竹山晋一郎の唯物弁証法は、そもそものその学びかたが不味かったがゆえに、鍼灸を弁証法的に解明することが敵わなかったのだ、と思える。
竹山晋一郎の何が不味かったのかといえば、弁証法を弁証法として学んでしまったということであり、竹山晋一郎自身も、鍼灸の実践を欠いているがゆえに、自身の弁証法的な究明が、悪く(有体に?)いえば一般論に終始しているとの自覚がおそらくはあったのであろう、『漢方医 . . . 本文を読む
卒業研究について。
自身の通う鍼灸学校には卒業研究という科目がある。当初は自身の東洋医学、鍼灸に関わる認識は理解される筈も無いとの思いから、適用にお茶を濁しておけば良いと考えていたのであるが、自身のイメージする卒業研究が認められるのであれば、鍼灸学校入学以来の東洋医学、鍼灸に関わる学びの総決算の絶好の機会として捉えて取り組みたい、と思う様になって来た。
さて、自身のイメージする卒業研究とは、東 . . . 本文を読む
宮田和宏氏の著作、『新編真訳 五輪書−兵法二天一流真諦−』(文芸社)を読み返すと、古典の学び、観念論的理論体系の学びはかくあるべし、の見本、お手本と思える。自身でも、古典や観念論的理論体系を学ぶのに、その時代性ゆえの、観念論的ゆえの足らざるを批判して、「これはダメだなあ」としてしまうのでは無しに、「その足らざるを補って!」で無ければとの思いはあったのだけれ . . . 本文を読む
『新編真訳 五輪書−兵法二天一流真諦−』(宮田和宏著 文芸社)を読み返している。「観念論的体系を唯物論的体系として完成的に学ぶとは」、の見本ともなる書と思える。自身の東洋医学・鍼灸の学びも、かくの如くの書として残せれば、と。東洋医学・鍼灸に関わる皆さんにも、ぜひとも一読いただきたい書である。 . . . 本文を読む
「古典に還れ」とは鍼灸の世界でもよく使われる言葉であるが、「古典に還る」ということの弁証法的・認識論的意義はいかなる事になるのであろうか?
「古典に還る」ということの意義は弁証法的にいえば、この世界のあらゆる物事はその誕生を原点として、その原点のあり方が発展していっての現在の物事であるから、原点がいかなるものであるのかの構造をしっかりと分かること無しには、現在のその複雑に発展し . . . 本文を読む
コロナウイルス感染症の影響で鍼灸・手技療法の世界も危機的な状況へとなっていっている、と思える。本来ならば、今回のコロナウイルス感染症のごとくに確実な対症療法(具体的には薬やワクチン等)がない時にこそ、東洋医学・東洋医術の出番である筈と思うのだが......。
それはさておき、「古典に還る」とは、を引き続き説いていきたい。
「人々は、哲学説のあいだに差異がある . . . 本文を読む
昨夜、『鍼灸・東洋医学を科学に学ばねばならない根本的理由』として、アタマに浮かんだことを書いた。肝心の一点が説かれていないので、読んでいただいた皆さんには、分かったようで分からないような、なんとももどかしい文章との思いをさせたのでは、と思う。さて、その肝心の一点とは、言わずもがなの「学問とは何か」である。別言すれば、学問の学問たる所以とか、その真髄といっても良いと思うが、それは端的には、「学問とい . . . 本文を読む
17/05/09 07:59このところ、自身の個人的な雑事に振り回されている感がある。次から次へといい加減にして欲しい、との思いになっていかないでもない。
しかしながら……である。「生命の歴史」「人類の歴史」に自身の生きる指針を尋ねるならば、生命体も人類も、順風満帆の時には進化していない。環境の激変から逃げ出さず(逃げ出せず?)、(比喩的にいえば)頑張って、頑張って、頑張り抜いた生 . . . 本文を読む
長かった今年の梅雨もあと僅かで明けそうです。梅雨が明ければ恒例の真夏の炎天下での鍛錬を行うことが出来、結果として僅かでもの前進が可能となるのでは、と思える。さて、本日のテーマ、「東洋医学の原点を問うとは如何なることか」。大きな問題にぶち当たったり、難問にお手上げとなった時に、その対処法として、「原点に遡って」とか「原点を問い直す」ということがよく言われる。これは、鍼灸、東洋医学の世界でも同じくであ . . . 本文を読む
『哲学・論理学研究(第一巻)』(悠季真理 著 現代社白鳳選書107)を読み返している。 『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集(第三巻)』(南郷継正 著 現代社)を読むにあたっての、導きの灯となる書である、と思う。 のみならず、真面目に東洋医学をその原点から学びたい、端的には、「古典に還れ」を実践したいとの志を持つ方にも、その導きの灯となるもの、と思う。 端的には、「古典」の背後の認識=古代中 . . . 本文を読む
今朝、ブログ更新しようとしたらメンテナンス中だったので、とりあえずの覚え書。
弁証法の適用ということにも歴史がある、弁証法性がある、と思える。本来それは二重性で、であるべき。 弁証法の適用とは、対象(特に自身の専門分野)を弁証法的に見て取れる様になることがその目的であり、それには二重性がある。 弁証法から具体の事実へ向かうことと具体の事実から弁証法へと向かうこととの。 より正確には、具体の事 . . . 本文を読む
「古典に還れ」とは鍼灸の世界でもよく使われる言葉であるが、「古典に還る」ということの弁証法的・認識論的意義はいかなる事になるのであろうか?
「古典に還る」ということの意義は弁証法的にいえば、この世界のあらゆる物事はその誕生を原点として、その原点のあり方が発展していっての現在の物事であるから、原点がいかなるものであるのかの構造をしっかりと分かること無しには、現在のその複雑に発展したあり方の . . . 本文を読む
『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第三巻』を読むと、物事を二重性で視ることの必須性痛感される。竹山晋一郎の偉大性とは理論的にはそういうことでもあったのだと。 コロナウイルスの影響で、クリニックは開店休業状態がほぼ3ヶ月近くも続いている。おかげで?『全集第三巻』の読み返しも4度目となっている。 詳細は、スマホで打つのでは無くしっかりと原稿用紙に書いてと思うが、『全集第三巻』を読む中で何度も . . . 本文を読む