今日はN田町方面は大忙し・・なんでしょう。
ついにM党が分裂と大騒ぎしているけど、前々から他人同士がたまたま空いていた船に乗り合わせただけの党なんだからしょうがないでしょう。
未曾有の災害により、一応イッチ団結している風を装わなきゃ行けない時間が長かっただけ。kおばちゃんに言わせると良く持った・・というところ。
まあ、O氏が自分で党を建ちあげて全責任を持てばいいのです。いつも他の党にくっついて、都合が悪くなると逃げ出すだけの繰り返し。もうそろそろご自分で責任を取ってください。
kおばちゃんけっして今回の法案に賛成している訳ではありません。でもね、将来のことを誰も考えないのが腹がたつだけ。
多くの議員は将来の自分の議席だけしか考えていない。選挙に通らなきゃただの人ですけどね、反対!反対!の大合唱。だったらどうするのか具体的な事(選挙じゃなくて)具体案をまったく出さないで、増収の道も描けてないくせに反対だけいっているのがだいっきらいなだけです。
何処でもいるんですよね。人の提案にいちゃもんつけるくせに、自分では何にも案がない!あーやだやだ。
まあ、kおばちゃんがはらを立てても日本の未来が明るくならないのが辛いですけどね。
○8月10日(水)
kおばちゃんの今回の観光の締めでやってきたのはグルーネヴァルトGrunewaldという駅です。日本語だと緑の森でしょうか?
ベルリンの郊外と言った感じの所にあります。周りは住宅街と・・森ですね。
で、何でこんなところにやってきたかというと、ここはあることで有名な駅なのです。
それは、第2次世界大戦の時にユダヤ人をあの強制収容所に送り出した・・ということです。この駅から旅だって言ったんですって。旅なんていえる代物じゃないですけどね。
もともとは駅舎は1873年からあるようです。
googleさまのサテライトによると、ピンクの○部分ですが隣のWestkreuz駅にかけての引きこみ線がなんとなく当時を偲ばせる気がします。
今回の旅は、ほんとに思い付きの旅そのもの。で、途中で行こうかどうしようか散々悩んだアウシュヴィッツ(オシフィエンチム )·ビルケナウの収容所。
結局訪問したのですから、やっぱり最後はここで締めくくらないとと思った次第です。
何故ならここ、グルーネヴァルトGrunewaldの17番ホームから多くのユダヤ人がその最後の旅へと連れ去れて言ったそうです。
ですから17番ホームへ続く道にはこのように
『Mahnmal gleis 17追悼 17番ホーム』という道しるべがついていました。
夕方というか時間的には夜ですが・・のためか人ががれもいないひっそりとしたところでした。
このホームから絶滅収容所Vernichtungslagerと呼ばれる所へ送られて行ったユダヤ人は50,000以上と言われています。
収容所送りになった人数からすると大したことない・・と感じてしまうことが怖いくらいですけれど。
このプラットホームのヘリにはこのように日付と送られた収容所の名前、そして人数が示されています。
そしてその最初と思われるのは・・1941年10月18日の日付で1251人のユダヤ人がウッチŁódźに送られています。
そういえば、ウッチも通りましたね。
そして多聞最後と思われるのはこちらです。
1945年3月27日、18人のユダヤ人がテレジンシュタットTheresienstadtに送られているようです。
先にも書きましたが、その総数は5万。何と言って列車に乗せられたのでしょうか。
日付によって人数はばらばら。1000人以上の日もあれば数十人の日もあります。
でも、人数では括れない数々の人間の歴史がこの場所を通過していったのかと思うと、人間としての怖さを改めて感じだkおばちゃんです。
被害者がいれば加害者がいます。ある視点から見れば、被害者でもあるけれども、ある視点から見れば加害者になる。
絶対に加害者にだけはなるまい・・と思っても時代の歯車が来るってしまえば・・人間の生き方って難しいですね。
そんなことを考えながらしばらくホームに佇み、今回の観光の終了としました。
このホームから出発した彼らの目的地は
こちらのホームだったんですね。
ついにM党が分裂と大騒ぎしているけど、前々から他人同士がたまたま空いていた船に乗り合わせただけの党なんだからしょうがないでしょう。
未曾有の災害により、一応イッチ団結している風を装わなきゃ行けない時間が長かっただけ。kおばちゃんに言わせると良く持った・・というところ。
まあ、O氏が自分で党を建ちあげて全責任を持てばいいのです。いつも他の党にくっついて、都合が悪くなると逃げ出すだけの繰り返し。もうそろそろご自分で責任を取ってください。
kおばちゃんけっして今回の法案に賛成している訳ではありません。でもね、将来のことを誰も考えないのが腹がたつだけ。
多くの議員は将来の自分の議席だけしか考えていない。選挙に通らなきゃただの人ですけどね、反対!反対!の大合唱。だったらどうするのか具体的な事(選挙じゃなくて)具体案をまったく出さないで、増収の道も描けてないくせに反対だけいっているのがだいっきらいなだけです。
何処でもいるんですよね。人の提案にいちゃもんつけるくせに、自分では何にも案がない!あーやだやだ。
まあ、kおばちゃんがはらを立てても日本の未来が明るくならないのが辛いですけどね。
○8月10日(水)
kおばちゃんの今回の観光の締めでやってきたのはグルーネヴァルトGrunewaldという駅です。日本語だと緑の森でしょうか?
ベルリンの郊外と言った感じの所にあります。周りは住宅街と・・森ですね。
で、何でこんなところにやってきたかというと、ここはあることで有名な駅なのです。
それは、第2次世界大戦の時にユダヤ人をあの強制収容所に送り出した・・ということです。この駅から旅だって言ったんですって。旅なんていえる代物じゃないですけどね。
もともとは駅舎は1873年からあるようです。
googleさまのサテライトによると、ピンクの○部分ですが隣のWestkreuz駅にかけての引きこみ線がなんとなく当時を偲ばせる気がします。
今回の旅は、ほんとに思い付きの旅そのもの。で、途中で行こうかどうしようか散々悩んだアウシュヴィッツ(オシフィエンチム )·ビルケナウの収容所。
結局訪問したのですから、やっぱり最後はここで締めくくらないとと思った次第です。
何故ならここ、グルーネヴァルトGrunewaldの17番ホームから多くのユダヤ人がその最後の旅へと連れ去れて言ったそうです。
ですから17番ホームへ続く道にはこのように
『Mahnmal gleis 17追悼 17番ホーム』という道しるべがついていました。
夕方というか時間的には夜ですが・・のためか人ががれもいないひっそりとしたところでした。
このホームから絶滅収容所Vernichtungslagerと呼ばれる所へ送られて行ったユダヤ人は50,000以上と言われています。
収容所送りになった人数からすると大したことない・・と感じてしまうことが怖いくらいですけれど。
このプラットホームのヘリにはこのように日付と送られた収容所の名前、そして人数が示されています。
そしてその最初と思われるのは・・1941年10月18日の日付で1251人のユダヤ人がウッチŁódźに送られています。
そういえば、ウッチも通りましたね。
そして多聞最後と思われるのはこちらです。
1945年3月27日、18人のユダヤ人がテレジンシュタットTheresienstadtに送られているようです。
先にも書きましたが、その総数は5万。何と言って列車に乗せられたのでしょうか。
日付によって人数はばらばら。1000人以上の日もあれば数十人の日もあります。
でも、人数では括れない数々の人間の歴史がこの場所を通過していったのかと思うと、人間としての怖さを改めて感じだkおばちゃんです。
被害者がいれば加害者がいます。ある視点から見れば、被害者でもあるけれども、ある視点から見れば加害者になる。
絶対に加害者にだけはなるまい・・と思っても時代の歯車が来るってしまえば・・人間の生き方って難しいですね。
そんなことを考えながらしばらくホームに佇み、今回の観光の終了としました。
このホームから出発した彼らの目的地は
こちらのホームだったんですね。