『私の國語教室』(福田恆存著 文春文庫)を読んでいる。新仮名遣、新字体に大きな問題があった、あるのだということに二重に驚かされる。
旧字体=正体字というものに興味を持ち、何冊かの書を読む中で『私の國語教室』を手にした。
自身は、新仮名遣、新字体での教育を受けているのであるが、父の蔵書の学問書の多くが旧仮名遣、旧字体であったので、小学生の頃から、旧仮名遣、旧字体にはある程度馴染んでいたし、それら . . . 本文を読む
洋菓子の名前が思い出せなかったので思い出す努力をしてみたが、どうしても思い出せなかった。
記憶力の低下もスマホの弊害の一つであると思える、とともに、それは一面でスマホの恩恵ともなるもの、と思える。
今日、来ている海のそばに「チロル」という洋菓子が売っている。数年前に人にいただいて初めて食べて以来、気に入っているのだが、その名前がどうしても思い出せず、その味や色、形、食感等はリアルに思い描けるの . . . 本文を読む
経絡・経穴は機能である。とは鍼灸の世界ではよく言われることである。これはどういうことなのであろうか?
鍼灸の世界では、例えば鍼灸学校では、経絡・経穴は機能である。という説明が日常的になされる。
これはなによりも、経絡・経穴はウソ、迷信の類である。その証拠に解剖して見ても経絡・経穴はどこにも無いではないか!との外野?からの批判に対しての、であると思う。
しかしながら、経絡・経穴というものは、解 . . . 本文を読む
今年初めて海へ来た。
例年、自身の海開き?はゴールデンウィーク前後であるのだが、今年は気温も低く個人的にも忙しくで来れていなかった。
今日は、30度を超えての気温となるらしいので、出来れば泳いでほぐして、と思う。
気温は30度近くまで上がったのだが水が冷たくとても泳げない、もう還暦だしなあとの思いで諦めの境地であったのだが、家族ずれがやってきて小学生と思える姉弟が水遊びからふざけて泳ぎだした。 . . . 本文を読む
雪駄で鼻緒ずれをつくってしまった。ものごとは量質転化的なのだなあ、と弁証法的な世界の法則性を実感する。
新しい雪駄の慣らし履き、最初の長時間の慣らし履きで鼻緒ずれが出来なかったので、調子に乗って今日も新しい雪駄で通勤しているのであるが、今日は早々に鼻緒ずれをつくってしまった。
これは、前から履いている雪駄だから大丈夫と、今年の雪駄履き始めにもかかわらず別の雪駄で長時間歩いてしまって、軽く鼻緒ず . . . 本文を読む
「丸屋履物店」から雪駄が届き、慣らし履きを始めている。履き続ければ履けるようになっていくのだ、と雪駄にも弁証法性(量質転化、相互浸透)あること実感するとともに、それだけに何事も「案ずるより産むが易し」は真理なのだ、と思えた。
日常履き(鍛錬用ではない)の雪駄が傷んできたので「丸屋履物店」(現在では雪駄の修理をしてくれる数少ないお店)に修理、見積もりをお願いした。
あちこち傷んでいたのを本格的に . . . 本文を読む
機能、機能的なもの、ということについて考え続けることで、漸くにそのことがアバウトにであるがイメージとして明確になって来たと思える。
考え続けるということの大事性実感する。とともに、スマホというものの恐さ、インターネットの弊害というものが具体性を持って感じられた。
自身の中で、機能、機能的なものということがしっかりと分かれていない。との思いから、それらの自身の中の理解を書いてみる、書いてみること . . . 本文を読む
フットケアと称して、巻き爪、ウオノメ、タコ、外反母趾等々に対処してくれるところがある、と知った。何故に足は(手に比して)そんなにトラブルが多いのか!?との思いへとなっていった。
先日、知人がフットケアサロンなるものをオープンさせた、と知った。当初は、そんなものが仕事になるのか?と不思議な思いがした。
しかしながら、リハビリ室での患者さんの中にも、巻き爪、外反母趾、ウオノメ等のトラブルを抱えてい . . . 本文を読む
腰痛を訴えるNさんに対しての施術おこなった。経絡は機能的なもの、ということのイメージの深まりがあった、と思える。
一昨日、腰痛を訴えて受信したNさんに対しての施術をおこなった。右下肢内側にもハリ、違和感があるということであったので触診し、かつ指圧していくと少陰腎経の流注に一致してのハリがあり指圧による圧痛があった。
「経絡とは機能的なものであって実体としては、解剖してみても、それはどこに . . . 本文を読む
肩の運動時痛を訴えるKさんに対しての施術を行なった。身体を全体の繋がりで診ることの大事性、実感する。
昨夜、上肢水平外転時に肩前面の痛みを訴えるKさんに対しての施術を行なった。
いつから?何か心当たりは?......といつものように問診を行う。
痛みは数日前からであるが、それ以前、胸部を強く打撲している、ということであった。
上肢を運動させて見ると、挙上は出来る、回旋も出来る。痛みを訴える . . . 本文を読む
本日、半月ぶりくらいに、昼休みの鍛錬行った。河原も新緑に包まれ、時の流れの速さを実感した。
そこに自身の諸々の環境の移ろいを重ねて見ることとなり、万物は流転する(Τα Πάντα ῥεῖ )ということ実感された。
とともに、だから古代ギリシャの人類は不変のもの、世界の根源、事物の本質を求めたのか!?と.......そのことの意義を感情レベルで実感出来た、と思えた。
そう思えると、自身の今の思 . . . 本文を読む
鍼灸を学ぶのに何故にその学びかたを問わねばならないのか?
端的には、世界は過程の複合体であるから。
より構造的には、世界のあらゆる事物は(それゆえに鍼灸というものも、それを修得するということも)、過程性、構造性を持っての存在であるから、如何なる過程的構造(あるいは構造的過程)を持って、持たせて学ぶかで、その結果としての習得、修得の在り方が大きく違ってくる、からである。
それに対して、鍼灸学校 . . . 本文を読む
自身の生命力の幅が狭まっている、ということ実感する。それだけにしっかりと生活過程を整えることの必須性痛感される。
父の骨折、入院、オペ立会等々で、自身の生活が実体としても認識としても乱され......今朝は、数年ぶりに軽い喘息の発作が起きている。
自身で生活(食、運動、睡眠)を整えることで、しっかりと克服出来た、出来ていると思っていただけに、自身の健康な状態が微妙なバランスの上に成立しているこ . . . 本文を読む
東洋医学・鍼灸の世界では、医学と医術の区別と連関ということが理解されていない。(これは、科学的な理論=対象の構造を対象に則して究明していくことを拒絶した罰であると思えるが......)
しかしながら、そもそも医学とは何か、医術とは何かが、そして両者はどう違うのかどう同じなのかが、より一般的には科学と技術の区別と連関が分かっていなければ、東洋医学とは何かも分かりようも無いし、東洋医学と錯覚して東洋 . . . 本文を読む
「六部定位脈診」の問題を考えるには、その原点に立ち返っての生成発展として視ること、弁証法性で視ることが必要である。
「六部定位脈診」というものも誰かが創り出したものであるから、それには始まりがある。
ただ、これにも二重性がある。古代中国において最初に「六部定位脈診」が誕生させられた時と昭和の始めに経絡治療の診断方法として再び誕生させられた時との二重性である。
古代中国においては、当初は患部の . . . 本文を読む