昨夜、『鍼灸・東洋医学を科学に学ばねばならない根本的理由』として、アタマに浮かんだことを書いた。肝心の一点が説かれていないので、読んでいただいた皆さんには、分かったようで分からないような、なんとももどかしい文章との思いをさせたのでは、と思う。さて、その肝心の一点とは、言わずもがなの「学問とは何か」である。別言すれば、学問の学問たる所以とか、その真髄といっても良いと思うが、それは端的には、「学問とい . . . 本文を読む
17/05/09 07:59このところ、自身の個人的な雑事に振り回されている感がある。次から次へといい加減にして欲しい、との思いになっていかないでもない。
しかしながら……である。「生命の歴史」「人類の歴史」に自身の生きる指針を尋ねるならば、生命体も人類も、順風満帆の時には進化していない。環境の激変から逃げ出さず(逃げ出せず?)、(比喩的にいえば)頑張って、頑張って、頑張り抜いた生 . . . 本文を読む
長かった今年の梅雨もあと僅かで明けそうです。梅雨が明ければ恒例の真夏の炎天下での鍛錬を行うことが出来、結果として僅かでもの前進が可能となるのでは、と思える。さて、本日のテーマ、「東洋医学の原点を問うとは如何なることか」。大きな問題にぶち当たったり、難問にお手上げとなった時に、その対処法として、「原点に遡って」とか「原点を問い直す」ということがよく言われる。これは、鍼灸、東洋医学の世界でも同じくであ . . . 本文を読む
『哲学・論理学研究(第一巻)』(悠季真理 著 現代社白鳳選書107)を読み返している。 『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集(第三巻)』(南郷継正 著 現代社)を読むにあたっての、導きの灯となる書である、と思う。 のみならず、真面目に東洋医学をその原点から学びたい、端的には、「古典に還れ」を実践したいとの志を持つ方にも、その導きの灯となるもの、と思う。 端的には、「古典」の背後の認識=古代中 . . . 本文を読む
コロナウイルス感染症の影響で鍼灸・手技療法の世界も危機的な状況へとなっていっている、と思える。本来ならば、今回のコロナウイルス感染症のごとくに確実な対症療法(具体的には薬やワクチン等)がない時にこそ、東洋医学・東洋医術の出番である筈と思うのだが......。
それはさておき、「古典に還る」とは、を引き続き説いていきたい。
「人々は、哲学説のあいだに差異があるのを、真理が進歩して . . . 本文を読む
今朝、ブログ更新しようとしたらメンテナンス中だったので、とりあえずの覚え書。
弁証法の適用ということにも歴史がある、弁証法性がある、と思える。本来それは二重性で、であるべき。 弁証法の適用とは、対象(特に自身の専門分野)を弁証法的に見て取れる様になることがその目的であり、それには二重性がある。 弁証法から具体の事実へ向かうことと具体の事実から弁証法へと向かうこととの。 より正確には、具体の事 . . . 本文を読む
「古典に還れ」とは鍼灸の世界でもよく使われる言葉であるが、「古典に還る」ということの弁証法的・認識論的意義はいかなる事になるのであろうか?
「古典に還る」ということの意義は弁証法的にいえば、この世界のあらゆる物事はその誕生を原点として、その原点のあり方が発展していっての現在の物事であるから、原点がいかなるものであるのかの構造をしっかりと分かること無しには、現在のその複雑に発展したあり方の . . . 本文を読む
『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第三巻』を読むと、物事を二重性で視ることの必須性痛感される。竹山晋一郎の偉大性とは理論的にはそういうことでもあったのだと。 コロナウイルスの影響で、クリニックは開店休業状態がほぼ3ヶ月近くも続いている。おかげで?『全集第三巻』の読み返しも4度目となっている。 詳細は、スマホで打つのでは無くしっかりと原稿用紙に書いてと思うが、『全集第三巻』を読む中で何度も . . . 本文を読む
現在の鍼灸の世界の全体をアバウトにでも知りたいとの思いから「連動企画 ツボの選び方1・2」(『医道の日本 1・2月号』所収)に眼を通している。 鍼灸は科学化=学問化されるべき、との思いを専門的に鍼灸、東洋医学に関わりを持つようになって以来、持ち続けているので、現代の鍼灸が科学化されないのは何故なのか?そのためには何が欠けているのか?との思いは当初より持ち続けている。 それ故、今回の『医道の日 . . . 本文を読む
標治、本治ということを古代中国の人類のアタマのレベルから考えると、そんなことはあり得ない、あり得なかった筈、と思える。 東洋医学(鍼灸、漢方薬等)の世界には、古代中国の医術医学を至上のものとする信仰が存在するように思える。そこから、人類の歴史性を無視しての、が東洋医学の世界には多々あると思える。例えば標治、本治について、「標は現象であり本は本質である。我々は本を脈診により証として捉えて、それ . . . 本文を読む
東洋医学の論理のレベルから東洋医術の問題を考える。
『全集第三巻』で、東洋医学の中身(論理のレベル)を説いていただいてる。
「この医学(......東洋医学)は、まず身体に表れている面から病気を見てとります(身体の内部、つまり実際の筋肉や骨や、特に内臓の実体には分けいらないのが、いわゆる東洋医学の成立過程です)。確かにそれでも病気はある程度は治せるようになりますが、病気とは何か . . . 本文を読む
鍼灸の世界の現状は、(自身にとっては)人類の歴史性に学ぶことを怠ったがゆえの惨状と思えてしかたがない。そして、この流れはもう定まってしまっていて、「病膏肓に入る」の感があると諦めにも似た思いが自身にはある。
しかしながら、そんな思いでいるときに『誰にもわかる経絡治療講話』(本間祥白著 医道の日本社)に出会った。一読して、鍼灸の世界にもかつては志高く「鍼灸の科学化」を目指した方がいたのだと、鍼灸 . . . 本文を読む
東洋医学を専門とするかたと会話するたびに思うことが、論理のレベルということがお分かりじゃあない、のだなあということである。
あることがらに関して、事実として正しい(効果がある)と思えることと、そのことが正しい(論理的である)といこととを、ゴッチャにしているというか平面的に考えてしまっている、もっといえば、自身の論理の(東洋医学の)正しさを主張したいが為に、論理としては、常識レベルですらおかしな有 . . . 本文を読む