かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

盛岡の歌声喫茶

2010年02月28日 | 旧ブログ記事(岩手・盛岡関係)
 街の規模を考えれば、盛岡には数多くの喫茶店があると思います。スタバなどの大手のチェーン店もあり、そこそこ人は入っていますが、撤退する店舗の方が多いことを考えれば、案外盛岡の人は地元密着型の喫茶店を好んでいるような気がします。

 kaneurikichiji はコーヒー好きなのですが、自宅で飲む方が多く、滅多に喫茶店には入りません。

 昨日、開運橋で岩手山の写真を撮った後、大通りのジュンク堂に行くために歩いていたのですが、道ばたに下の写真のような看板が目に入りました。

「うた声喫茶の日」とあり、びっくりしました。盛岡にも歌声喫茶があるのですね。

 ここはパランギという喫茶店で、kaneurikichiji も5・6年前に一度入ったことがあるのですが、その時はそんな感じではなかった気がしますし、わざわざ「うた声喫茶の日」という看板を出しているということは、特定の日に歌声喫茶になるということなのでしょう。

 歌声喫茶についてはそういうものがあるという知識があるだけで、そんなお店に入ったことがないので、一度どんな雰囲気なのか見てみたい気もします。

 でも、kaneurikichiji は音痴なので、人前で歌を歌うのはどうも・・・・。

 盛岡近郊にお住まいの方で歌声喫茶を求めておられる方。パランギの場所はここですので、行ってみてはいかがですか?


行かれる方はこの看板を目印に。

寒中よ市に行ってきました

2010年02月27日 | 旧ブログ記事(岩手・盛岡関係)
 今日は良く晴れた盛岡でした。

 よ市は4月から11月までの毎週土曜日の午後に開催されますが、今日はベアレンで独自に“寒中よ市”のイベントが開催されたので、それに参加しました。

 3時からの開始で、15時5分頃に「出勤」してサーバーの前に並んだのですが、「よ市」初登場のビスケットエールを飲もうとしたところ、kaneurikichijiの順番で売り切れになるほどの盛況ぶりでした。

 観光で盛岡にいらしたかたも参加されていましたが、ほとんどいつものメンバーでした。

 そして、とうとう「よ市」に100回連続出勤された伝説のA氏と少しお話しすることができました。

 よ市に通い始めて数年たちますが、A氏と言葉を交わすことができてやっと「レギュラー」になれた気がします。


開運橋からみた岩手山と北上川。


今日のよ市。左端の人がA氏です。

“ALL TIME SINGLES”買いました

2010年02月26日 | 旧ブログ記事(その他)
 東京から新幹線で3時間あれば盛岡に着くのですが、雑誌や本は未だに一日遅れで発売されます(さすがにハリーポッターは東京都同時でしたが)。

どうしてなんでしょう?最近では一日も早く読みたい・見たいというものはさすがになくなりましたが、おとといは久々にそのもどかしさを感じました。

 そうです。24日はTHE BLUE HEARTSのベストアルバム“ALL TIME SINGLES”の発売日だったのです。

今回のベスト盤を買いたかったのは、レーベル関係なしの本当のベスト集とかデジタルリマスタリング音源ということもありますが、プロモーションビデオがどうしても見たかったからです(ブルーハーツをよく聞いていた頃はビデオがそれほど普及していない頃で当然家にもなく、ブルーハーツのPVを見たことがありませんでした)

 で、やっと今日手に入れて、ビデオを見ました。

 ヒロトもマーシーも今とさほど変わらない気がしますが、当たり前ですがやっぱり若いですね。見ていてブルーハーツを初めて聞いた十六の頃を思い出しました。

 あれから二十数年。

 あの頃思い描いていた未来像の1%も実現されていません。

 2%でも3%でも十六の頃思い描いていた絵を実現できるよう、あの頃の気持ちを思いだしてがんばろうと思いました。

 やっぱり音楽って偉大ですね。


“ALL TIME SINGLES” ステッカーもいただきました。


室の樹遺跡②~長者ヶ原廃寺跡周辺の遺跡(2)

2010年02月25日 | 旧ブログ記事(長者ヶ原廃寺跡・衣川関係)
 昨日、室の樹遺跡がかなり重要な遺跡なのではないかと書きました。

 以前どこかのシンポジウムで話したことがあるのですが、kaneurikichiji はこの室の樹遺跡こそ、衣川館(ころもがわのたち)すなわち源義経の最期の場所だったのではないかと考えています。その理由はこうです。

  1.昨日も記した通り、ここにある巨石が長者ヶ原廃寺跡と同じく北上山地から運ばれていて、
   ここに礎石建物があった可能性が高いこと。

  2.(故人ですが)近所の方によれば、ここは以前畑で、何かの工事の時に人の頭ほどの
   大きさの川原石が敷き詰められていたのを見たことがあるといいます。もしかすると、苑地の
   州浜(すはま)の可能性があります。

  3.すぐ隣の家の屋号は「中島」で、周りより若干高くなっている地形(かもしくは苑地に設けられた
   中島)がその由来だと思われること。


 さて、義経最期の地として、人口に膾炙しているのは平泉町の高館(たかだち)でしょう。

 しかし、義経最期の様子を記した『吾妻鏡』という歴史書には、

   与州(義経のこと)は民部少輔基成朝臣の衣川館にあり。泰衡、兵数百騎を従え、その所に
  馳せ至りて合戦す。与州と家人などあい防ぐといえども、ことごとく以て敗績す。与州持仏堂に
  入り、まず妻・子を害し、次いで自殺す。


とあります。

 この衣川館(ころもがわのたち)が現在の平泉町高館にあったとするようになったのは江戸時代になってからで、しかも根拠があるわけではないようです。

 したがって今となってははっきりしないというのが正確です。ただ、衣川館というからには衣川地区にあるのが自然でしょうし、現に多くの中世史研究者はそのように考えています。

 一時、接待館遺跡が衣川館なのではないかと言われていましたが、少なくともここに持仏堂(そこに住む人物が毎日礼拝する仏像を安置するお堂のこと。普通は礎石建物)があった痕跡はありません。

 というわけで、kaneurikichijiは、州浜を持つ苑地と礎石建物があった可能性がある室の樹遺跡が衣川館ないしはその持仏堂なのではないかと考えています。もっとも本格的な発掘調査も行われておらず、あくまでも可能性の話ですが。

 それはともかく、室の樹遺跡には基衡の妻が仁和寺から移植したものではありませんが、今でも多くの桜が春になると見事に咲き誇ります。ぜひ、春には室の樹遺跡の桜を見に来て下さいね。


長者ヶ原廃寺跡・南門跡から室の樹遺跡を臨む。写真中央の木立の手前が遺跡です。

室の樹遺跡①~長者ヶ原廃寺跡周辺の遺跡(1)

2010年02月24日 | 旧ブログ記事(長者ヶ原廃寺跡・衣川関係)
 長者ヶ原廃寺跡のある衣川は、古くから重要な出来事がいくつか起きた歴史の舞台でもありました。そのため、長者ヶ原廃寺跡の周辺には数多くの遺跡があります(詳しくはこのパンフをご覧下さい)

 昨日、名前が出た室の樹遺跡もそんな遺跡のひとつです。

 遺跡の名前は、長者ヶ原廃寺跡の東隣の字名(室の木)に因むものです。この地名は地元の伝承に基づくもののようです。

 その伝承とは、浄土庭園で有名な毛越寺を建立した藤原基衡の妻が仁和寺からこの場所に桜の木を移植したというものです。

 仁和寺は出家後の宇多法皇が住まいしたところで、そのため御室(おむろ)御所とも呼ばれていました。その御室御所から移植した桜の木を「室の木」と呼び、それが地名になったというものです。

 室の木遺跡には下の写真のように巨石が転々としています。5年前に岩手県立博物館が石を分析していますが、その結果によれば、長者ヶ原廃寺跡の本堂跡と同じ安山岩で、束稲山の北側の山毛欅(ぶな)周辺から運ばれたものとのことです。

 本格的な調査は行われていませんが、かなり重要な遺跡だとkaneurikichiji は確信しています。


室の樹遺跡に転々とある巨石。北上川の向こうからどうやって運んできたのでしょうか?