車の運転をしていて、学生時代に何度か行ったことのある「長崎ちゃんぽんリンガーハット」を見かけて、懐かしさで食べに入った。
しかしながら、自身の思い出の中の味とは似ても似つかぬものであった。
全ては、変化し運動していって、の現在であるだけに、昔のままのものは何処にも存在しないのだ、と世の無常を痛感した。
. . . 本文を読む
新たな実践(武道の学び)の予定が具体的に決まった。自身のこれまでの日々の実践の不足を痛感する。
鍼灸の学びにも一区切りがついたので、何よりも現状を延々と続けていくだけでは歴史性のある人生などは望むべくもない、との思いで、今春よりいくつかの新たな実践をと予定している。
その中の一つである武道の学び、の予定が具体的に決まった。
ところが、その予定が具体的に決まった途端に、自身の現在の実力と現在の . . . 本文を読む
時間がある!はずなのに、時間がない!?を日々痛感する。
鍼灸国家試験を終えて、鍼灸学校も終わって、随分と時間に余裕が出来ている筈であるのに、時間不足を鍼灸学校通学時よりも、日々痛感される。
春からの新たな実践の準備と鍼灸学校での東洋医学と鍼灸の学びの総括、加えて後回しにし続けて来た諸々の雑事の後始末が重なって来て、である。
結果として、このままでは、東洋医学と鍼灸の学びの総括をブログに書くと . . . 本文を読む
「すみませんが、カーネギーホールへはどうやったら行けるのでしょう?」
ミュージシャンは答える、「練習あるのみ!」
アメリカの古いジョーク
「折々のことば」(朝日新聞)で、紹介されていたジョーク。
各地の桜満開のニュースに遅れて、自身の住む地域でも漸くに。 . . . 本文を読む
職場であるリハビリ室の施術の標準化が必要、と思える。
これまで、リハビリ室の施術のあり方は、個々の先生がたの個性に任せて、であった。
自身が就職した8年前には、それなりのお決まりの形式はあったが、例えば「頚肩」と医師の指示があれば座位8分で、「腰」とあれば伏臥位8分で、「頚肩、腰」とあれば座位+伏臥位で10分、というのはあったが、自身が中心になって行う段階で、時間の縛りのみを残して、とした。ま . . . 本文を読む
骨鍛練行なった。個別性特殊性を踏まえての具体性のある目標(夢?)の必要性痛感した。
昨日の昼の骨鍛練(立木を掌、手刀、拳、小手、足底で突き、打ち、払うもの)、通常の数倍?の熱意で行えた、またその鍛練が楽しくもあった。
理由は、録画してあった 「NHKスペシャル人体」 という番組で、アバウトにいえば「骨を鍛練すれば若返る」ということがいわれていた、から。
自身の現在の最大の関心事は、現在の認識 . . . 本文を読む
認知症に対しての施術を行なった。それなりに一定の、となっていっている。
認知症(脳血管型の初期と思われるもの)に対して施術を行なっている。2か月程前から週1〜2回、1回30分程度、鍼灸、吸い玉、指圧、整体等を状態に応じて、併用しての、脳血管型認知症の初期(症状が出始めたという意味で)に対して。
最初は手探りで、文献に当たったり、ネットで調べたり、こういう事ではなかろうか?という自身の思いからの . . . 本文を読む
現在、「ぶら下がり運動」を日課として行っている。これは、そもそもが南郷先生が『季刊 綜合看護』の連載『”夢”講義』で「人間体はそもそもがサル体であるから……それは、必要な運動」とその意義を説いてくださっていたからの、そのことを理屈で納得できたからの、その納得できた意義に導かれての日々の実践であり、その継続である。
その結果として、「ぶら下がり運動」の効果を実感できているという現実がある。端的 . . . 本文を読む
偏食ならぬ偏問いが東洋医学、鍼灸の世界には蔓延している、と思える。問うべきことを問わない、問えないことの恐さを痛感する。
鍼灸学校に通う三年間は、これまで以上に鍼灸や東洋医学の世界の先生がたと直接にまた媒介的に関わる機会を多く持つこととなった。
その度に思わされたことが、彼等の(偏食ならぬ)偏問いの凄まじさである。端的には、問わねばならないことを問わない、問えないということである。
例えば、 . . . 本文を読む
漸くに、東洋医学とは、アバウトには、「気の流れを整えること」である、と捉え返すことが出来た。
しかしながら、これでは自身の手技療法の実践には充分に役立つと思えるものの、定義とか概念規定とかいうレベルには未だし、程遠いと思える。
具体的には、目的論が無く、方法論、対象論の部分も一般的観念論的な表現であるだけに、自身の手技療法の実践の指針としては、目的も方法も明確であり、観念論的な表現も、そこを唯 . . . 本文を読む
フロイトの医学体系=観念論的学問体系について知ると(瀬江先生が説かれているものを読むと)東洋医学というものを如何に評価して、そこから学んでいくべきなのかがイメージ出来る、と思える。
学問というものは、人間の実践というものは、その時代の自然、社会、精神とつながりあってのそれなのであるから、宿命として時代性を持つものである。それだけに、現代に生きる我々が現代の時代性から先達を批判してはならず、必ず、 . . . 本文を読む
新名神の開通に、世界はつながっている、を実感する。
先日、新名神が漸くに開通し、夕方の中国道上り渋滞が解消された。
結果として、これまで休日の午前中に限定されていた、自身の現在の車のディーラーへ行くことが容易になった。
それゆえに、VWからAudiやRenaultへの乗り換えの検討の必要性が薄れて、結局、今の車に当分乗り続けることになりそうである。
世界は思いもかけずつながっている、という . . . 本文を読む
物事にはレベルがある、ということが周囲の方々には、なかなかに理解いただけない。
しかしながら、世界に対しての、本質レベルでの理解があるならば、世界は無限であり人間は有限なのだから、何もかもを、は出来ないものである。
それゆえに、何事をなすにしても、そのことは必要なのか、必要であるとすればどのレベルの必要性があるのか、ということをしっかりと問うての実践が必要である筈である。
そうでなければ、ど . . . 本文を読む
漸くにして、「東洋医学とは何か」の一般論(仮説としての)が描けつつある、と思える。そのことの大事性実感する。
鍼灸学校での三年間の学びと自身の四半世紀に亘る手技療法の実践を踏まえて、何よりも現代の、また歴史上の偉大なる先達に学ぶことで、漸くにして「東洋医学とは何か」の一般論を措定(再措定?)出来つつある。
詳細は近々改めて説くつもりではあるが、それを観念論的にアバウトに表現すれば、「東洋医学と . . . 本文を読む