湯浅のまちを後にしたkaneurikichiji が向かった先は、海南市。
この旅の最大の目的地といっても過言ではないお寺、長保寺(ちょうほうじ)です。
ところで、kaneurikichiji が調査を担当している長者ヶ原廃寺跡の本堂は正面から見ても、側面から見ても柱が6本ある建物。
これを五間堂といいます。
※ここでいう間(けん)とは、長さの単位ではなく、柱と柱の間の数を指していいます。
長者ヶ原廃寺跡と同時代、すなわち今から千年前の五間堂はなかなかありません。
長保寺の本堂も五間堂ですが、1311年の建立ですから鎌倉時代も末期の建物。
ただし、お寺の名前は、長保二年(1000)に創建されたことに因んでいます。
ですので、長者ヶ原廃寺跡とほぼ同じ時期というわけです。
で、鎌倉時代に造られた本堂は、創建時の面影も引き継いでいるのではないかとkaneurikichiji は考えています。
ただ残念だったのは、本堂と同じく国宝に指定されている大門と多宝塔が保存修理中だったこと。
そのため優美な姿を目にすることができず、ちょっぴりがっかり。
けれども再訪する時は、今よりもう少し建築の知識が増えてるでしょうから、また違った見方ができるかもしれません。
楽しみがまたできたということにしておきます。
この旅の最大の目的地といっても過言ではないお寺、長保寺(ちょうほうじ)です。
ところで、kaneurikichiji が調査を担当している長者ヶ原廃寺跡の本堂は正面から見ても、側面から見ても柱が6本ある建物。
これを五間堂といいます。
※ここでいう間(けん)とは、長さの単位ではなく、柱と柱の間の数を指していいます。
長者ヶ原廃寺跡と同時代、すなわち今から千年前の五間堂はなかなかありません。
長保寺の本堂も五間堂ですが、1311年の建立ですから鎌倉時代も末期の建物。
ただし、お寺の名前は、長保二年(1000)に創建されたことに因んでいます。
ですので、長者ヶ原廃寺跡とほぼ同じ時期というわけです。
で、鎌倉時代に造られた本堂は、創建時の面影も引き継いでいるのではないかとkaneurikichiji は考えています。
ただ残念だったのは、本堂と同じく国宝に指定されている大門と多宝塔が保存修理中だったこと。
そのため優美な姿を目にすることができず、ちょっぴりがっかり。
けれども再訪する時は、今よりもう少し建築の知識が増えてるでしょうから、また違った見方ができるかもしれません。
楽しみがまたできたということにしておきます。