鍼灸学校の学びの総括としての、東洋医学と鍼灸に関わる諸々のことについて説いていきたい、のであるが、そのためにしっかりと時間を割けない、かつこれ以上先延ばしも出来ないという状況での、であるので、当初の構想と違って覚え書的な形式でと考えている。
しかしながら、その分、教科書的な中身とか、他の東洋医学、鍼灸の書で説かれる部分を大きくカットして、自身が東洋医学、鍼灸を学ぶ上で疑問に思ったこととそれに対す . . . 本文を読む
19/01/03 16:15 時の経つのは早いもので、自身が鍼灸学校へ入学して鍼灸・東洋医学を学び始めてから4年近くの年月が経とうとしている。自身の鍼灸・東洋医学の学びはその当初よりわからないこと疑問だらけであり、かつそれを学校の先生や周囲に質問してみても、ほとんどの場合、満足な答えが得られることは無かった。
これは今にして思えば、自身ですら何を知りたいのか、知らねばならないのか . . . 本文を読む
「鍼灸・東洋医学の学びの総括(ブログ版2)」では、現代の鍼灸・東洋医学の世界(人々)は、科学とか科学的とかいうことを知りもしないで、それを鍼灸・東洋医学の究明には役に立たないとしてしまっている。と説いたのであるが、それに対しては、「否!我々は科学的(=西洋医学的)な究明を志して努力している!」との反論が当然にあると思う。
それに対して端的な答は、「(ブログ版2で少し説いたごとくに)自身の言う(本 . . . 本文を読む
現代の鍼灸・東洋医学の世界に何よりも求められるべきもの、それは「無知の知」(ソクラテス)ということである、と思える。(あるいは鍼灸・東洋医学の世界では、「これを知るを知ると成し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。」(孔子)といったほうが分かっていただけるであろうか?)
自身には、科学的=論理的な方法こそが対象の究明の最上のものであるとの信念があるので、鍼灸学校入学を決めて以来、鍼灸・東洋 . . . 本文を読む
あけましておめでとうございます。今年もまた新年を迎えることが出来ました。本年もよろしくお願いします。
予定では昨年の夏頃には鍼灸学校での3年間の学びの総括をして終える、終えなければならない筈であった本ブログなのですが、そのことがなかなかに叶わないままに新しい年を迎えてしまいました。
その理由は、一言でいってしまえば自身の実力不足ということになってしまうのですが、その中身には大きく二つのこと . . . 本文を読む
自身の「鍼灸・東洋医学の学びの総括」をする=書くなかで、『黄帝内経』というものは、古代中国としての「東洋医学的世界地図」なのではないのか?との思いへとなって行き、その思いの正否を確かめるべく、『黄帝内経』=『素問』と『霊枢』を再読しはじめたのであるが、自身のつたない実力で『黄帝内経』を読み返すよりも、その全体像をしっかりと描いて見せてくれるものが存在するという想いから『よくわかる黄帝内経の基本と . . . 本文を読む
『哲学・論理学原論〔新世紀編〕』(南郷継正著 現代社)の交換品を読み返している。
その高み深みに感心、感嘆させられるばかりで、どこが校正ミスなのか!?との思いで読み進めているのだが、読み進めていくほどに、「東洋医学の学びの総括=鍼灸学校の学びの総括」を書くことが、本当に物事を説くとはこういうレベルでなければならないとの思いへとなっていって、ますます困難になっていっている。
あわせて、gooブロ . . . 本文を読む
『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』(小林昌平著 文響社)、自身の書きたかったこと、書くべきこと、ズバリの題名である、と興味津々で読んだ。
先日、新聞に『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』という本の広告があった。その題名を見て、「これが自身の東洋医学、鍼灸の学びのスタートであり、ゴールである、とともにそのプロセスでもある。」との思いとなった。(自身においては、哲学者=南郷継正 . . . 本文を読む
「東洋医学の学びの総括」を書くことで、その過程で自身のアタマの働きのレベルの低さを、その実態を痛感させられている。
現在、「東洋医学の学びの困難性について(すなわち、東洋医学はなぜ難しいのか)=東洋医学如何に学ぶべきか(すなわち、鍼灸如何に学ぶべきか)」を書いているのであるが、その中での自身のアタマの働きの不足を日々痛感させられている。
具体的には、何か漠然とは書きたいもの、書かねばならな . . . 本文を読む
「東洋医学の学びの総括」ということで数回書いたのであるが、それを書く中で漸くに何を書くべきか、が明確になって来たと思える。
当初は、鍼灸学校での三年間の学び+αを総括して書いていこうとの構想であったのだが、諸々の事情から充分に準備することが出来ず、にもかかわらず今書かねば書かないままに終わってしまう、との思いから覚え書レベルででも、と書き始めることとなった。
さて、「東洋医学の学びの総括」を覚 . . . 本文を読む
(前回からの続き)
次に、弁証法について。弁証法とは「世界の運動の一般性についての学問(科学)」(あるいは「世界の一般的な運動についての学問(科学)」)である。これについても南郷継正先生の著作に学んでいたでければと思うが、簡単に東洋医学,鍼灸とのかかわりでその必要性を説いておきたい。
東洋医学,鍼灸を学ぶのに何故に<弁証法>の学びを!なのかといえば、端的には,弁証法が、世界の運動の一般性、 . . . 本文を読む
「陰陽論・五行論」について説いたので、次は、「気・血・津液」、「経絡・経穴」、「蔵象」へと筆をすすめる予定であった(「東洋医学の学びの総括」の構想としては、一般論(本質論)-構造論-現象論の順でとの思いがあった)のだが、東洋医学、鍼灸に関わる学びの総括をしようと、そこに関わる諸々の像を想起していくと、東洋医学、鍼灸の世界に認識論と弁証法が皆無であるということが痛感され、その現状に鑑みて、自身にと . . . 本文を読む
陰陽論・五行論について考えていくと、そもそも東洋医学は何のために誕生させられたのか?ということをおさえておく必要性を感じる、とともに現在の鍼灸の世界には、そこを論じる実力が無い、端的には認識論が無いということに鑑みて、実力不足ながら論じておきたい。
そもそも東洋医学は何のために誕生させられたのか?と考えるならば、一般的には、病気を治すために、もっといえば、経験的な東洋医術の限界を超えて、それの適 . . . 本文を読む
前回に引き続き「陰陽論・五行論」についての補足。
さて、五行論とは何か、と考えるとそれは陰陽論が世界(の運動)の根源の問題=本質についての論であったのに対して、世界(の運動)の構造についての論である、と思える。
それだけに、本来、陰陽論と五行論とは、陰陽・五行論であるべき、と思えるのだが、鍼灸学校では、陰陽論と五行論とは別のものとして平面的に論理のレベルを無視して並べて教えられる、かつ理解され . . . 本文を読む
漸くに「東洋医学の学びの総括」も本論にあたる部分を書き始められた、とホッと胸を撫で下ろしているのであるが、自身の書いたものを読み返して見ると、あれもこれも書き足りない、との思いとなっている、ので出来る限り補って、と思う。
「陰陽論・五行論」について書いたが、そもそも「陰陽論」とは何か、「五行論」とは何か、その両者はどういう関係があるのか、無いのか、また、古代中国において東洋医学が「陰陽論・五行論 . . . 本文を読む