赤ちゃんから幼児期にかけてのオンブにダッコの意義。小さい子供は、ダッコされることが好きであるけれど、それを抱き癖がつくと否定する意見もある。逆に、ダッコされて育った子は情操豊かに育つとダッコを推奨する考え方もある。どちらにもそれなりの根拠があるようであるが、本当はどちらが正しいのだろうか?そのことを違う観点から考えてみたい、「生命の歴史」にダッコの意味・意義を尋ねれば、四足の動物が木に登れる様にな . . . 本文を読む
「書くことは考えること」について「『ヘーゲル哲学・論理学[学の体系講義・新世紀編]』(全集第三巻)余録(Ⅱ)」(『学城 第19号』所収 現代社刊)で説いていただいている。それは個としての、絶対精神の発展のプロセスの繰り返しの一つのありかたなのでは、と思える。
「書くことは考えること、である。」ということを、これまで何度も南郷先生は説いておられる。自身ではそれをアタマの訓練法、「思う」から . . . 本文を読む
満月の光を浴びるとココロとカラダが安らぐ感覚がある。生命の誕生と月の関係からすれば、ある意味当然である、と思える。 昨日、仕事帰りに満月のあまりの美しさに暫し見惚れていると、月光を浴びる感覚があり、それとともにココロとカラダが癒される感覚があった。当初は、自身の生命の歴史に関わる知識のゆえの錯覚とも思ったが......。 生命の歴史においての月の役割に思いを致すならば、例えば、太古の月は小さ . . . 本文を読む
「花粉症はココロの病」と(南郷先生が)説かれること、納得レベルで分かることが実践的には必須であると思える。 「花粉症はココロの病である。ココロがパニックになるから、花粉症になる。クシャミ、鼻水、痒み等々が止まらなくなっていく。」と南郷先生がどこかで説かれていた(『夢講義』でであったと思うが、原文が手元にないので正確では無いが)。 その一文を読んで、その時は自身の花粉症を事実からそれなりに理解 . . . 本文を読む
雪駄で歩いたり走ったりは何故に疲れないのか?
朝の通勤での約1時間の速歩き、軽い走り、靴であれば身体がまだ動いてくれない感覚がある。呼吸が軽く苦しい、肩や腰、上肢下肢とあちこちに違和感がある。
それに対して、雪駄では、足裏からの刺激、下肢の骨への一歩一歩の衝撃が気持ち良い、とともに靴と違って、息苦しさも無ければ全身のどこにも違和感がない。心地良く、いつまでも歩いていける、それ以上に走り出したく . . . 本文を読む
「学問形成に関わる人類の認識の発展過程」という図、凄いもの!とその価値が次第次第に分かり出すとともに、なんとしてもそこに学ばねば!との思いへとなっていっている。
『哲学・論理学原論』で示していただいている「学問形成に関わる人類の認識の発展過程」という図、当初は、「思うや考えるということにもレベルがあるのだなあ」とか「自身では「思弁」や「思惟」どころか「思う」と「考える」ということの意味や区別と連 . . . 本文を読む
自身の為したことを思い、書くことに苦労している。が、次第次第にそのことの意義が分かって来たように思え、それゆえに、なんとしても!との思いへとなっていっている。
今春より自身の職場に新たに就職された先生たちの施術を見ていると、これまでに無くそのレベルは高いと思える。
そういう意味では、自身のレベルの手技療法術の施術が出来る者は、山ほどいるのだと思える。
しかしながら、それらの人々が自身の為した . . . 本文を読む
「カワイィ〜ッ!」という言葉の背後にある像について考えた。そのことで四百字詰原稿用紙五百枚に書くべきことのイメージがようやくに明確になってきた、と思える。
昨夜、駅のロータリーで、十代半ばと思える娘さんが母親(?)を相手にして身振り手振りを加えて話し、「カワイィ〜ッ!」を連呼しながら地団駄を踏んでいる?姿を見かけた。この光景を見かけた自身の思いは「カワイィ〜ッ!」ではなくて「気持ち悪い!」で . . . 本文を読む
「雪駄の粋な履きかた」ということ、を自身の認識の発展性の問題として考えると、そこにも「個体発生は系統発生を繰り返す」があってしかるべきであるのでは、と思う。
老舗の履物店のご主人から「雪駄の粋な履きかた」をご教示いただいたものの、自身のこれまでの「雪駄の履きかた」のイメージとはあまりにもかけ離れていたので、「あり得ない!」となっていってしまっていた。これは、雪駄を履くことを自身の如くに、単なる? . . . 本文を読む
サルの描く「もどき像」について理解するという過程で、南郷先生(や南郷学派の先生がた) の説かれることを、空手の事実で考えることの大事性、必須性を痛感する。
『新・頭脳の科学(上・下)』(瀬江千史 菅野幸子著 現代社白鳳選書)では、サルの描く「もどき像」について説かれる。(以下、青字は引用部分)
「これが前章で説いた「もどき像」の形成です。すなわち樹上において、樹木の枝に飛び移ろうとしたり、樹木 . . . 本文を読む
「肩鎖関節脱臼」にかかわる事実に、運動にとっての骨格の大事性を実感する。
自身の左肩鎖関節は、10年ほど前の柔道の乱取りで投げられて肩から落ちた時に脱臼している。それ以来、左側の肩、首には、コリ、違和感がずっと続いている。おそらく、脱臼して何ミリか歪んでしまったままになっていることが、その原因であると思える。
現在は特に痛みは無く(自身の主観としては)左右同じ様に使えるのではあるが、また、ほぼ . . . 本文を読む
人間が認知症になっていくということには二重性がある(あると捉えなければならない)と思える。
『看護の生理学(1〜3)』(薄井坦子 瀬江千史著 現代社白鳳選書)で説かれる「人間の解剖・生理」の究明の方法に学ぶならば、「認知症」というものも、「いのちの歴史」をふまえて、生命体の一般性としての「認知症」と人間の特殊性としての「認知症」の二重性で捉えなければならない、と思う。
まず生命体の一般性として . . . 本文を読む
出来ないことを出来るように頑張り続けることが、脳細胞の活性化のためには必須のことであると思える。
自身では、40歳を過ぎる頃から次第次第に体力(認識、実体ともに)が衰えていき、これまで出来ていたことが出来なくなっていくということが起こってきて、いつの間にかそのことが常態となっていきかねない、ということがあった(ある)。そのなかで、あれもダメこれもダメで、自身の現在に、それ以上に自身の未来に少しの . . . 本文を読む