金沢の観光スポットレポート(No.1948)
◇高山右近ゆかりの地巡りウオーク②(ユーチューブ連動解説版)
高山右近は、天文21年頃(1552)摂津国高山生まれで天正16年(1588)高槻城主となった右近は、織田信長、豊臣秀吉の元で、武将や茶人として活躍しますが、茶人としては千利休の高名な弟子「利休七哲」されている。
秀吉は、天正15年(1587)に伴天連追放令を発し、右近は追放され、天正16年(1588)に、初代加賀藩主前田利家の元、金沢に迎えられ、「南方等伯」名のっていた。前田家での右近は八王子攻めやは大聖寺城攻めなどの武将としてだけではなく、金沢城の改修や惣構の築造にも深く関わっていたと伝えられている。
慶長19年(1614)のキリシタン教禁止令によって、前田家を離れることになります。右近は妻子らとともに金沢を立ち、長崎から、フィリピン・マニラへと出航し、翌年にマニラに到着しますが、病にかかった右近は翌月の元和元年(1615)になくなりました。
今回は高山右近が活躍した金沢城惣構堀や、切支などゆかりの地金沢駅地下もてなしドーム広場発着(約10キロ)を巡ります。
〇黒門前緑地の豪姫屋敷跡看板
豪姫は利家と松の四女で宇喜多秀家の妻。豪姫は大阪でキリシタンになった後、金沢に帰り、この地に居住したと伝わる。受洗名はマリア。
〇甚左衛門坂入り口の伴天連屋敷跡
金沢城西側と城下をつなぐ甚右衛門坂の下周辺には、伴天連屋敷(宣教師の屋敷)があったと伝わっており、内藤如安、浮田休閑など、右近を頼って金沢にきたキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたと推測される。現在の兼六園横の紺屋坂に隣接する箇所であったようだ。
〇金沢城大手門
本願寺による金沢御堂を起源とし佐久間盛政によって築城、前田利家が入城し本格的に整備した平山城。新丸や大手門の整備が右近の設計によるものと言われている。
〇OPEN効果もあって、移転前のたけはしの入場者数が3倍になったとか?
■国立工芸館の参加者
〇県立美術館裏の右近屋敷跡
高山右近の屋敷は、大乗寺の由緒書などから本多家の上屋敷周辺の大乗寺跡地で、現在の石川県立美術館周辺から金沢21世紀美術館周辺と言われている。
〇中村美術館
茶道具と工芸の美術館で、右近の茶道の師である千利休作の茶杓や、右近によってキリシタンに改宗した蒲生氏郷が所有していたと伝わる茶杓や右近の娘ルチアが嫁いだ横山家伝来の茶入を所蔵しています。
〇西外惣構跡 旧宮内橋詰遺構
ケヤキの巨木が土塁と盛土とともに残っている。隣接地の21世紀美術館脇へ堀が延びて折り、堀の雰囲気が長い区間イメージできる唯一の場所。
〇カトリック金沢教会の高山右近像
教会入り口右側には高山右近銅像があり、高山右近、細川ガラシャなどを描いたステンドグラス、右近の聖遺物、右近所用と伝わる香炉、マリア観音像、聖母子像などを見ることができる。
〇前田土佐守家資料館
加賀八家の前田土佐守家資料館。1階展示室の前田利家遺言状(現代語訳)には「高山南方(右近)を大切にすること」とある。
〇寺町「立像寺」庭園のキリシタン灯籠
境内に、高山右近作と伝わるキリシタン灯籠(非公開)がある。
参考)玉泉園庭園内のキリシタン灯籠
玉泉園庭園の初代脇田直賢が、青と戸室石を用い班の石工に造らせたもの。利休七哲の一人、古田織部が考案したことから織部灯籠と呼ばれる。金沢で最古のキリシタン灯籠である。
◇高山右近ゆかりの地巡りウオーク①
(つづく)
□ユーチューブ「高山右近ゆかりの地巡りウオーク」
https://www.youtube.com/watch?v=34qA7senkUo