いしかわの観光スポットレポート(No.1962)
◇加賀藩 金沢城元旦登城 - ②(ユーチューブ連動解説版)
〇金沢城元旦登城
藩主在国中の元旦、藩士たちは登城し、二の丸御殿で藩主に年頭の「御礼」(拝礼)行った。まずは奥書院において、叙爵(じょしゃく)年寄衆が一人ずつ「御礼」を申し上げ、舟の間の二の間行われた鶴の包丁式を見たあと、場所を小書院移し、そのほかの年寄りや家老、若年寄が「御礼」を申し上げた。それが終わると、藩主は大広間へと移り、上段に着座して人持組ら藩士一人一人の「御礼」を受けた。ついでに同じ間の下段に着座しなおして平士、平士並の「御礼」をうけ、重臣たちに吸い物や酒、雑煮などを振る舞うなどして元旦の規式を終えた。
■写真は江戸後期の金沢城図
〇三の丸広場
三ノ丸は石川門、河北門の内部の郭を指し、利家が入城した後、 重臣の居邸が建てられたが、その後、これらを城外へ移し、高知番所、 物頭番所が置かれた。高知番所とは、人持組という身分の高い武士が宿直して警備に当った所で、 物頭番所は物頭の役をしたものが宿直して警備に当る時に使用した所。北側から東側の周囲には藩の初期だけで、直ぐに廃れてしまったと云う。北側から東側の周囲には九十間長屋が造られ、 弓や筒等が保管してあった。
〇橋爪門
橋爪門は格式が高く、石川門、河北門と並ぶ「三御門」で2001年完成の菱櫓、五十間長屋、橋爪門櫓と合わせた一連の復元(平成の築城ともいわれる)が完成した。 橋爪門は一の門と二の門、土塀で構成される枡形門で、藩主が居住・執務した二の丸御殿へ至る最後の門として番所が置かれた。明治14年(1881)の大火で焼失した木造2階建ての二の門は藩政期の絵図などを基に再現し、鋲を施した門は重厚な雰囲気を醸し出した。
■写真は橋爪門
〇二の丸広場
二ノ丸は城内中央の郭で、周囲が530m。利家が入城して本丸には藩主とその家族が住み、二ノ丸、 三ノ丸、西ノ丸、北ノ丸の周辺に藩の重臣たちの邸宅があった。ところが慶長7年(1602)の天守閣焼失以降しだいに城の中心は二ノ丸へと移され、藩主の居館として二ノ丸御殿が整備されていった。この豪壮な御殿は120年余存続したが、宝暦9年(1759)の城下の大火の類焼で、城内の殆ど全部が焼失した。その後の再建は二ノ丸御殿を中心に行われ、明治14年(1881)に焼失するまで、焼失と再建をくり返しながら、金沢城の中核としてその威容を誇っていた。
〇二の丸御殿復元
石川県は復元整備を目指す金沢城二の丸御殿について、復元範囲を藩主が政務を執った「表向」の玄関と大広間、書院の約千坪とする方針を固めた。文化庁からもおおむね了解を得た。復元範囲は二の丸御殿全体の3分の1に相当し、3~5期と段階的に整備を進め、順次公開する。表向きは約1800坪で、復元は予算の都合の制約があることから建物や屋根などによってエリアを分けて段階的に取り組む。県は二の丸御殿復元の基本方針を2020年度内にとりまとめる予定。(北國新聞より)
■写真は復元発掘調査中
(つづく)
ユーチューブ「金沢城元旦登城ルート」