普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

気力が、肝心

2020-09-24 13:37:53 | こんなことを考えた
気力が肝心だ、と痛感する。

さほど衰えたとは思わないが、ふとした時に「あれ?」ってな感じになることはある。

例えば、ブログの原稿を書こうと座るが、書けないことがある。

多くの場合、書くためのモチーフに思い至らずに、その場を立ち去る。

テーマはある。なのにモチーフを選び取れない。

何が原因かと考える。

突き詰めると、選ぶ作業に手間取り、「まぁ、いいか」となる。

これ即ち、気力の低下。

いつもではないのだが、そんな時がママある。

酒を飲んでいる場合もある。

歳を経ての酒は、若い頃と違うとも痛感する。

若い頃は、酒は活力につながったが、歳を経ると逆に気力を奪われる感じがする。

もう直、ブログ開設10年、内なる気力の宝蔵から、湧き出る水を汲み上げるが如く、気力を汲み上げよう!

以上。

東京「昔むかしの」百物語〈その61〉竹刀

2020-08-31 11:07:08 | 東京「昔むかしの」百物語
もう、60年も前のコトだから、書き残しておこうと思う。

ボクは、小学3年生の3学期に杉並区立西田小学校に転校した。それまでは、文京区立窪町小学校に通っていた。

今でもそうなのだろうと思うが、当時文京区は都内でもいわゆる文教地区と言われる地域であり、親御さんも教育熱心、子どもたちも親の期待をそこはかとなく感じながら、学校に通っていたと思う。

そんな中、ボクはといえばそうしたことには無頓着で、板橋から越境入学した窪町小学校に、壮絶な通勤通学電車を利用しただ通っていた。

先生方も、子どもたちの指導に熱意を持って当っていたと思う。

転向して初めて西田小学校の校門の前に立ったとき、強烈な違和感を感じた。ハッキリと覚えている。

ボクは電車通学をしないですむことに、正直ウキウキと校門の前に立ったのだが、血の気が引いた。

校門の脇に、おそらく30代半ば頃の、厳しい顔つきの男性教師が立っていたのだ。それだけならまぁどうということもないが、その手には竹刀が握られていたのだ。

それが教育指導のA先生だった。

竹刀は、当時であれば普通だったのかもしれないが、遅刻する子ども達、服装の乱れた子ども達などといった、問題のありそうな生徒への、威嚇のために握られていたのだろう。

今であれば、即刻退職を余儀なくされるのだろうが、当時は多くの復員兵が教職につき、戦前の皇国教育を金科玉条としていた教師も多かった。

それが良いことだとか悪いことだとか論評するのではないが、子ども心には怖かった。

A先生が竹刀で生徒を叩いたなどという話は聞かなかったが、のほほんと文教地区の学校に通っていた身にとっては、A先生が、感じたことのない威圧感を醸し出していたのは事実。

だが、ボクが通い始めて卒業する前には、A先生の手から竹刀は消えていた。おそらく、教育の現場で大きな勢力を持ち始めた日教組との軋轢の中で、A先生は弾き出されてしまったのだろうと思う。

実は、A先生は担任になったことなどなく、話すらしたこともないのだが、一度だけ、朝礼のときに倒れた同級生がいて、その子を介抱したことがあった。A先生が駆け寄ってきてその子を抱き抱え、ボクの方を見て何故かニコッと笑いかけた。その顔が実に穏やかで、良い大人の威厳と親しみを感じた。

その時、あっ、この先生は良い先生だ! と確信した。

人は見かけではないということを、その時学んだ。

昭和の、ほんのちょっとした物語。

東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その60>グリーンハウス

2020-08-24 17:45:31 | 東京「昔むかしの」百物語
1960年代の後半、世界は「水瓶座の時代=アクエリアスエイジ」に対する期待に溢れた。

この「水瓶座の時代」というのは、西洋占星術を基礎とした「時代」の読み取り方とボクは理解しているのだが、もう少し詳しく書いてみたい。

毎年の春分の日に太陽の方角にある星座は、約2万5860 年の周期で一周すると言われる。なぜ12星座を経めぐるのかと言えば、地球は自転しているけれど、少し首を振っている。独楽は回転が弱くなると首振り運動を始めるが、地球も同じでその首振り運動=歳差運動に則して、太陽は12ある星座を経めぐる。

一つの星座の時代はおよそ2000年程度続き、これまでの知り得る限りの人類の歴史は、「牡牛座の時代」(B.C.4000~B.C.2000 )、「牡羊座の時代」(B.C.2000 年~紀元0年)、そして「魚座の時代」( 紀元0年~A.C.2000)と続き、2000年頃から春分の日に太陽のある星座は「水瓶座」になったと言われるのだ。

その説に従って、1960年代頃から「水瓶座」待望論が、西洋文明を担うアメリカやヨーロッパで澎湃として起こった。

なぜなら、自分達の精神が属する19~20世紀は西暦元年頃から始まった「魚座の時代」の末期で、「魚座」は支配を意味する時代であり、社会的ヒエラルキーや差別・分断という側面が、人々のコンセンサスとなっていて、その混乱の中で時代は戦争に明け暮れていた。その非人間的な時代相へのカウンターとして「水瓶座」は、一つはそうした権威や支配からの「解放」、「自由」「公平さ」「新生」といった精神の解放を意味する時代として待望されたのだ。

そして旧時代の象徴として「ベトナム戦争」があり、新時代の象徴として現れたのが精神の自由を標榜する、フラワー革命=ヒッピー的なるものだった。

アメリカでは、旧時代の象徴「ベトナム戦争」へのカウンターとして「平和」「自由」「平等」「反戦」を標榜するヒッピームーブメントが若者の精神の大きな潮流となった。音楽、演劇をはじめとする表現の世界でそれは顕著だった。映画ではハリウッド的な映画作りとは一線を画するニューシネマと呼ばれる表現が誕生する。ブロードウェイはオフブロードウェイ、オフオフブロードウェイが、音楽では西海岸を拠点としたロックが、ヒッピー的なる思想の代弁者となった。

さて、日本だ。日本ではそれほど若者に受け入れられることのなかったヒッピームーブメントだった。なぜなら、西洋占星術を背景にした「水瓶座の時代」などと言われても、まったくピンと来なかったし、日本も前線基地であったベトナム戦争に対する反戦意識は高まったものの、文化的なものへのヒッピー的アプローチなど、日本的尺度では理解しようもなかった。

ただ憧れはあった。それは長髪であったりベルボトムのジーンズであったり、単なるファッションとして昇華されていった。

そんな中、いかにも日本的なヒッピー理解として誕生したのが、新宿東口に誕生した「グリーンハウス」だった。今の新宿駅東口イベント広場(アルタの前)あたりにあった芝生の一角なのだが、そこに何するでもなく日がな一日過ごす一団がいた。それを、日本的ヒッピー=フウテンと言っていた。今の言葉でいえば、若いホームレスだったかもしれない。

実にただそれだけだった。政治的でもなく明確な目的意識もなく、ただただそこにいた。

これが世界を席巻した若者のムーブメント=ヒッピーの、日本的表象だった。もちろんユング的な深い理解をもってヒッピーだった人々もいただろう。だが結論から言えば、一つのヒッピー的表象だったグリーンハウスは、だからあっという間に官憲によって排除され、終わった。

昔むかしのお話しである。


70万PV超えました!

2020-08-03 08:34:39 | こんなことを考えた
7月31日に、10年弱をかけて70万PVに到達していました。

この数カ月、PCの調子が悪く(とにかく重い、遅い)立ち上げるだけでストレスが半端なく、なかなか椅子に座ることができなかったのですが、一念発起、PC内の情報の断捨離を敢行、すっかり見違えるようなPCに変貌しました!

新しいPCを買おうかとも考えたのですが、ちょっと待て、PCの腸内環境を整えてやれば、少しは身も軽くなるのではないかと思い、断捨離を3日がかりでやったところ、サクサクと動いてくれるようになりました。

非常に良い子です。で、アクセスを覗いたところ、タイトルのようなことになっていました!

皆さん本当にありがとうございます。感謝です。励みになります。ありがたいです。嬉しいです。

この10月でブログを始めて10年になりますが、こんな数字にお目にかかるとは思いもしませんでした。

訪問してくださった皆さんは延べ30万を越えています。

今どき、大した数ではないという方もおられるでしょうが、ボクにとっては大変な数です。

昨年の7月に100万、200万を目指すと宣言しましたが、できそうな気がしています。

いま世界はコロナ禍でぎくしゃくとしています。疾病という側面だけでなく、人々のあらゆる生活に多大な影響を与えています。

ただ、その負の側面にばかり気を取られていても、一向に愉しくもなければ前進的でもありません。

なにか工夫をすれば、脱しきれないコロナ禍の影響下でも、愉しんで生きることはできるのではと思います。

お互いに、頑張ろうではありませんか!

色々嬉しい、誕生日です!

2020-07-12 18:55:14 | 普通な生活<的>な
FBにも載せましたが、昨日家族が揃って誕生日を祝ってくれました(集まった理由は他にあったもしても!)。

久方ぶりに、嬉しい思いをしました。当分、元気に愉しく過ごせそうです。

こんなご馳走付きです。




また、様々な手段でボクに誕生日メッセージをくださった皆さん、この場を借りて御礼申し上げます。

さらに一層、元気で愉しく生きて行けると、心の底から実感しています、ありがとうございます!

お久しぶりですが、皆さん如何お過ごしで?

2020-07-04 00:56:44 | 思いもよらない未来<的>な
本当に、ご無沙汰しています。

申し訳もありません。

ただ、近々に、意外に楽しいご報告ができるのではないかと、密かに思っています。

すでにその胎動は、あるSNS上で姿を表していますが、まだそれほどのクオリティーでないのが、残念です。

それはそれとして、乞うご期待! 

歌・姫

2020-05-06 17:04:13 | 音楽にまつわる話<的>な
2013年8月のこのブログで、「宇多田ヒカルがやっとわかった」というタイトルで原稿をアップした。

それ以前に「J-cast news」で連載していた「音盤見聞録」で既出の原稿だったが、このブログではとてもたくさんの方々が目を通してくださっている、原稿。

ありがたい限りなのだが、いまから1、2年ほど前(えらい違いだが)だったか、宇多田さんが自分のTwitterで「歌姫って、なに?」というようなつぶやきをされたのを目にしたことがあった。

その時は何気なく見過していたのだが、最近それをふと思い出し、なんとなく気になって、自分の「宇多田ヒカルがやっとわかった」という記事を読み返してみたら、案の定「歌姫」という言葉を使っていた。それも何度も。

もとより、宇多田さんがボクのブログの原稿を読んでつぶやいたわけではないだろうが、「歌姫」と書いたボクとしてはやはり気になる。

だからボクとしても、「歌姫」という言葉を使ったからには、その理由を開陳しておきたい衝動に駆られるわけだ。

というわけで、開陳する。

「歌姫」というのは、有体に言えば「素晴らしい女性の歌うたい」ということだ。それは、はっきり言って聞き手の評価。だから、歌を歌うアーティストが気にすることではない。

言葉のニュアンスがなんとなく、スッキリと腹に落ちないということもあるだろうが、単に歌を歌うアーティストへの肯定的な評価と思えば良い。

このブログでもボクは、「ボクにとっての…」と書いている。

宇多田さんのTwitterの言葉のニュアンスは、「歌姫」という表現を否定的に受け止めていたと思えるのだが、正直それは、宇多田さんが考える必要のないことだろうと思う。

言葉のニュアンスとして、気に入らないということであれば、ボクは宇多田さんに対しては二度と使う気はない。ただ、僕自身の思いとしては、宇多田ヒカルは僕にとっての「歌姫」であり続ける。

そういうことなのかな…。



全力で、生きてる真っ最中

2020-04-30 11:06:00 | 普通な生活<的>な
全力で、生きてます。
申し訳ない気もしながら、ほぼ毎日仕事で出かけています。
休むことは、ボクにとっては、ある意味死を意味します。
今のご時世、休まず外に出ることも、ある意味死を意味するのでしょうが、とりあえず、やむを得ません。
遊びに行くのとは、わけが違います。

それはそれとして。

仕事に出向く途中に、いつも気になって仕方ないことがあります。それは、ある銀行の名前です。

「きらぼし銀行」と言います。

この「きらぼし」という言葉、本来の意味と正反対の意味で使われている言葉の一つです。

銀行やネーミングを考えた広告代理店などの関係者の皆さんの思いのなかでは、おそらく、キラキラと夜空に煌く星々をイメージしてのネーミングだったのではと思います。

トゥインクル トゥインクル リトルスター の感じですね。

間違えていたらすみません、先に謝っておきます。

ただ、「きらぼし」の本来の使い方は、「きらほしのごとし」です。

「きら」は、雲母と書きます。あの薄く剥離する鉱物のことです。

暗闇の中で、僅かな光を浴びて、仄かに光を照り返す雲母のことです。

「キラ星の如し」ではなく、「雲母、星の如し」なのです。

キラキラ輝くイメージとは正反対の仄かな光のこと。

そうと知ると、銀行のイメージ、相当変わりますね。

と、いうような、他愛もないことを考えながら、仕事場に必死の思いで脚を運ぶ日々です。

コロナのことや、世界情勢、政治状況などなど、書くことはあるのでしょうが、いまは、必要以上の何者か批判や、愚痴、過剰な応援になりそうで、遠慮しておきます。

悪しからず、です。

あまりにお久し振りで

2020-04-12 02:57:00 | 普通な生活<的>な
なにか書きたいと思い、パソコンの前に座りましたが、あまりにお久しぶり過ぎて、なにを書いていいかわかりません。

今日のところは、いったん退却します。

また改めて。

……俺ってこんな感じだったっけかな?……


思うところもうじき10年

2020-02-10 12:01:42 | こんなことを考えた
政治的傾向の強い記事を、このブログで書いていた時期があった。
北朝鮮や、当時の民主党内閣への思いなどを書いたのだが、止めた。

だからといって、ボクが政治に興味を失ったということではない。むしろ逆だ。

いまの世の中は、誰も彼もが自由になんの躊躇も言葉の選択もなく意思を発信できる。それを自由と言い、民主主義だということに、ボクは抵抗を感じるのだ。

トランプのツイッターにしろ、日本の程度の低い政治家のツイッターにしろ、芸能人のインスタにしろ、節度のない発言に辟易するのだ。同じ土俵に乗ることに、大いに抵抗がある。

だから、そうした側面に対する発言を自分で封じた。

それが良いことなのか、はたまた悪い結果を招くのか、わからない。

それでもこのブログ、もうじき始めてから10年が経とうとしている。

様々な思いは置いておいて、おぉ⁉ ってなもんだ。

東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その59>麻雀

2020-02-08 01:53:48 | 東京「昔むかしの」百物語
麻雀は、普通の遊びだったが、ささやかな賭け事でもあった。

法に触れることではあったが、暗黙の了解でお金をかけ、よほどのことがない限り警察沙汰になることもなかった。一度のゲームで、多くて数万円、少なければ煙草一箱があちらへこちら行き来する程度のもので、家族内で、友人同士で、また同僚と、サラリーマンや学生、主婦などあらゆる社会生活者の手が届く、はたまた少しは小遣い稼ぎになる遊びだった。

どこの町にも、必ず雀荘というものがあった。そこには「プロ」の雀士がいたりもしたが、普通は仲間同士4人で連れだって、少しの悪徳を感じながら少しだけお金をかけて、妙なテンションで遊んでいた。

何時の頃から、廃れたのだろう。もはやどこの町にも雀荘など見当たらない。昭和の頃は本当にどこにでも雀荘はあった。

ほとんどの週刊誌や雑誌には、麻雀のページというものがあり、有名な雀士、強いと言われた著名人、作家(麻雀専門の小説家も存在した)などがフィーチャーされて、毎号麻雀の試合を再録するなど大いに盛り上がっていた。

ボクも麻雀は好きだった。役者仲間と徹夜で麻雀に興じることもしばしばだった。強い奴は強かった。カモになる奴はいつも決まっていたが、たまにバカ勝ちすることもあり、止められなかった。勝った奴のおごりでそのまま飲みに行ったりもした。僕は強くもなく弱くもなく、統べれば±トントンといった成績だった。

1970年代に雑誌の記者だった頃は、ほぼ毎日会社帰りに麻雀をうっていた(麻雀は“うつ”というのだ)。時にはそこに名人と呼ばれるような作家や、編集部の上司なども参加したが、麻雀の時だけはイーブンで、皆真剣そのものだった。編集部が新宿の歌舞伎町のはずれにあった時代は、それこそ毎日4人の面子を揃える算段が仕事終わりの“仕事”だった。

賭け事と言えば賭け事なのだが、ゲームとしても破格に面白いものだった。最近ではどこの家庭でも麻雀などやりはしないのだろうが、我が家は正月などに家族で遊ぶ。

もちろん賭けたりはしない。純粋にゲームとして遊んでいる。遊べば遊ぶだけ、おもしろさが分かってくる。ただし賭けないと、役作りに走り負けることに抵抗がなくなる。それは麻雀というものの性質からして、どうなのかなとも思う。やはり、勝ち負けにこだわってこそという気もする。

だからといって今の世の中、賭け麻雀は厳に禁止。




東京「昔むかしの」百物語<閑話休題:小説>

2020-01-15 01:08:10 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの子どもの頃、小学校の図書館は宝の山のようだった。

キラキラとたくさんの宝石のように、たくさんの作者の作品が所狭しと並んでいた。

小学校の低学年の頃に、ボクが読んだ本はくそ生意気なようだが、明治、大正期の文豪の作品だった。夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、樋口一葉、尾崎紅葉……父親の口から出てくる作家の作品を、探しては読んでいた。

読んだのは良いのだが、作品名は記憶していても、内容はうろ覚えという作品が少なくない。いつかまた少し大人になったら読み直そうと思っていたのは確かだが、実行できたのは数えるほどの作品だけだ。

特に芥川龍之介の作品が好きだった。なにか胸の奥底にぞわぞわとする別の生き物が巣食った感じの読後感が好きだった。

少し大人になっても、昭和、それも戦後の作家作品にはとんと興味がわかなかった。結局、明治、大正、昭和初期の作家の作品が、ボクの枕元に並んだ。

青春期に最も読んだのは、昭和初期のいわゆる「新青年」の作家群だった。小栗虫太郎、夢野久作、海野十三、国枝史郎……あの作家たちの博識と博学に圧倒されながら自分の抱える世界とは全く異なる異世界に心を遊ばせていた。


昔は布団に入り、お気に入りの灰皿を用意して煙草をくゆらせながら、これまたお気に入りの小さな手元の灯りで本を読むのが、普通のことであって至上の快楽だった。一晩を明かしてしまうこともよくあった。煙草が一箱なくなっていたこともある。小説はそれほど面白く、夢中にさせてくれるものだったのだ。

戦後昭和の時代、多くの作家が優れた作品を残しているのだが、ボクが明治、大正、昭和初期の作家作品を愛でたようには、平成、令和の青年は昭和の作家作品を読んではいないだろう。

なにか、昭和の頃にボクも感じた(きっと多くの青年も感じていただろう)明治、大正期の作家への憧憬、畏敬というたぐいの思いは、今の青年にはないのだろうと思う。

断っておくが、それは決して悪いことでも間違ったことでもない。文学、小説というものに対するアプローチの仕方、あるいは文学、小説そのものの在りようそのものが、ボクの時代とは全く異なっているだけのことだ。

それはレコード盤をストックし大事に音楽を聴いたボクの青春時代の音楽の聴き方と、音源をダウンロードし、自分のスマホで無数の音楽を好きなように何度でも聞ける環境での音楽の聴き方とが、まるで異なるように、次々と現れては通り過ぎていく一過性のものになっている現代の文学へのアプローチは、違って当たり前なのだ。

そうは言っても、ボクには現代の小説作品を読めない。温める暇もなく次々と現れる作品を消化できるほど、胃は丈夫でないのだ。

だから結局、まるでループミュージックを聴くように、ボクはお気に入りの作品を何度でも繰り返し読むことになっている。

今ボクの手元にあるのは、「トールキンの小品集」だったりする。読むのはもう7度目くらいか。1970年代に海外SF小説に巡り合って、日本の作家から離れてしまったボクは、今では海外作品ばかり読んでいる。

なぜなら、日常を全く感じないで済むからね。

頭の中で色々なことがぐるぐるとめぐり、言葉がまとまらない。また次の機会に続きを書くことにする。今日はここで、お開きに。

新年のご挨拶

2020-01-06 01:21:19 | 普通な生活<的>な
松の内に、新年のご挨拶



恭賀新年

2020年明けましておめでとうございます。
年末はご無沙汰の限りで、申し訳ありません。

改めて本年は、力の限り本ブログに向き合おうと思っております。
引き続き、よろしくお願いいたします。

皆様にとって2020年が素晴らしき年でありますよう、心より祈念いたします。

2020年1月5日
加藤 (明、普、久明)

ココ、ロス‥‥‥でしょうか?

2019-11-22 08:04:53 | こんなことを考えた
ココが逝って一カ月以上、経ちます。
思い出さない日はありません。

2、3日前、ふとリビングの隅を見ると、見慣れない直径10㎝程の黒い塊が落ちていました。
手に取ると、黒いぬいぐるみの金魚です。掃除したときにはありませんでした。気づかなかっただけかもしれませんが‥‥‥。

それにしても、初めて見るぬいぐるみです。

その時、これはココにちょうど良い遊び道具だな、と思いました。
そして同時に、なんでこんなところに? いま? とも思いました。

誰が何のために置いたのか? そんな疑念も浮かびました。

金魚なので、水槽の上に置き、そのまま忘れていましたが、ふと気づいて奥さんに聞くと、ココの遊び道具にちょうど良いと思って、と。

UFOキャッチャーで、手に入れたものだそうです。

それでも、元々どこに置いておいたものか知らないとのこと。

まぁ、それだけのことなんですが、ちょっとした今朝のミステリー。


1カ月のご無沙汰です。10月29日の話を少し

2019-11-20 12:38:22 | 東京「昔むかしの」百物語
10月29日、P-MODELの“兄さん”YOU1兄さんと久しぶりに飲みました。

生井ツアーと称して、カメラマンの生井秀樹氏宅に何人かで集まり、あーだのこーだの話をする集まりです。

生井氏は、P-MODELのセカンドアルバムのジャケットを撮影し、以降平沢進=P-MODELとなってからはずっとカバー写真などを撮り続けていますが、ボクがロッキンF時代にP-MODELと出会い、誌面に掲載するたびに写真は生井氏に依頼していました。

YOU1兄さん、生井氏、ボクはその時からの付き合いで、途中疎遠な時期もありましたが、晴れてこの何年かは、毎年生井ツアーで飲んでいるわけです。

その時の写真をアップしようと思っていたのですが、写真を撮ったスマホが水没し、データを失ってしまいました。

(データ復活! 画像アップ!)


なんと言うことでしょう!

今回は、P-MODEL初期メンバーであるキーボードのM田中が参加してくれました。およそ40年振りの再会でした。とはいえ、あまり違和感のないのがこのあたりの人間関係、ということでしょうか、あーだのこーだの、良い感じでしゃべりました。

YOU1兄さん、ボクの奥さん、生井さんの知人でWEBなどのデザインを手掛ける大西さん、生井さんに、M田中が参加、大いに盛り上がりました。

再び申し上げれば、11月半ばにスマホを水没させ、救い出すことができず、写真を載せられないのが、なんとも残念です(載ってるやん)。もしデータ復活ということにでもなれば、改めて写真を掲載します(しとるやん)。

あーあ、その他のデータも、もちろん失われております(これは、やむなし)。