金沢の観光スポットレポート(No.1866)
◇ここだけは押さえたい「兼六園のツボVol.1」①
今回ここだけは押さえたい「兼六園のツボVol.1」をユーチューブにアップしたので、再度兼六園を詳しく解説します。ユーチューブの解説版としてぜひご覧ください。
〇蓮池門旧址(れんちもんきゅうし)
藩主は金沢城からこの門を通って蓮池庭(後に兼六園)へ入った。藩政時代における兼六園の正門で、百間堀通りに面して残る幅広い石段に当時が偲ばれる。古図によると石段を登った右側に番所があり、三十人頭と呼ばれる役人が番をしていた。
〇瓢池
蓮池門を入って右手に広がる池。東西90m、南北45m、周囲約270mで、園内にある四つの池のうち霞ヶ池に次いで2番目に広い。この辺り一帯が兼六園発祥の庭、蓮池庭であった。瓢池の名の由来は、池が瓢箪の形をしているからという説と、池に浮ぶ島の姿からという二説がある。
〇瓢池の中島
池の中に松の木が植えられた小島がある。実は、ひさご池にはかつて3つの島があった。海石塔のある場所も、夕顔亭のある場所も、かつては島となっていて、作られた当初は池に3つの島が並ぶ形に作られていた。不老長寿の神仙島の三島(蓬莱:ほうらい、万丈:ばんじょう、瀛州:えいしゅう)になぞらえて、子孫繁栄、延命長寿、立身出世を願って造られた。
〇海石塔
瓢池の中島に建つ、高さ4.1mの塔。虫が喰ったように穴の空いた淡茶色の笠石が、六重に重ねられています。3代藩主・利常(としつね)がつくらせ、金沢城の庭園にあった13層の石塔の一部を移したという説と、朝鮮出兵の際、加藤清正(かとうきよまさ)が持ち帰ったものを、のちに豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、前田利家(まえだとしいえ)に贈ったという説があります。
また、利常が小松城内に設置した一対の一つを兼六園に、一つは奥野八幡神社にという説もあるが、定かでない。
〇瓢池の岩島(ひさごいけのいわしま)
瓢池の石橋「日暮橋」を渡ったところが亀島で、亀島から数mのところに松が植えられているのが岩島だ。亀島と対で、鶴に見立てたものと思われる。
〇翠滝
霞ヶ池から流れ出て瓢池に注ぎ込む、園内最大の滝です。高さ6.6m、幅1.6mで水量が豊富、滝音も大きく、目と耳を楽しませてくれます。その荘厳さと迫力は他庭にはないスケールで、兼六園の中でも特に優れた庭景の一つです。別名「紅葉滝」とも呼ばれています。
第11代藩主治脩(はるなが)が安永3年(1774)に宝暦の大火で焼失した夕顔亭復興と翠滝を設置したもので、滝の音にこだわり、滝壺がなく滝の上部などに工夫がされている。滝の上部は中心部が滝流が速いため長く、両端が短くなっており先端部分がギザギザとなっている。
〇夕顔亭
瓢池の東岸にある茶室。時雨亭、内橋亭、舟之御亭とならぶ蓮池庭四亭の一つ。11代藩主治脩が、宝暦の大火(1759)で焼失した蓮池庭を復興すべく、翠滝とともに安永3年(1774)に建てたもので、その地に往時のまま残る園内唯一の建物である。三畳台目、下座床、相伴席をもつ形式で、京都・藪内家の茶室「燕庵」とほぼ同じであることから、その写しともいわれている。蹲口がなく、障子2枚からなる貴人口がある。小間でありながら翠滝の景観を楽しむ開放的な茶室だ。 夕顔亭の名は、床の袖壁に夕顔(瓢箪)の透かし彫りがあるからで、これは後世の呼び名である。当時は「中嶋の茶屋」「瀧見の御亭」とも称されていた。もとは池の中に浮かぶ島に建てられていたが、明治に入って一部埋め立てられ、現在は陸続きとなっている。
〇伯牙断琴の手水鉢(はくがだんきんのちょうずばち)
伯牙断琴の手水鉢がつくられた経緯には面白いエピソードが残っている。ある日、五代藩主、前田綱紀(つなのり)が、後藤程乗を呼び、「そなたは金工の名人であるが、石は彫れんだろ?」と言われ、「金が彫れて石が彫れないわけがない」と、彫って見せたのが、伯牙断琴の手水鉢だと言われている。
(つづく)
ユーチューブここだけは押さえたい「兼六園のツボVol.1」アップしました。
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