前回は、認識論の学びの第一歩として、人間の自身の「唐揚げ」を食べるに関わる映像を追うことからの、「問いかけ」の映像と反映の映像を区別して見て取ることの必要性。 それができていないから、人間の認識も動物の認識も一緒くたになってしまっている、との反省から、まず、認識の原点から脳が誕生した魚の段階から見て、となるも、問いかけのない動物段階の反映像というものがよくイメージできずに、その前の反映像のない段 . . . 本文を読む
『中級講和 趣味のドイツ語』(關口存男著 三修社版)を読み始めた。自身の学生時代に關口先生の著作との出会いがあれば......と思えた。
「鍼灸問答」として、鍼灸・東洋医学にかかわる諸問題を説いていこうと決意したものの、問答、対話として説くという自身の実力の無さからも、一回目を説いてからその先へと進んでいけない状態のままに来ている。
その先へと進んでいく道を示してくれるのではないかと、『中級講 . . . 本文を読む
認識についての覚え書。認識=反映像と考えた場合、その原点は脳が誕生した魚類の段階にある。また、人間の認識=問いかけ的反映像の直接の原点と考えると、人類へとなっていくサル類の段階が、サル類から人類への過程をしっかりと見ていくことが、と思える。魚→サル→人間しかしながら、その様に考えるならば、そもそも、魚類へとなっていくクラゲ類の段階を魚類との比較によって見ていくことが、必 . . . 本文を読む
20/05/29 11:09
実家の片付けを行っている。コロナ自粛の有り難さ痛感している。 1か月間のコロナによる職場閉鎖も残りわずか。手付かずのまま1年近く来ていた実家の片付け、漸くに軌道に乗って、片付け終わる目処も立って来た。 手を付け始めるまでは、片付け無ければならないものの膨大さに圧倒され、手を付け始めたら始めたで、片付けても片付けても少しも捗らない感があり、休みも残り十日余となって、漸 . . . 本文を読む
ブログ記事の内容を検討中過去の自身との闘論をメインにするのが、もしかしたら自身にとっても、読者の皆さんにとっても良いのかも、と思えています。鍼灸学生の皆さんからの質問は引き続き受け付けますが....。 . . . 本文を読む
コロナ休暇1カ月の総括。それは、自身の人生の縮図と思える。 昨日までで、約1カ月という長いようで短いコロナウイルス感染症の休暇(職場閉鎖?)が終わった。 この間の目標として、空手の白帯からの再度の学び、と実家の片付けを掲げ、スタートした。 空手の白帯からの再度の学びは、中頃から坐骨神経痛が出、また、自身の人間体の実力の低下が想定以上であったこともあって、空手云々以前の人間体としての鍛錬?がメ . . . 本文を読む
古代中国のおいて、病を「本と標」として捉えられたことの意義は、何よりも、病には眼に見える姿(一重の)だけでは無しに、二重性があるという、目に見えない世界の構造を史上初に捉えられた、ということなのだ、と思える。 これは、そのことでそれまでは治らなかったり、治ったと思っても直ぐに再発したりであった病をしっかりと治せるようになっていった、ということのみならず、病の持つ他の二重性が分かっていく道を拓 . . . 本文を読む
『黄帝内経』で説かれる「本と標」について、自身は、余りに低く見過ぎていた。別言すれば、古代中国という時代・社会ということを無視しての捉え方であった、と思える。 「本と標」について、鍼灸の教科書等では、「本治法と標治法」の様に非常にレベルの高いものとして説かれる。例えば、「証と症(つまり本と標)は、原因と結果ではなしに本質と現象である。」(竹山晋一郎)と説かれる。 これについては、古代中国とい . . . 本文を読む
病には二重性=多重性がある、あると視るべきである。 治ると不治の二重性のみならず、治らないとされる病にも二重性がある。本来なら治る余地があるのに治らないとされるものと本当に治らないものとの二重性。 と考えると、治るにも二重性がある。通常は治るものと通常は治らないあるいは難治とされているが治るものと。 障害の二重性として説かれる(解かれる)二重性、あるいは一般的な治療と特殊的な治療として捉えら . . . 本文を読む
『形而上学』(アリストテレス)を読み返している(正確に言えば、眺めているか?)。 若さのある時に、しっかりと学びたかった、との思いがする。 例えば、『形而上学』のΔ巻で「始まり(αρχη)」について、説かれている。 様々な角度から、様々な意見を取り上げて、その共通性に着目して......。 本当にすごい人。それも二千年以上前の人なのだから......。 何がすごいのか、と言えば、人類史上初の . . . 本文を読む
実家の片付けに取り組んでいる。そこにも対象への関わり方の二重性がある、と思える。
一年近くも、片付けねばならないと思うながらも、手を付けかねていた実家の片付け。コロナウイルス感染症による職場の一時閉鎖という一ヶ月近くの休みのおかげで漸くにして、手をつけることが出来、部分的にはほぼ片付けが終えられるとことまで来た。
しかしながら、全体とすれば、1/10、甘く考えても1/5〜6は残っ . . . 本文を読む
自身の他に優れる点は、理論的な高みでは無く、施術の高みでも無く、(自身の)施術の中身=それに関わるアタマの働きを書くこと、書こうとしていっていることにあると思う。カッコよくいえば、理論的実践家を志向しての、であると思う。そこを自覚して、空理空論にならぬ様、心がけていきたい。
さて、施術をするということは、一般的には、その患者なりの治った状態をイメージして、それには現在の病んだ状態をイメー . . . 本文を読む
人間体を運動と代謝の二重構造として捉え返して、運動を支える代謝器官の運動としてランニングを行う。
昨日のランニングの事実から、運動には全体と部分の二重性があり、それゆえ部分の運動が目的であってもそれは全体の運動=全身運動とともに、あるいは全身運動として行われるべきである、と運動を捉え返した。
本日は、その全身運動として運動は行われるべきであるということの中身を、運動の二重性=運動 . . . 本文を読む
久しぶりにランニングを行なった。全身レベルの運動の大事性、実感する。
昨日、久しぶりに約1時間のランニングを行なった。軽く息が切れ汗ばむというレベルの、であったが、ランニング後、今朝に至るまで足がポカポカと温かく、である。この二週間というもの、空手の準備運動として、ほぼ毎日、雪駄や下駄で約2時間歩いて、夜には足がつるという状態であったのに、その運動による足の温かさは、せいぜい運動中と運動 . . . 本文を読む
庭の片付けを行った。実践的であることの大事性、実践なくしては理論的な深まりはないのだと実感された。
本日、漸くにして一年半近くも片付けねばならない、と思うばかりでほぼ手付かずで放置していた庭の片付けが、もう少しで終われる目処が立つところまで進んだ。
庭のある生活をされている方には常識であると思うが、庭というものは、手入れ(草抜き等)をしてやらないと、あっという間に草ボウボウの荒地 . . . 本文を読む