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ブルース・スプリングスティーン「レッキング・ボール」の死生観

今日は快適な陽気で近くにある父の墓参りをしてから海を眺めて、
海際の路を散歩するお気に入りの一日を過ごした。

墓の周りに生えてきた草を取り、花受けを磨いて、石に水をかけたら、
ふと感じた。
何か死が怖くなくなった。
別にすぐに死ぬとかいう意味ではなくて、
死ぬ事も生きる事の一部なのかなと思った。

突然こんな事を思ったのではなくて、
おそらくブルース・スプリングスティーンのアルバム「レッキング・ボール」を
歌詞を読みながらじっくりと聴いてきているからだと僕は思う。

ブルースの盟友、クラレンス・クレモンスが同じバンドメンバー、ダニー・フェデリッチに続いて亡くなった。
その中で今回のアルバムを聴いてきたら、
いつかは皆死ぬんだ。
でも一人の人が死んでも、残っている人に死んだ人の意思、経験、知恵、愛は引き継がれていくのだなと僕は思えるようになった。
そしてアルバムの中では今生きている人も、もう死んでいる人も同じステージに現れている。
生きている人と死んだ人を分ける事自体が無意味に感じる。
今生きている人の中に死んだ人が入り込んでいるのだと思う。
それが人の営みの中で何十代と続けられているのだと。

まだアルバムの中の曲の歌詞を半分の曲までしか読んでいないのだが、
特に最後の曲「WE ARE ALIVE」などは特にそうなのだろうと想像する。

ブルース・スプリングスティーンは死を超越してしまったように僕は感じている。
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