先週末、三ツ石山に行ったのは、『初心忘るべからず』を実行するため。
初心忘るべからず。
一般的には「最初にし始めたときの気持ちを忘れずにいること」というように理解されていると思いますが、実は違います(最近はそうじゃないんだよという記事をよく見かけるようになりましたが。→コチラ)。
もとは禅語のようですが、能を大成した世阿弥が表した『花鏡』の最後には次のような一節があります。
「また、若き人は、当時の芸曲の位をよくよく覚えて、『これは初心の分なり。
なほなほ上がる重曲を知らんがために、今の初心を忘れじ』と粘弄すべし。
今の初心を忘るれば、上がる際をも知らぬによつて、能は上がらぬなり。
さるほどに、若き人は、今の初心を忘るべからず。」
(また、若い為手は、現在の自己の芸位を正しく把握して、「これは初心の分際だんだんだん上達する各段階での
芸を正確に認識するために、今の未熟な芸を忘れまい」と心がけ、工夫をこらすべきである。今の初心の芸を忘れて
しまうと、いつ、どう上達したのかの過程をも認識できないので、能は上達しないのである。だから、若い為手は、
初心の今の芸をけっして忘れてはならない。)
日本古典文学全集51『連歌論集・能楽論集・俳論集』小学館より
世阿弥の言う初心とは『物事をし始めた最初のころの(新鮮な気持ち』なのではなく、能をし始めたころの未熟な芸のこと。
つまりは、未熟な自分を常に覚えておき、そこからどれだけ成長できたかを常に確認することが重要なのだということなのです。
というわけで1年前、最初にトレランをしたコースでどれだけ成長できたのかを確認しました。
結果は・・・・
1時間10分の短縮。
トレイルランニングに限らず、あらゆることで『初心忘るべからず』を肝に銘じて人生を歩んでいきたいと思います。
初心忘るべからず。
一般的には「最初にし始めたときの気持ちを忘れずにいること」というように理解されていると思いますが、実は違います(最近はそうじゃないんだよという記事をよく見かけるようになりましたが。→コチラ)。
もとは禅語のようですが、能を大成した世阿弥が表した『花鏡』の最後には次のような一節があります。
「また、若き人は、当時の芸曲の位をよくよく覚えて、『これは初心の分なり。
なほなほ上がる重曲を知らんがために、今の初心を忘れじ』と粘弄すべし。
今の初心を忘るれば、上がる際をも知らぬによつて、能は上がらぬなり。
さるほどに、若き人は、今の初心を忘るべからず。」
(また、若い為手は、現在の自己の芸位を正しく把握して、「これは初心の分際だんだんだん上達する各段階での
芸を正確に認識するために、今の未熟な芸を忘れまい」と心がけ、工夫をこらすべきである。今の初心の芸を忘れて
しまうと、いつ、どう上達したのかの過程をも認識できないので、能は上達しないのである。だから、若い為手は、
初心の今の芸をけっして忘れてはならない。)
日本古典文学全集51『連歌論集・能楽論集・俳論集』小学館より
世阿弥の言う初心とは『物事をし始めた最初のころの(新鮮な気持ち』なのではなく、能をし始めたころの未熟な芸のこと。
つまりは、未熟な自分を常に覚えておき、そこからどれだけ成長できたかを常に確認することが重要なのだということなのです。
というわけで1年前、最初にトレランをしたコースでどれだけ成長できたのかを確認しました。
結果は・・・・
1時間10分の短縮。
トレイルランニングに限らず、あらゆることで『初心忘るべからず』を肝に銘じて人生を歩んでいきたいと思います。