鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

古代ギリシャ語σπλάγχνον(内臓)の派生語である「あわれむ、あわれみ」について(増補)〜古代ギリシャ人の認識を古典ギリシャ語に視る〜

2017-06-06 11:39:45 | 古典ギリシャ語・ドイツ語
古典ギリシャ語では、δπλάγχνον(スプランクノン=内臓)の派生語として「あわれむ、あわれみ」があるということに、古代ギリシャ人の認識の豊かさがイメージされる。

『臓単』(原島広至著 NTS)のコラムで、「古代ギリシャ人は、「はらわたが揺り動かされるほどの感情、心の内奥から沸き起こる感情」という意味で、スプランクノンの派生語が「あわれみ、あわれむ」を意味するようになった(まさに「断腸の思い」である)。」と書かれてあった。

これは、古代ギリシャ人が大変豊かな厚みのある像を、それゆえに豊かな感情を持っていたということの証左である、と思える。

それゆえに、古代ギリシャの哲学者の、プラトンにせよアリストテレスにせよの説くことを、現代の我々のほとんどが説く如くの薄っぺらなものとしてはならないのだ、と思える。

それだけに、我々が古代ギリシャの、あるいは古代中国の文献を読む時には、そのようなものとして読むのでなければ、古代ギリシャや古代中国の、そのままの理解とは成っていけないのだと思える。

そのためには、自身が現実の世界そのものとしっかりと関わって、悪戦苦闘して、の自身の専門の概念規定を一つ、また一つとなし続けていかねばならないのであり、このことは同様に自身の生活のあらゆることに関わってでもあり……と思えた。

昨日は、自身のアタマに浮かんだ思いをこれは書きとめておきたいとの思いからの、書きなぐるレベルでの、であったので、若干の補足を加えておきたい。

古代ギリシャ語では、「あわれむ、あわれみ」という語がδπλάγνον(内臓)の派生語であり、それが「はらわたが揺り動かされるほどの感情、心の内奥から沸き起こる感情」という意味での、であるということは、自身が、我々日本人が、「慟哭」とか「痛恨」とかで表現するような、強烈な感情をともなっての、単なる脳細胞の描く像に止まらず、全身レベルでの、身悶えするような、生々しい像を描いているのであろう、と。

そして、言葉、言語というものが素朴な形では誕生してはいるものの、未だその発展の途上、創出の途上であったということを考えあわせると、古代ギリシャの哲学者の言葉というものは、この「あわれむ、あわれみ」というレベルでの、恐ろしいほどの厚みを持った像として、一つ、また一つと概念規定されていったのでは無いか、と思えた。

それゆえに、その人類としての系統発生を繰り返す形の実践が、必須のものとされるのでは……というのが、昨日の、であった。


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