古代中国のおいて、病を「本と標」として捉えられたことの意義は、何よりも、病には眼に見える姿(一重の)だけでは無しに、二重性があるという、目に見えない世界の構造を史上初に捉えられた、ということなのだ、と思える。 これは、そのことでそれまでは治らなかったり、治ったと思っても直ぐに再発したりであった病をしっかりと治せるようになっていった、ということのみならず、病の持つ他の二重性が分かっていく道を拓 . . . 本文を読む
『黄帝内経』で説かれる「本と標」について、自身は、余りに低く見過ぎていた。別言すれば、古代中国という時代・社会ということを無視しての捉え方であった、と思える。 「本と標」について、鍼灸の教科書等では、「本治法と標治法」の様に非常にレベルの高いものとして説かれる。例えば、「証と症(つまり本と標)は、原因と結果ではなしに本質と現象である。」(竹山晋一郎)と説かれる。 これについては、古代中国とい . . . 本文を読む
病には二重性=多重性がある、あると視るべきである。 治ると不治の二重性のみならず、治らないとされる病にも二重性がある。本来なら治る余地があるのに治らないとされるものと本当に治らないものとの二重性。 と考えると、治るにも二重性がある。通常は治るものと通常は治らないあるいは難治とされているが治るものと。 障害の二重性として説かれる(解かれる)二重性、あるいは一般的な治療と特殊的な治療として捉えら . . . 本文を読む
『形而上学』(アリストテレス)を読み返している(正確に言えば、眺めているか?)。 若さのある時に、しっかりと学びたかった、との思いがする。 例えば、『形而上学』のΔ巻で「始まり(αρχη)」について、説かれている。 様々な角度から、様々な意見を取り上げて、その共通性に着目して......。 本当にすごい人。それも二千年以上前の人なのだから......。 何がすごいのか、と言えば、人類史上初の . . . 本文を読む
実家の片付けに取り組んでいる。そこにも対象への関わり方の二重性がある、と思える。
一年近くも、片付けねばならないと思うながらも、手を付けかねていた実家の片付け。コロナウイルス感染症による職場の一時閉鎖という一ヶ月近くの休みのおかげで漸くにして、手をつけることが出来、部分的にはほぼ片付けが終えられるとことまで来た。
しかしながら、全体とすれば、1/10、甘く考えても1/5〜6は残っ . . . 本文を読む
自身の他に優れる点は、理論的な高みでは無く、施術の高みでも無く、(自身の)施術の中身=それに関わるアタマの働きを書くこと、書こうとしていっていることにあると思う。カッコよくいえば、理論的実践家を志向しての、であると思う。そこを自覚して、空理空論にならぬ様、心がけていきたい。
さて、施術をするということは、一般的には、その患者なりの治った状態をイメージして、それには現在の病んだ状態をイメー . . . 本文を読む
人間体を運動と代謝の二重構造として捉え返して、運動を支える代謝器官の運動としてランニングを行う。
昨日のランニングの事実から、運動には全体と部分の二重性があり、それゆえ部分の運動が目的であってもそれは全体の運動=全身運動とともに、あるいは全身運動として行われるべきである、と運動を捉え返した。
本日は、その全身運動として運動は行われるべきであるということの中身を、運動の二重性=運動 . . . 本文を読む
久しぶりにランニングを行なった。全身レベルの運動の大事性、実感する。
昨日、久しぶりに約1時間のランニングを行なった。軽く息が切れ汗ばむというレベルの、であったが、ランニング後、今朝に至るまで足がポカポカと温かく、である。この二週間というもの、空手の準備運動として、ほぼ毎日、雪駄や下駄で約2時間歩いて、夜には足がつるという状態であったのに、その運動による足の温かさは、せいぜい運動中と運動 . . . 本文を読む
庭の片付けを行った。実践的であることの大事性、実践なくしては理論的な深まりはないのだと実感された。
本日、漸くにして一年半近くも片付けねばならない、と思うばかりでほぼ手付かずで放置していた庭の片付けが、もう少しで終われる目処が立つところまで進んだ。
庭のある生活をされている方には常識であると思うが、庭というものは、手入れ(草抜き等)をしてやらないと、あっという間に草ボウボウの荒地 . . . 本文を読む
昨日は、物事の理解は像としてということを、「信仰とは」の自身の理解とともに、『恩讐の彼方に』を取り上げて説いたのであるが、奇しくも昨日は、看護の日=フローレンス・ナイチンゲール生誕二百年であった、と知り、「信仰とは」の実例としては、フローレンス・ナイチンゲールをこそ取り上げるべきであったとのとの思いとなった。
ほとんどの方には、看護関係の方をも含めて、フローレンス・ナイチンゲールについて . . . 本文を読む
『恩讐の彼方に』(菊池寛)を、本来の信仰とはのリアルなイメージを描かせてくれる書である、と感動とともに読んだ。像として理解することの大事性、実感する。
「信仰と学的観念の違いは何かを説けば、観念というのは、客観的世界を頭脳活動としてアタマの中に宿すことです。そして信仰というのは、逆に自分の信仰としての思いを客観の世界、つまり外界に創っていくことです。確かに信仰は何かを信じることであり、 . . . 本文を読む
何事も、<絶対精神の自己運動>として捉え返すべき、と思える。 昨日は、午前中に近くの公園で50段程度の階段の昇降を約20分、その後、川の土手を約2時間歩き、午後は、庭の片付け(以前に伐った木をゴミ袋に入るように切る作業)おこなった。階段昇降は、久々の空手の練習へと直接的に繋がるものとの思いでの、であったが、案の定、わずかに50段程度の階段の昇降で息切れ、夜には、足が攣ることも。それゆ . . . 本文を読む
"Das echte Leid gibt einem die geistige Haltung wieder."(眞の苦難は吾人に氣魄を取り戻させる。)
コロナ感染症の影響で(自身も含めて)多くの人が諸々に追い詰められていき、の現在である。しかしながら、それだけに、何があっても悔いを残さないように、可能な限りの努力を!と(何よりも自身の問題として)思う。
鍼灸・東洋医学もまた同様に、 . . . 本文を読む
「古典に還る」とは本当には=認識論的には如何なることなのか? 世界のあらゆる物事は必ず原点(としての構造)があってのそこからの生成発展の結果としての現在である。(二律背反) それだけに、原点に返ってそこからの辿り返しということは、現在、そして未来を識るには必須の作業である。 しかしながら、その事をしっかりと成し遂げることは至難の技である。 それゆえに、あらゆる専門分野でそれはほとんど成されて . . . 本文を読む
雪駄や下駄で歩くことのすすめ。それは現代人に欠けた運動である。 コロナ外出自粛のゆえか、歩いたり走ったりする姿が目立つ。 しかしながら、その姿を見るたびにせっかくの運動なのに、と残念な思いになる。なぜなら、その足元はほぼ100%靴であるから、である。 現代人に欠けたる運動の最たるものの一つが足の運動であるのに、どうしてせめて雪駄や下駄で歩かないのか、と。 どういうことかと言えば、人間の身体と . . . 本文を読む