大晦日から元旦にかけての国電(いまのJR)は、夜通し電車を走らせていた。
初詣客への配慮。そうした配慮が必要なほど誰も彼もが、初詣に出かけた。大晦日の夜にいったん休んで出かける初詣はなんとなく邪道のようで、正月が来た瞬間に神々に挨拶を済ませたいと、多くの日本人は思っていた。だから夜中に人々の大移動が行われた。
ボクは、子どもの頃は明治神宮、社会人(まともではなかったが)になってからは、あちこち出向いた。
神仏混交というか、本来なら神社に出向くのだが、そばが食いたくて深大寺などにも行った。調布の大國魂神社や、荻窪時代は家の傍の小さな田畑神社で済ませたこともあった。
何処へ行くにも、基本は電車で済んだ。
ボクが小学校に入るか入らないかの頃、どんな場合でもどんな時でも、移動の基本は電車(都電も含む)で、次がバス。他の交通手段はほとんど使わなかった。というよりなかった。
都内ではトロリーバスが走り、池袋、新宿、渋谷の移動はすこぶる便利だった。この間の移動だけはトロリーバスを使った。
そんな中、親戚の家での新年会やお盆の寄り合いなどで、少し時間が遅くなると、タクシーを利用した。
本当に1年に1度か2度程度しか利用しなかったが、なぜかよく覚えている。
街を流すタクシーの数は少なく、なぜか、ほぼすべてがフランスのルノーだった。もしかしたらすでに日野がライセンス生産していたかもしれない。料金はどこまでも80円だったような記憶がある(昭和30年前半頃の話だ)。そしてウインカーはいまのような点滅するライトではなく、オレンジ色の矢印形状の跳ね上げ式だった。そのウインカーを見るのが楽しかった。
<こんな感じのものだった↓>
ウインカーと言う言葉は、その頃はなかったのかもしれない。言った通りアナログも良いところで矢印様のモノが跳ね上がるだけで、ウインクはしなかったから。
タクシー以外では、ワーゲンも多かったが、アメ車の印象はあまりない。
戦後すぐのフランス製のルノーが、なぜ日本のタクシーに採用されていたのか、わからない。ただ、狭かったのは覚えている。一度、運転手が小さかったボクを膝の上に乗せて、走行中の町の景色を見せてくれたことがあった。その印象はいまでも思いだすほど強烈で、きっとボクは目を見開いて乗っていたのだろうと思う。
少し後に「神風タクシー」と言う言葉がはやった。客の意向とは無関係に交通法規を無視して飛ばす、阿漕なタクシーのことを言った。「雲助タクシー」と言う言葉もあった。これは飛ばすのではなく、ただただ法外な料金を吹っ掛ける輩を意味した。江戸の駕籠かきの名残りだ。