24日に松尾芭蕉が平泉に来ていることを紹介しました。
芭蕉が平泉にやって来たのは元禄2年(1689)の5月13日で、中尊寺の北側、長者ヶ原廃寺跡のすぐそばまで足を運んでいます。
どうしてそれが分かるのかというと、芭蕉が『奥の細道』で「衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入」と記しているからです。
ただ、これだけだと知識として知っていれば見なくても書けることです。
けれども、芭蕉に同行した弟子河合曾良が日記を残していて、やはり二人は実際に衣川を、「ころもかわ」も「ころもがわ」も目にしていることが確認できます(『曾良随行日記』といいます)。
日記にはこうあります(原文のまま)。
十三日、天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、
平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。
高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・
さくら川・さくら山(束稲山)・秀平やしき等ヲ見ル。
泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。
三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ不開。
金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。
主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。
それによると、芭蕉と曾良は、宿泊地の一関を10時頃平泉に向けて出発し、中尊寺を見学した後、「泉城」まで来たようです。
泉城とは、源義経を「大将軍」として平泉を守るようにとの藤原秀衡の遺言を忠実に守った、その息男忠衡の居城があった場所。
昨日の写真はその対岸から撮影したものです。
したがって、ころもかわもころもがわも、どちらも目にしているはずなのです。
それにしても、衣川って文人たちのあこがれの地なんですね。
上の日記にも名前が見える月山から見た風景。
左の写真の右の矢印の下あたりが泉城。左の下には昨日も紹介した中尊寺・関山亭。
右写真も同じ場所から。木立にほとんど隠れてますが矢印の下が長者ヶ原廃寺跡。
芭蕉が平泉にやって来たのは元禄2年(1689)の5月13日で、中尊寺の北側、長者ヶ原廃寺跡のすぐそばまで足を運んでいます。
どうしてそれが分かるのかというと、芭蕉が『奥の細道』で「衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入」と記しているからです。
ただ、これだけだと知識として知っていれば見なくても書けることです。
けれども、芭蕉に同行した弟子河合曾良が日記を残していて、やはり二人は実際に衣川を、「ころもかわ」も「ころもがわ」も目にしていることが確認できます(『曾良随行日記』といいます)。
日記にはこうあります(原文のまま)。
十三日、天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、
平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。
高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・
さくら川・さくら山(束稲山)・秀平やしき等ヲ見ル。
泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。
三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ不開。
金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。
主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。
それによると、芭蕉と曾良は、宿泊地の一関を10時頃平泉に向けて出発し、中尊寺を見学した後、「泉城」まで来たようです。
泉城とは、源義経を「大将軍」として平泉を守るようにとの藤原秀衡の遺言を忠実に守った、その息男忠衡の居城があった場所。
昨日の写真はその対岸から撮影したものです。
したがって、ころもかわもころもがわも、どちらも目にしているはずなのです。
それにしても、衣川って文人たちのあこがれの地なんですね。
上の日記にも名前が見える月山から見た風景。
左の写真の右の矢印の下あたりが泉城。左の下には昨日も紹介した中尊寺・関山亭。
右写真も同じ場所から。木立にほとんど隠れてますが矢印の下が長者ヶ原廃寺跡。