近所のお寺「最禅寺」にある石碑です。仏像が彫ってあります。この石碑、数年前、地区のあるおたくの田んぼの改修の際、それまで小さな溝にかけられていた石橋でした。掘り返したら裏に仏像が彫ってあったそうです。お寺に持ってこられたので粗末にしてはいけないと、総代が数人で基礎を作り倒れないように据え付けました。
地域の古老に聞いてもいつの時代に作られたものかは全く不明です。いつの時代にか、農民が暇にまかせて彫ったものか、石工さんが彫ったものの出来が悪いのでそのまま溝のふたにしたのか?
この隣には長州戦争で亡くなった兵隊さんの墓が2基あります、大分字が薄くなっていますがなぞって読むと「宮津藩藩士」の字が読めます、異国の地で戦死した人で昔のこと故、戦死者として手厚く葬ったものと思います。いつの時代も戦死者は大切に手厚く葬るのは敵味方を問わず行ってこそ当然と思います。
靖国神社を政争の具にする愚かさをそろそろこの国の指導者も分かってほしいものです。
下関の功山寺には、このような長州戦争で亡くなった人の無縁仏を、地域で管理できないものが持ち込まれて大きな塚が作られています。下関勤務中、なんで全国の出身者の墓がまとめられているのか理解できませんでした。今暇になってだんだん理解できるようなりました。
地域の古老に聞いてもいつの時代に作られたものかは全く不明です。いつの時代にか、農民が暇にまかせて彫ったものか、石工さんが彫ったものの出来が悪いのでそのまま溝のふたにしたのか?
この隣には長州戦争で亡くなった兵隊さんの墓が2基あります、大分字が薄くなっていますがなぞって読むと「宮津藩藩士」の字が読めます、異国の地で戦死した人で昔のこと故、戦死者として手厚く葬ったものと思います。いつの時代も戦死者は大切に手厚く葬るのは敵味方を問わず行ってこそ当然と思います。
靖国神社を政争の具にする愚かさをそろそろこの国の指導者も分かってほしいものです。
下関の功山寺には、このような長州戦争で亡くなった人の無縁仏を、地域で管理できないものが持ち込まれて大きな塚が作られています。下関勤務中、なんで全国の出身者の墓がまとめられているのか理解できませんでした。今暇になってだんだん理解できるようなりました。