かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

まだまだ知らないことがある

2012年11月30日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
今日はお休みをいただいて温泉へ。

ちょうど盛岡市の遺跡の学び館の前を通ったので寄ってきました。

「検証!厨川柵」展という企画展が開催されているからです(来年の1月20日まで)。

厨川柵(くりやがわのさく)とは、長者ヶ原廃寺跡を建立した安倍氏の軍事的拠点のひとつで、今でも地名として残っています。

この展示では、長者ヶ原廃寺跡の時代の土器がたくさん展示されていると知人から教えられていたので、ちょうどいい機会だと思い、さっそく入館。


聞いたとおり、長者ヶ原廃寺跡の時代、つまり今から約千年前の土器が展示されていました。

 


左下と右下の土器が灯明皿

知らなかった遺跡のものもあり、とても勉強になりました。

他にも、灯明皿の使い方も展示されていて、これはとても参考になりました。





まだまだ知らないことがたくさんあります。

一日一日勉強です。



見えるといい気分になる早池峰山

2012年11月28日 | 旧ブログ記事(岩手・盛岡関係)
天気がよいと岩手山が見え、岩手山がよく見えると盛岡市民はいい気分になります。

が、独立の県内最高峰の岩手山と違って、北上山地の奥深くにある早池峰山は、なかなか市内から見られないので、ちょっとでも姿が見えるともっといい気分になります。

3連休最終日にしてようやく晴れた先日の日曜日。

買い物帰りの車から早池峰山が見えて、相棒と一緒にいい気分にひたって自宅近くまで来たら・・・



なんと自宅のすぐ近くでも見えることが判明。

今度からは、天気がよくしかも空気が澄んでいる日には岩手山だけじゃなく、早池峰山も写真に納めようと思います。

えさしの絵図はえぇ図です

2012年11月27日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
先日、職場近くの“えさし郷土文化館”に「江刺の里めぐり-近世の村絵図を楽しむ-」展を見に行きました。

この展示は、おおむね江戸時代の旧江刺郡四十一ヶ村の村絵図を紹介したもの。


江刺郡絵図。文政年間(1818~29)頃に作成されたもの。

村絵図とは、「主に行政上の目的を持ち、おおむね為政者の必要に応じて領主あるいは村で作成された」(展示図録より)もの。

また、そこに描かれたものを見ることによって、当時の人々の世界観を知ることもできるのです。

例えば、人々が寝起きする家も、現代ならばおおよそ同じように描かれますが、村絵図を見ると数パターンに区別されています。

現代ではどんな家を造ることも自由ですが、身分制が社会に貫徹していた当時、家の造りと身分とは密接な関係にあったものと思われます。

ですので、それを描き分けることで絵図を見てそこにどんな人が暮らしているのかも示したかったのでしょう。

また、今の地図でも寺院や神社は地図記号で表現されていますが、江戸時代の村絵図には経塚も描かれています。


黒石村絵図。今も重要文化財の薬師如来坐像で有名な黒石寺(こくせきじ)が描かれています。



これは当時の人々の信仰の対象が寺社だけではなかったことを示しているのではないでしょうか?

この展示を見れば、タイムスリップして昔のことを知ることが出来るかもしれません。

今週末までですので、ぜひご覧いただきたいと思います。


図録。これはかなりオススメです。

大そうじは『復興ぞうきん』で!

2012年11月26日 | 旧ブログ記事(その他)
今週の土曜日はもう12月。

いよいよ年末です。

年末といえば大そうじ。

kaneurikichiji は仕事納めを終えてすぐに帰省するので、年末に一気に大そうじできないため、先々週あたりから少しずつし始めています。

大そうじにふさわしいのは、やはり雑巾。

今年の3月11日に『復興ぞうきん』を購入してから使い続けていますが、やはりくたびれてきました。

というわけで、新しいのを購入(300円)。


上に吊り下がってるのが半年前に購入したもの。

これでまた大そうじがはかどりそうです。


  「全国からご提供頂いたタオルと糸で、被災された方々にぞうきんを仕立ててもらいました。
   1枚につき200円を縫い手さんにお渡ししています。復興にはまだまだ長い時間がかかり
   ますが、この復興ぞうきんの一針一針が未来につながっています。たくさんの方にご賛同
   いただければ幸いです。                               SAVE IWATE」

皆さんもいかがですか?

こちらをご覧下さい。


鑑真和上が来てなければ・・・・~唐招提寺に行って来ました④

2012年11月25日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
一般にお坊さんといっても、大きく分けて2つの段階があります。

まずは、出家・得度して沙弥(しゃみ)あるいは沙弥尼(しゃみに)となります。

沙弥・沙弥尼は、十の戒を守らなければなりません。

そして、一定期間、学問や修行に精進し、20歳以上になり、二百五十の戒律を守ることを誓い、教団から許可を受けて初めて比丘(びく)・比丘尼(びくに)、すなわち一人前の僧侶となれるのです。

この二百五十の戒律を具足戒(ぐそくかい)、具足戒を受ける儀式を受戒といいますが、これには三師七証(さんししちしょう)といって、十人の戒律堅固の比丘の立ち会いが求められます。

そのため、三師七証が揃わなかった日本では正式な受戒が行われていませんでした。

鑑真が請われて来日したのも、正式な授戒制度を日本に伝えるためでした。

つまり鑑真和上が17人の弟子を引き連れて来日していなければ、比丘・比丘尼の誕生はさらに遅れていたでしょう。

そうした意味で、鑑真和上は日本の仏教に大きな影響を与えたと言えるのです。


弘安7年(1287)に再興された戒壇。