かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

古代国家の見方が変わる?⑤~虎尾達哉著『古代日本の官僚』

2022年02月26日 | 旧ブログ記事(その他)
古代国家の見方が変わる?と題しまして、虎尾達哉さんの『古代日本の官僚』の紹介、連載5回目で最終回です。

今回は、本書で引用されていた史料で、かねうりきちじが一番衝撃を受けたものを紹介したいと思います。

それは何かというと、天皇の決裁を得るために上申した文書が臭かったということを伝えるもので、『類聚符宣抄』ものに収められているものです。

まずは原文を。
  応勘内案事
 内侍宣。有勅。進奏之紙、臰悪者多。自今以後、簡清好者、応充奏紙。
 若不改正、執奏少納言必罪之者。当番案主、宜知意勘之、不可遺忘。
     延暦九年五月十四日                    

かねうりきちじの読み下しはこんな感じ。
  内案を勘ずべき事
 内侍宣す。「勅あり。『進奏の紙、臰悪なるもの多し。今より以後は、
 清好なるものを簡(えら)び、奏紙に充てるべし。もし改正せざれば
 執奏の少納言、必ずこれを罪す』といえり。当番の案主は意を知り、
 これを勘ずべし。遺忘すべからず。
     延暦九年五月十四日

この時の天皇は桓武。
都を平安京に移し、東北地方に兵を派遣したことで知られています。
伝記としては、以下の3書が入手しやすいと思いますが、最新の西本昌弘さんの日本史リブレット人シリーズのものでは、副題が「造都と征夷を宿命づけられた帝王」とあるように、古代の天皇の中では専制君主の印象が強い方です。

桓武天皇―造都と征夷を宿命づけられた帝王 (日本史リブレット人)
桓武天皇 (人物叢書)
桓武天皇:当年の費えといえども後世の頼り (ミネルヴァ日本評伝選)

その桓武の言葉が、二重括弧『 』内です。虎尾さんの現代語訳では「私のもとに進められる奏紙には、悪臭を放つものが多い。今後は臭わないきれいな紙だけを選んで奏紙とせよ。もし、これを改めないなら、奏上を行う少納言を処罰する」とされています(p.108)。

首都移転こそしていませんが、1400億円といわれる宮殿を作り(詳しくはこちら)、ウクライナへの侵攻を命じたロシアのプーチン大統領に、官僚が臭い上申文書を提出するでしょうか。。。。

ま、現代と古代とでは感覚が違うとは言え、次のことも気になります。

それは、「臭い紙」を取り次ぐ少納言に直接文句を言っているのではなく、内侍が取り次いでいるのです。

内侍とは、天皇の側仕えの女官で、天皇への奏上や、その逆に天皇から発せられた言葉を取り次ぐことなどを仕事としています。

たぶん桓武は一人になった時に、持ち込まれた上申書を1枚1枚めくりながら「臭いなぁ。決裁書はきれいな紙にしてくれないかなぁ」とつぶやいたのではないでしょうか。
そしてそのつぶやきを内侍が聞いて取り次いだ。。。そんな光景が目に浮かびます。
この光景と「造都と征夷を宿命づけられた帝王」とは、どうしても結びつきません。

臭い奏紙から、虎尾さんは「官人たちに天皇への畏怖や過剰な君臣関係がない」事を読み取っています。

臭い紙を生産する朝廷お抱えの紙鋤き工人、その紙を使って上申書を作成する実務官人、作成された臭う上申文書をぬけぬけとと天皇に届ける高級官僚。
そして、自らの言葉は内侍を経由して伝えることになっているとはいえ、直接少納言に「臭いんだよ!」といえなかった天皇。

どうでしょうか、とても古代の日本が専制国家だとは言えない気がします。

本書を読んで、まさに目が開かれた思いです。

そんな本書をぜひ皆さんに読んでいただきたいです。
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古代国家の見方が変わる?④~虎尾達哉著『古代日本の官僚』

2022年02月12日 | 旧ブログ記事(その他)
古代国家の見方が変わる?と題しまして、虎尾達哉さんの『古代日本の官僚』の紹介、連載4回目です。

前回は元日朝賀儀を無断欠勤する官人のことを紹介し、よく研究論文で「儀式は君臣関係確認の場」と言われるが、割り引いて考えてみる必要があるということを指摘しました。

今回は、各地域の神社の神職が、天皇からの幣帛(絹製品などの供物)を受け取りにやってこないということを取り上げてみたいと思います。

古代日本では、毎年行われる祈年祭(2月)、月次祭(6・12月)、新嘗祭(11月)の際に、全国各地の神社の神職が朝廷にやってきて、幣帛を受け取り、帰郷してそれぞれの神社の神々に奉納していました。

このことは大宝令にも見られ(神祇令9季冬条に「忌部は幣帛を班(わか)て」とあります)、天武10年(688)1月に「幣帛をもろもろの神祇に頒(わか)つ」(『日本書紀』)というのが起源と考えられています。

なぜこのようなことが行われたのかというと、政府が幣帛を各地の神に配分することを通じて、その神を信仰する人々を宗教的に支配しようとしたからと一般的には言われています。

しかし実際には、本書第三章「職務を放棄する官人」で指摘されているように、天武10年から約百年後の宝亀6年(775)には「弊を頒かつの日に祝部参らず」(『類聚三代格』)という状態になっていたようです。

天皇が各地の神々に供え物を配ろう(=天照大神の子孫である天皇が各地の神々を祭ろう)としても、肝心の各地の神々に仕える神職(=祝部)が受け取りに来ないのでは、目的が達せられません。

つまり幣帛を各地の神社に配分することで、その神社に祭られた神を信仰する人々を支配することはできなかったということになります。

「政府が幣帛を各地の神に配分することを通じて、その神を信仰する人々を宗教的に支配」するということは、概説書や論文では「神祇イデオロギーを通じた天皇による支配」といったように記されることが多く、かねうりきちじもこのような文言を目にするたびに、「そんなもんか」と思ってきました。

しかし、そもそも幣帛を配ろうにも受け取りに来ないのであれば、「神祇イデオロギー」で各地の人を支配なんてできません。

古代日本にいおいて、天皇が専制君主だという暗黙の了解があったからこそ、「神祇イデオロギーによる支配」もすんなりと受け入れられていたのでしょう。けれども、どうやら機能していなかったらしい。

ということは、古代の天皇が専制君主だったという暗黙の了解自体も疑ってみなければならないことになります。いかがでしょうか。

もう少し詳しく虎尾達哉さんの『古代日本の官僚』を詳しく読んでみてはいかがでしょうか。
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