初の一歩を踏み出すことが大切でしょう。考えすぎたら何にもできません。何事も気楽に考えるのが私の性格です。


相変わらず判り易い小泉元首相

2014-01-15 | 政治・経済・社会

 原発に「賛成か?」、「反対か?」と選挙の争点をぶち上げるところなどは面目躍如といったところでしょうか。

 原発事故後に実施された国政選挙では、直接的に原発問題が争われてきておりません。確か原発を積極的に推進するといった政策を掲げた政党は無かったと記憶しております。しかし、現政権においては、あたかも国民から信任を得たかのように原発再稼動に向けて突き進んでいることは明らかなことでしょう。このような状況を踏まえれば、都知事選において有権者に判断を仰ぐことは重要なことともいえます。

 ただ惜しむらくは、国政選挙ではなく、原発立地自治体でもない一自治体の首長を選ぶ選挙であることでしょう。確かに東京都は最大の電力消費都市でもあり、東電の大株主でもあります。そして、その選挙結果が国政に与える影響も大きいでしょう。となれば、都知事選の結果が全国民に及ぶことになります。果たしてそのようなことで良いのでしょうか。

 そもそも原発問題は都知事選の争点として相応しくないと考えます。当然のことながら立候補予定者は、それぞれの政策などの公約を掲げて選挙戦を戦います。細川氏も例外ではありません。原発の是非だけ問うといったことが出来ようはずもありません。有権者の考えと政策が完全に一致することなどほとんど無いと思います。ですからより近い方にといったことになろうかと思います。従って、有権者の思いと実際の政治が異なる結果となってしまうのは致し方ないことでもあります。ですから、その結果をもって原発の是非の判断とすることには疑問を感じざるを得ません。 

 このような国論を二分するような議論は、本来ならば国民投票や住民投票によるべきであろうと考えます。(参考:「原発政策決定には国民投票を!」「原発の運転再開は住民投票で!!」)

 ですから、小泉元首相が国民投票や住民投票の実施を呼びかけるということであれば諸手を挙げて賛成します。しかし、都知事選を絶好のチャンスと捉えられたかどうかは知りませんが、今回の件はどうにもいただけないように思います。

 されど、これを契機として原発問題に関する議論が深まることは良いことではないかとも思います。

 私自身は「原発をどうすべきか」で書いておりますように原発問題に対して、未だに明確な見解を持てずにおります。


スマホで自動車をリモコン?

2014-01-08 | 政治・経済・社会

 スマホから自動車をリモコン操作する開発が進み、間もなく実用化される見通しであることが報道されておりました。具体的な利用法として、「ドアの開閉」、「エンジンの始動・停止」、「車庫入れの運転」などが例示されておりました。

私などは、「スマホなどによる家電の遠隔操作について」で書いているのと同様に、その必要性を疑ってしまいます。あれば便利かなとは思いますが、どうしても必要な機能だとは思いません。

 特に、自動車に場合には家電などと異なり、用い方を誤れば走る凶器にもなりかねません。走行をサポートするための補助的なものであれば、例え間違った操作をしても大したことはありません。しかしながら運転操作そのものを制御するようなことにまでスマホを利用した場合には、重大な結果をもたらす可能性を否定することはできません。

 これまでは、このような危険性を伴うような制御を行うような場合には、専用のシステムが構築されてきました。それでも様々な問題を惹起してきたことを思い起こしましょう。コンピューターを含む電子機器は、ノイズなどの外部要因やソフトウエアのバグなどの内部要因で誤動作を起こすことがあります。このような制御系だけでクローズしたシステムですら誤動作する可能性があるのに、スマホのようにネットに接続するような端末でもってシステムを構成するとなれば誤動作の可能性を大きく引き上げることになります。下手をすれば、ハッカーにスマホを乗っ取られ自動車が一斉に暴走を始めるなどといったことにもなりかねません。

 いくら安全性を向上させたからといっても完全無欠なシステムを実現できるはずもありません。なにがしかの危険性を伴うことを承知した上で利用する必要があります。

 自動化を追及するとそれにつれて人間の能力が低下してきます。運転免許を取得する際には、得手不得手の違いがあろうと一定のレベルには達していたでしょう。ですが使わない能力は衰えます。スマホが常に使えるとは限りません。いざと言う時には日頃の技量がものをいいます。最後は人間の操作に頼らなければならない状況が必ず発生します。このような時にお手上げでは何とも情けない話です。それよりも運転技能を向上させることに重きを置く必要があるように思います。でなければ人間の能力は退化に退化を重ね、もはや機械なしには何も出来なくなってしまうでしょう。

 話が飛びますが、私が大学に入学した時にある物理学者から言われた言葉を思い出します。「君達は物理を学んでも学者にはなれないだろう。君達が物理を学ぶのは、砂漠や太平洋のど真ん中に独り取り残された時のように、計算機はおろか紙も鉛筆も何も無いなかで、現象を観測し、分析し、推測し、行動する術を得るためなのだ。」といった趣旨のことでした。それは将来社会に出たときに遭遇するであろう諸問題に対して、それぞれの立位置で独力で解決していく能力を物理を通して学びなさいといったことと受け取りました。そのご期待に沿えたかどうかは判りませんが、それに近づくべく現在も努力中であります。

 あれが無いと出来ない。これが無いと出来ない。と繰言ばかりいってても何の役にも立ちません。置かれた状況の中で、何が出来るかを考え、実行していくことが大切なのではないでしょうか。

 


おくんち祭りに向けて-初寅

2014-01-07 | ブログ

 天山神社のおくんち祭りの起源は、約400年前の江戸時代に遡るそうで、佐賀藩藩主が戦勝祈願成就の参拝をおこなったことが起こりとされ、毎年九月十五日(旧暦)に行列を整え参拝することになったとのことです。後に晴田地区の氏子が藩主の代参を行うようになり、氏子から選ばれた「殿」は、参拝当日は佐賀36万石の大名としての格式が与えられたそうです。明治に入ってからは、大名行列も浮立に変って現在に至っているとのことです。

 以前「今日は「おくんち」です」で書いておりますように、10年に一度、浮立奉納の担当が巡ってきます。そして、今日は一連の注連元(しめもと)行事(くんち祭も注連元行事のひとつ)の最初である「初寅」が執り行われました。「初寅」は、年が明けた最初の寅の日に、注連元の代表である殿様(大殿様、小殿様)を決定し、その殿様を中心に注連元が、くんち祭の浮立を奉納することを誓う神事のことです。

 10年前のおくんちでは、亡くなった岳父が「小殿様」となっておりました。当時は、おくんちの意味も漠然としか理解しておりませんでした。自分で色々な行事に主体的に参加するようになって初めて、行事の云われなどを知り、一段と伝統の重みを感じるようになったと思います。

 ちなみに、今年の「くんち祭」は、10月12日となっております。三連休の中日の方もいらっしゃるでしょうが、一度「浮立奉納」をご覧になられては如何でしょうか。


変化することは大切なこと?

2014-01-05 | 政治・経済・社会

 ”Change”というスローガンを掲げてオバマ大統領は選挙キャンペーンを繰りひろげました。「変化」、「変革」という言葉は何とはなしに魅力的に思えます。

 啓蒙書などでも「変化せよ!」といったニュアンスのことが書かれております。「変化しないこと=停滞」という主張でしょう。様々な点において向上しなさい、努力しなさいといった意味のことではありましょうが・・・。

 識者から社会の問題点が指摘され、ここをこう変えろと変化を求めます。これなどは一部の利益代表だったりすることがありますので、主張の背景を見据える必要があります。

 このように変化変化の大合唱が聞こえてきます。しかしながら、「変化」ってそんなに大切なことなのでしょうか。変化しないことって、そんなに悪いことなのでしょうか?

 ここで視点を変えてみると、「変化しないこと=安定」とも言えます。昨日があって、今日がある。そして明日も相も変らず同じようにある。これって当たり前のように思っておりますが、とても大切なことですよね。

 近年、異常気象云々が盛んに報道されております。平年と比べると気温がどうだ、降水量がどうだと、こちらの方は変化すると大騒ぎになります。

 種々の社会システムや政策が変化するとこちらも大騒ぎになります。消費税が導入されて大騒ぎ。医療制度や年金制度が変ると大騒ぎとなります。

 同じことについてもその時期やおかれた状況によって正反対に考えてしまうことすらあります。まるで変化と安定との間を往復する振り子のようにも思えます。安定している時には変化を求め、変化しすぎると安定を求めるといった、無いものねだりをしているようにも見えます。

 若い時には変化を求め、歳をとると安定を求める。受験地獄でゆとり教育が主張され、学力が落ちたとゆとりが否定される。ガチガチの統制社会だと自由を求め、自由過ぎるとなにがしかの統制を求める。政治も右へ左へ行ったり来たり。色々な対極の間を色々な時間軸の間で一過性のの運動だったり、往復運動をしているようにも思えます。

 そうかといえば両極を嫌い中庸が良いと唱えるものまで現れる。一体全体何を求めているのか。変化を求めているのか、それとも安定を求めているのか時として判らなくなってしまいます。

 このような状況の中で日々生活しなければなりません。生活者にとって急激な変化は困りものです。過去急激な環境の変化が多くの種を絶滅に追い込みました。しかし、環境の変化に対応できたものだけが生き残り繁栄してきたというのもまた事実でしょう。変化の無いところに進歩も無いと言えるかも知れません。

 現時点では、変化することとだけに唯一の価値を求めることが正しいことなのかという視点をもって考える必要性があるのではないかと思えます。


謹賀新年(2014)

2014-01-01 | ブログ

 新年あけましておめでとうございます。

 新年を迎え、何事も新たな気持で取組んでいこうと意気込んでおります。昨年は、TPPや減反廃止問題等々で農業ネタが多くなってしまいました。今年は専門の省エネネタも多く取り上げて行きたいと思っております。

 政府は原発をベース電源と位置づけ、今後も活用をしていこうとの方針を打ち出しております。原発再稼動は既定方針であるかのような動きを見せております。原発事故後の多くの国民の思いはどこへ行ってしまったのでしょうか。

 とはいうものの安定した電力供給は、国民生活にとって欠かせないものです。原発の是非を議論するに際しては、単にヒステリックに反対を唱えるのではなく、代替案の提示が不可欠です。原発と代替案との比較考量が必要で、これなしには議論のしようがありません。あたかも憲法第9条の議論(参考:「憲法第9条について」)と同じように、賛否両論が常にかみ合わず、空疎な主張の応酬となってしまいます。

 また、TPPについても参加は確定的なようですので、その対応策としての農業の大規模化が環境に及ぼす影響は無視できないようになると思われます。これらについても考えてみたいと思っております。