かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

近くて遠い

2013年08月31日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
お盆の帰省から盛岡に戻るたびに、「あ~今年もいけなかった」と思っていました。

どこかというと・・・・



国史跡・関城跡

実家から一番近い国史跡にもかかわらず、行ったことがなく、帰省のたびに「今年こそ行こう」と思いつつも、暑さに負けて脚が向きませんでした。

が、今年は一念発起(←おおげさ)して行って来ました。


土塁跡                   坑道跡

土塁や城攻めのための坑道が残っていて、遠く離れた南北朝の対立の激しさを物語っているのでしょうが、やはり関城跡を国史跡たらしめているのは、北畠親房が、日本を代表する歴史書『神皇正統記』をここで完成させたということでしょう。

近くて遠い史跡にやっと行けて、長年の宿題をやっと片付けた気分でした。


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まなぶはまねる

2013年08月29日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
昨日紹介した、小野道風筆『屏風土代(びょうぶどだい)』。

実は、拝観するのは二度目。

昨年、京都国立博物館で開催された“宸翰 天皇の書”展で熟覧していました。

宸翰とは「天皇がしるした書のこと」(同展示解説より)

歴代の天皇の書を一堂に集めた、おそらく例のない展示でしたが、それに道風の『屏風土台』が展示されていたのは・・・

伏見天皇臨模

伏見天皇(1265~1317)が、臨模(りんも。手本を見ながら真似ること)しているからです。

道風筆

道風筆のものは、その比較対照として展示されていたのです。

“和様の書”で再会して、“宸翰 天皇の書”展で2つの作品を行ったり来たりしたのを思い出しました。

ちなみに、土代とは下書きのこと。

屏風に和歌や漢詩を記すには、色紙形(しきしがた)という正方形の紙を貼ってそこに書くわけですが、色紙形に書くとはいえ、下書きをしてから本番に臨むわけです。

ですので、書体や文字配りなどいろいろ試されます。

そのため、一連のものでも多様な書体を楽しめ、それがかえって価値を高めているのです。

伏見天皇も、そうした作品だからこそ、書の鍛錬のために手元に置いて、真似したのでしょう。

『学ぶは真似る』ですね。
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訪問販売で購入(笑)

2013年08月28日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
三蹟のひとり藤原行成の「白詩詩巻」。

不明ですが、誰かの依頼でしたためたものです。

けれども、行成が筆を執った、長和、いや(笑)、寛仁2年から112年後の保延6年、藤原定信という人物が手にします。

その経緯が・・・



赤色の部分に記されています。

例によって原文は漢文ですが、読み下すとこうです。

  『物売り女(め)、蓬門より入り来たりて、手本二巻、
  一巻は野道風屏風土代、一巻はこの本を売る。
  見るに、一定の由。価直を賜うに、女人はなはだ悦気を
  なし、すなわち以て退出す。』

訳すとこうでしょうか。

  『蓬門から物売りが入ってきて、書を売りに来た。ひとつは小野道風の屏風土台、
  もうひとつはこの本である。一見して、確実なものだと分かったので、お金を
  渡すと、女はたいそう喜んで、すぐに門から出ていった。』

要は訪問販売。

でも、この女性、結構やり手。

というのも、購入した藤原定信は、「白詩詩巻」の書き手、藤原行成の玄孫だからです。

おまけに三蹟のもうひとり小野道風の「屏風土代」・・・


図録からスキャンしました

を抱き合わせて売っています。

ご先祖の作品と、道風の作品。

定信はさぞかし奮発したことでしょう。

「はなはだ悦気をなす」わけです。

でも、この「物売女」が定信に売らなかったら、「来者」である私たちは、この2つの作品を目にすることができなかったかもしれませんね。

感謝です。
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行成にも筆の誤り

2013年08月27日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
【弘法にも筆の誤り】こうぽうにもふでのあやまり
 (弘法大師のような書道の名人でも書き損じをすることがあるの意)
 その道に長じた人でも、時には失敗をすることがあるというたとえ。


弘法大師、すなわち空海は三筆の一人。

藤原行成は、三筆に続き、今から約1,000年前の平安時代中期の書の名手、小野道風(おののみちかぜ)・藤原佐理(ふじわらのさり)と並んで三蹟のうちのひとり。

その行成も、【弘法にも筆の誤り】があったようです。

おととい紹介した「白詩詩巻」(国宝)、その奥書(青線の部分。おくがき。巻末に書き加えられた文章のことです)



青い部分がそれで、「寛仁二年八月廿一日」と書き記した年月日に続けて、行成の一言が記されています。
 ※寛仁二年は、西暦1018年です。

原文は漢文ですが、読み下すとこう記されています。

 『経師の筆を以て点画し、失う所あり。来者、咲(わら)うべからず。 咲うべからず。』

どんな意味かというと・・・

『お経を写す専門職である経師、すなわち自分の筆で書いていないので、うまく書けていないところがあります。来者(未来の人)、すなわち後の時代にこの書を鑑賞する人々は、どうか笑わないでほしい。』

といったところでしょうか。

多分に謙遜があると思いますが、行成さんには、書きぶりを気にするより、突っ込みたいところがひとつあります。

それは、『寛仁二年』の前の行。

『長和』と書いて、傍点を打っています。

これは、年号を書き間違えたことを表しています。

今と違って、明治以前の元号は頻繁に変わっていましたから、時には書き間違えることもあるでしょう。

kaneurikichiji も昭和から平成に変わった際に、混乱した記憶があります。

が、でもですよ、長和から寛仁に変わって2年目、長和から寛仁に変わったのが4月ですから、1年4か月たっても前の年号を引きずるとは・・・・。

行成にも筆の誤りですね。
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有終の青空

2013年08月26日 | 旧ブログ記事(長者ヶ原廃寺跡・衣川関係)
先月から始まった、長者ヶ原廃寺跡の発掘調査。

まだ、埋め戻し作業が残っていますが、いつもと違って今回は業者さんにお任せなので、実質的には今日が最後。

一昨年の2011年までで調査すべき部分は終え、昨年度はまとめの報告書を刊行

今年の調査は、手をつけられなかった、遺跡のすぐ西側を南北に走る道路部分を補足的に調査したものです。

ですので、長者ヶ原廃寺跡での調査は、よほどのことがない限り、今年で最後。

7月は雨続きで泣かされましたが、最終日の今日は、開始から・・・



青空。

終わりまで・・・



青空。

有終の青空ってところでしょうか。

長者ヶ原廃寺跡に関わって、今年で8年目。

今まででいちばんでした!

調査でご一緒した作業員さんや業者の方々、そして地元の皆さんには本当にお世話になりました。

どうもありがとうございました。

このブログをご覧いただいている皆さん。

いつかこの風景を見に来て下さい。

よろしくお願いいたしますm(_ _)m
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