『標準漢方医学入門』(丁宗鐡 小野村雅久共著 薬事日報社)にざっと目を通した。他国の文化に学ぶには、その文化の特殊性を踏まえねばならないということ痛感させられた。
漢方についての理解が、自身の鍼灸という観点からの東洋医学の病理病証や脈診等々についての理解の行き詰まりを打開してくれるのでは、との思いで『標準漢方医学入門』に目を通した。
期待通りに、漢方という観点から説かれる東洋医学の諸々は、自身 . . . 本文を読む
治ると治らない、治せると治せないとを区別しての施術の必要性痛感する。当然に連関もおさえておかねばならないが。
例えば、膝が痛いと訴える患者への施術。治るものは治す方向で治らないものは症状の軽減、軽減出来ないとすれば次善として、それ以上に悪化しない様にかかわる。
しかしながら、治るものにも二重性がある。自身の(施術者)の治せると治せない。またそれだけでは無く、治せるとしてもすぐに結果が出せるのと . . . 本文を読む
リハビリ室運営について同僚のY先生に相談した。討論の大事性実感された。
リハビリ室運営について今後いかにすべきか!?と、結果が出せなければ職を辞さねばならない。とまで思いつめ、自身であれこれと思いを巡らしていたのだが、今夜、同僚のY先生に相談して、「院長は先生(私)に、そんなこと求めていないですよ(笑)」と言われて、「はっ」とばかりに、自身の姿を客観視することが出来た。自己の否定とは、小手先の対 . . . 本文を読む
『育児の認識学』(海保静子著 現代社)を読み返している。認識学の学びの必要性痛感する。
『育児の認識学』では、人類の認識の発展を踏まえて個としての人間の一般的な認識の誕生、発展が説(解)かれている。と読んだ記憶があったので、また、認識学の三本柱の構造からして、間違いなくそうであろう。との思いで、人類の認識の発展のありかたを学ぶとの目的意識で『育児の認識学』を読み返し始めている。
その中で、「赤 . . . 本文を読む
是動病と所生病について学んだ。人類の認識の発展段階の学びの必要性痛感した。
昨日の東洋医学概論の授業で是動病と所生病について学んだ。「両者は基本的に同一のものなのだ。」と説いていただいたので、「同一 のものを何故、別のものとして説いているのか?」との質問をしたところ、「一般的には同じく経絡に関わる病を分けて、是動病といった場合は経絡上の病の問題であり、所生病といった場合には経絡と関連のある臓腑等 . . . 本文を読む
東洋医学の全体像を大まかにでも描きたい。として、旧版の東洋医学概論教科書のまとめを行ったが、気血津液の病理病証のあたりで止まってしまっている。
時間の取れる時に残りのまとめをと思っていたのだが、気や陰陽論、五行説について、また蔵象について、誕生させられた社会、時代性を踏まえて捉え返すことでその本来の姿が視えてきた、と思えることから、東洋医学概論教科書のまとめも、そのような視点から行うのでなければ . . . 本文を読む
『武道哲学講義(第2巻)』(南郷継正著 現代社)読み返し、新旧二つの弁証法のつながりのイメージが、なんとなくではあるが描けた、と思える。
新旧二つの弁証法とは、いわゆる弁証術とか哲学的問答法とか呼ばれる古代弁証法とエンゲルスによる科学的な、法則としての弁証法。
より構造的には、前者は、議論、討論そのものとそこから次第次第に形成されていったであろう議論、討論の術=弁証術であり、後者は、エンゲルス . . . 本文を読む
五臓六腑について考える時、原点に立ち返って捉え返すことの大事性痛感する。
五臓六腑について、これまでは現代の教科書にあるものがそのままに五臓六腑である、として捉えていた。結果として、現実に無いものをあるとして考えていくことに、強烈な違和感を感じながらの五臓六腑の学びとなってしまっていた。
しかしながら、気や陰陽論、五行説を原点に立ち返って考えてみるとまったく違った姿が視えてきたとの反省を踏まえ . . . 本文を読む
『武道哲学講義(第二巻)』(南郷継正著 現代社)読み返している。そこに説(解)かれるヘーゲル弁証法の実態、と理解したものから東洋医学(療?)の問題(例えば、気、陰陽論、五行説等)を視ると、古代の、本来のそれらの姿がボンヤリとではあるが見えてくる様に思える。
現代にあっては、気、陰陽論、五行説等は知識として云々されることはあっても、真の問題解決の方法とは成りえていない。例えば鍼灸学校等でも、気、陰 . . . 本文を読む
『哲学・論理学研究ー学的論文確立の過程的構造(第1巻)』(悠季真理著 現代社)を読み返した。そこに説(解)かれるブラトンからアリストテレスへの認識の発展、自身の実力へとすることで鍼灸にかかわる問題が解けていくのではと思える。 . . . 本文を読む