普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

父・加藤千代三の短歌 6

2021-05-06 15:36:14 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三は上京したのも束の間、理由は定かではないが一年も経たず信州の小諸に居を移す。おそらく人間関係の軋轢か何かがあったのではないかと、想像する。同時に大恩ある太田水穂の「潮音」から去る。
まだ19歳だった。ここで、幾多りかの人々と交流を持ったようだが、それがどなたであったのか具体的には分からない。

さしかかる 木曽の山路に 雪とけて
椿の花の 紅をこぼせる


しばし、小諸で暮らすが、思い出すのは故郷の母の面影だったようだ。

母上よ その山かげにおわさずや
夕べは雲の かならずおりつ

東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その66>金縛り

2021-03-01 17:21:33 | 東京「昔むかしの」百物語
原稿の前に。
先週、FBのメッセンジャーが乗っ取りに会い、多くの皆さんにご迷惑をかけました。改めて陳謝します。
ボクからのメッセンジャーメールのyoutube画像は、決して開けないでください。よろしくお願いします。

一応収束はしていますのでご安心を。

さて、ボクは以前にも書いた記憶がありますが、17歳から34歳になるまでの17年間、ほぼ毎日金縛りにあっていました。

それは昭和の時代に生きた40歳までの半生の、ほぼ半分にあたります。毎日寝付く前の通過儀礼のように、金縛られていました。それは恐怖がボクを包み込むという瞬間で、ぞわっと背筋に悪寒が走った時から、振り絞るように声を発するまでの数分間続きました。

歩いていて金縛りのような状態になったこともあります。店先で動けなくなったこともありました。

と同時に、ここでは詳しく書きませんが、様々な霊体験もしました。霊夢も見ました。

ものの本によれば、子どもの頃からの金縛りは社会人になれば収まるそうですが、結構な歳行きまで続いたものです。

それが、ある瞬間にパタッとなくなりました。憑物が落ちたようにと、よく言いますが、まさにそんな感じです。

いま思うのですが、昭和という時代には、どこか思想・哲学・宗教という所謂内省的な生命の方向性があったようです。言い換えれば生命の負の傾向性とでも言いましょうか。

それは、多くの青年の生命の脚を引っ張り続けていたようにも感じられます。

演歌も暗く淀んだ生命を歌っていました。死と言う言葉が普通に歌われていました。

ベストセラーではないけれど、多くの青少年に影響したのは、深く内省した挙げ句、死を選んだ青年の著作だったりしました。右翼でも左翼でも、戦争と言う巨大な生命の坩堝から抜けだせずにいた青年も多かったように思います。戦争は色濃く時代の通奏低音を奏でていました。

そんな背景があって、ボクは金縛られていたのではないかと、最近になって思うわけです。

なぜなら、金縛られなくなったのは、ボクが結婚し子どもが誕生した、まさにその時だったからです。

それは、後ろ向きではいられない時間軸の中にボクが身を置いた瞬間でもあったのです。

気が付けば、平成になり、沈思黙考するような局面などなくなりました。明るく前を向いて、楽しく生きることがどれだけ大切か、あの人もこの人も口にするようになりました。良いことです。

歌は、どれもこれも人生の応援歌のようで、カラオケではひたすら盛り上がることが良しとされました。おじさんが昔の曲など歌えば、その場の空気はカッキーンと氷付きそうでした。

どっちがいいという問題ではなく、時代が生み出すアトモスフェアは、確かにあるということでしょうか。

今でも鮮明に覚えていますが、ボクが最後に金縛りにあった時に見た幻は、なぜか狸になった母が、ボクに汚物を投げつけるという幻影でした。

それをどう紐解けばいいのか、ずっと考えていましたが、はっと気づきました。

もう10年以上も前に亡くなった母ですが、当時、ボクは宗旨替えをしたのです。

17歳の時に母がさる宗教団体に入信し、ボクも連れられて出入りしていましたが、特段熱心に勤めたわけでもなく、ある種の親孝行でした。

しかし結婚を機にすっぱりと止め、法華経を自分の芯に据えました。

よく考えると、ちょうど母が信心したある宗教団体に、出入りしていた間だけ、ボクは金縛られていたことになります。

どんなことにも何かしらの因と果がまとわりつきます。それがうっすらわかりました。

父・加藤千代三の短歌 5

2021-03-01 17:10:32 | 父・加藤千代三の短歌
だいぶんと間が空いてしまいましたが、そこはそれ、色々とありましたもので。

前回は、17歳で上京するまでの歌を2首あげましたが、あと1首見つけましたので紹介しますが、相当に暗い歌です。貧しく幼い千代三の心象風景が、手に取るようにわかります。

ここにみる 墓場の松の さびしさよ
ひぐれをくろく 風にゆれゆれ


次回からは、上京後の歌になります。

父・加藤千代三の短歌 4

2021-02-11 16:51:02 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三の書き残した短歌を、紹介していきます。

第4回目は、こんな添え書きがある一首です。

「太田水穂主筆『潮音』の誌友となり、数多くの歌を発表したが、記録なし。十五歳から十七歳上京までの間、僅かに記憶する歌」

前回、2首を挙げましたが、今回も2首を紹介します。

洩れてさす 雑木林の 陽の中に
静かな藤の ふさはたれたり


松の花 こぼるるに似て 散りきつつ
潮の音近し 丘の径かも


自然の情景に己の思いを託す、千代三の短歌のそうしたありようが、ボクは好きです。

東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その65>恋・愛・出会い

2021-01-29 23:34:19 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの初恋は、成就した。しかしすぐに破局した。

一歳年下の、高校時代は同じ演劇部の後輩だった。小学校時代も人形劇クラブで一緒だった。嫋やかで美しい少女だった。その頃から恋心を抱いていたが、中学・高校と同じ学校で、なおさらに恋心は募った。彼女の家の近くの電信柱の陰から、彼女の姿をじっと見つめる日もあった。

高校を卒業して、改めて告白をし付き合い始め、彼女が高校を卒業してすぐに同棲した。それは結婚も同様だった。仲間に祝福されて江古田のスナックで披露宴を開いた。金もない実力もない何もないままに、阿佐ヶ谷のオンボロアパートでのままごとのような同棲生活が始まった。

ひとつも彼女が幸せを感じることのなかった同棲生活だったろう、と思う。三年で別れが訪れた。ままごとのような同棲生活の当然の帰結だった。

二人目の恋人、三人目の恋人、そしてそれまでのどの彼女とも異なる、ボクにとってはまったく得難い四人目の恋人が現れた。今の奥さんだ。

奥さんとの出会いは言葉にできないほど、不思議で奇妙で強烈なものだった。

ボクは当時音楽雑誌の編集者だった。その日はフリートウッドマックというイギリスのブルースバンドのインタビューで大阪に出向いていた。魅力的な女性ヴォーカルが加入して、一気に世界的な人気に火が付いたバンド。その時は『ルーモア(噂)』というアルバムが売れていた。

万博ホールでのライブの後に、楽屋でインタビューという予定だった。

12月4日の寒い日だった。当時デンスケと言う大きな録音用のカセットを肩からぶら下げ、ボクは万博ホール最寄りの地下鉄・千里中央駅で、タクシーを待っていた。

ところがいくら待っていてもいっかなタクシーに乗れない。すると、後ろから「どちらに行かれるんですか? それではいつまでもタクシーは捉まえられませんよ」と、うら若い輝くような少女が声をかけてきた。

彼女は「私も万博ホールに行く」と言い、ボクをタクシー乗り場から少し離れたところに連れて行き、さっさとタクシーを拾い、同乗して目的地にも向かったのだった。

タクシーの中で彼女は「並んで待っていても、乗れないの」と言った。彼女が言うには「順番を守る文化ではない」ということだった。

ボクはとりあえず礼を言い名刺を渡し、インタビューが終わるまで待ってくれるとは思わなかったが「もしよければお礼にご飯でも食べよう」と、彼女に言った。彼女は笑顔を見せたが、ボクの申し出には答えなかった。

それでも、その時すでにボクは彼女に恋をしていた。だが、それ以上の話はできなかった。もし待てるのであれば、万博ホールの入り口で待っていて欲しいとだけ彼女に伝えた。

ライブが終わりインタビューを終え、ボクは急いでホール入口に向かったが、彼女の姿はなかった。当たり前だ。

東京に戻り、編集部でそうしたいきさつを同僚に話したりもしたが、彼女に会うためのなんの手掛かりもない。名前も知らない。もう二度と会えないのかと思いながらも、忘れられずにいたのだが、年末進行で忙しいある日、レコード会社回りをして編集部に戻ると、「加藤さんお客さんがみえました。また後で来られるそうです」と言われた。若い女性の二人組だという。心当たりもないまま、デスクワークをしていると「加藤さんお客さんです」と、事務の女の子が言う。

言われるまま入り口付近を見ると、彼女が立っていた。まぎれもなくあの万博ホールの彼女だった。ボクは「アッ」と声を出したと思う。どぎまぎしながら彼女に近づき「どうしたの?」と、わけのわからない問いかけをすると、彼女は「タクシー代を返しに来た」と言うのだ。

確かにあの時タクシー代はボクが出した。当たり前の話だ。だがボクは、その一言でサクッと気持ちが肝に落ちた。近くの喫茶店に彼女を誘い、席に着くなりボクは「ボクと結婚しよう」と言った。まったくとんでもない発言だった。馬鹿じゃないのと言われても仕方ないと思った。

だが彼女は「はい」と応えた。

それがボクたち夫婦の馴れ初めである。

その時同席していた彼女の友人がいる。彼女はボクたちの話を、あっけにとられて聞いていたと言う。こんなことってあるの? と思ったそうだ。

それから神戸在住の彼女と、音大を卒業して上京するまでの2年間の遠距離恋愛を含め5年に及ぶ付き合いの後、結婚した。

気が付けば、もう44年経った。まだボクはあの時のことを鮮明に覚えている。

これは、噓としか思われないけれど本当の、「昭和の恋の物語」だ。


父・加藤千代三の短歌 3

2021-01-25 17:14:49 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三の書き残した短歌を、紹介していきます。

第3回目は、こんな添え書きがある一首です。

「太田水穂主筆『潮音』の誌友となり、数多くの歌を発表したが、記録なし。十五歳から十七歳上京までの間、僅かに記憶する歌」

この添え書きの後には数種の歌が記されています。

順番に記載します。

カナ文字の 幼なき妹の たよりより
懐かしまるれ ふるさとの山


今回はもう一首。

ここからは 家もみえねば ふるさとの
山と空とに 別れするなり


ボクは中国山系の山々の稜線が大好きです。その大きな理由の一つは、千代三の歌によります。

父・加藤千代三の短歌 2

2021-01-21 17:09:26 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三の書き残した短歌を、紹介していきます。

2回目は、「太田水穂氏にはじめて逢う」と、添え書きがあります。

師の君よ ふたたびきませ 宇迦山の
ふもとの原の みどりする日は


短歌誌「潮音」の主催者・太田水穂が、島根の「潮音」同人宅に招かれ逗留した際に、その同人が天才少年と地域で評価されていた父・千代三を招いて引き合わせたと、聞いた記憶があります。



今日から、父・加藤千代三の残した短歌を、一つずつ

2021-01-16 20:39:01 | 父・加藤千代三の短歌
ボクの父・加藤千代三は、日露戦争の翌年、島根県に生まれた。

千代三と言う名は、その時代相を良く表している。

尋常小学校しか出ていない千代三は、奉公に出された置屋のような旅館で、酌婦に囲まれながら、父の利発さを知った旅館の旦那に与えられた万葉集を読みちぎり、学んだ。

そして地域では知らぬ者のない天才少年歌人と言われるほどになった。

明治が終わり、世の中は大正となり、やがて「潮音」の太田水穂に出会い上京を促され、島崎藤村の知己を得、岩波文庫、新潮文庫の創刊に携わった。

戦前には第二回直木賞の候補作を上梓するなど作家を志したようだが、戦時中は大政翼賛会に籍を置いた。

戦後は故郷の島根新聞社で編集局長となったが、マッカーシズムによる赤狩りにより退社を余儀なくされ、再び東京に戻り新生活運動の専務理事として、社会活動に専念した。

やがて20世紀の終わりに93歳の生涯を終えるのだが、その間一貫して続けていたのは、天才少年歌人と言われた、歌人としての矜持だ。

千代三の残した短歌の数々は、彼の書籍にいくたりかがみえるだけで、ほとんどがちりじりになっている。

最近、千代三の残した資料の中に、自分で思い出せる短歌を書き残したものを見つけた。

これから、それらを一つずつこのブログにアップし、後代に残しつつ皆さんに紹介させて頂こうと思う。

まず今日は、おそらく15歳頃に詠んだものを。添え書きには「岡垣義忠氏結婚の日に」とある。

かえで葉の そよげる家に 師の君の
妹背のちぎり し給うぞよき

とうとう我慢し切れなくなって 佐井好子

2021-01-16 01:22:21 | 音楽にまつわる話<的>な
佐井好子について、なんとなく書いてきたけれど、我慢し切れなくなったので「万華鏡」聴いてみてください。1975年の、デビューアルバムです。

以来、ボクの側にはずっと彼女がいます。

たまに飲んだりもしますが、佐井好子は何も変わりません。2008の「タクラマカン」も名作です。

あっ、変わらないと言うのは、居住まい、佇まいのことです。

これが「万華鏡」です。

https://youtu.be/lBeiuhb36RY(購入はwww.amazon.co.jp)
ジャケ写は、いずれ。



東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その64>タクシー

2021-01-12 16:53:16 | 東京「昔むかしの」百物語
大晦日から元旦にかけての国電(いまのJR)は、夜通し電車を走らせていた。

初詣客への配慮。そうした配慮が必要なほど誰も彼もが、初詣に出かけた。大晦日の夜にいったん休んで出かける初詣はなんとなく邪道のようで、正月が来た瞬間に神々に挨拶を済ませたいと、多くの日本人は思っていた。だから夜中に人々の大移動が行われた。

ボクは、子どもの頃は明治神宮、社会人(まともではなかったが)になってからは、あちこち出向いた。

神仏混交というか、本来なら神社に出向くのだが、そばが食いたくて深大寺などにも行った。調布の大國魂神社や、荻窪時代は家の傍の小さな田畑神社で済ませたこともあった。

何処へ行くにも、基本は電車で済んだ。

ボクが小学校に入るか入らないかの頃、どんな場合でもどんな時でも、移動の基本は電車(都電も含む)で、次がバス。他の交通手段はほとんど使わなかった。というよりなかった。

都内ではトロリーバスが走り、池袋、新宿、渋谷の移動はすこぶる便利だった。この間の移動だけはトロリーバスを使った。

そんな中、親戚の家での新年会やお盆の寄り合いなどで、少し時間が遅くなると、タクシーを利用した。

本当に1年に1度か2度程度しか利用しなかったが、なぜかよく覚えている。

街を流すタクシーの数は少なく、なぜか、ほぼすべてがフランスのルノーだった。もしかしたらすでに日野がライセンス生産していたかもしれない。料金はどこまでも80円だったような記憶がある(昭和30年前半頃の話だ)。そしてウインカーはいまのような点滅するライトではなく、オレンジ色の矢印形状の跳ね上げ式だった。そのウインカーを見るのが楽しかった。

<こんな感じのものだった↓>


ウインカーと言う言葉は、その頃はなかったのかもしれない。言った通りアナログも良いところで矢印様のモノが跳ね上がるだけで、ウインクはしなかったから。

タクシー以外では、ワーゲンも多かったが、アメ車の印象はあまりない。

戦後すぐのフランス製のルノーが、なぜ日本のタクシーに採用されていたのか、わからない。ただ、狭かったのは覚えている。一度、運転手が小さかったボクを膝の上に乗せて、走行中の町の景色を見せてくれたことがあった。その印象はいまでも思いだすほど強烈で、きっとボクは目を見開いて乗っていたのだろうと思う。

少し後に「神風タクシー」と言う言葉がはやった。客の意向とは無関係に交通法規を無視して飛ばす、阿漕なタクシーのことを言った。「雲助タクシー」と言う言葉もあった。これは飛ばすのではなく、ただただ法外な料金を吹っ掛ける輩を意味した。江戸の駕籠かきの名残りだ。




東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その62>正月

2021-01-04 18:23:49 | 東京「昔むかしの」百物語
小・中学生の頃、毎年初詣は明治神宮に出かけた。

例年2百数10万人の参拝者が押しかける中、夜通し運行していた電車に乗っていくのが楽しみだった。中学の頃は友達と連れ立って行った。

今ではトンと観なくなった「紅白歌合戦」を眺め、「ゆく年くる年」で一休みし、多分元旦の2時か3時頃に放映された「キングコング」を観て、おもむろに明治神宮に向かう。

5~6年は毎年同じパターンだった。夜深しどころか、夜通し起きていられるのが、なにしろ楽しくて仕方なかった。

そして代々木、原宿と居を構えていた親戚の家に押しかけ、お年玉を受け取り帰るのだ。

2日には改めて家族と原宿の親戚宅へと出かけ、親戚何家族かが集まって正月を祝った。

中央線で荻窪から新宿に向かうのだが、東中野を過ぎ大久保に差し掛かるあたりは、線路が高架(と言っても土手の上だったような気がする)になり、街を見下ろすような景色だった。その風景が大好きだった。その目線から小型のトラックが「初荷」の幟を立てて道を走る様を見かけたのをよく覚えている。

同じ場所は、宴会を終え帰宅する夜になると、闇の中に仄かな明かりが点在し少し高い建物の陰が、なに魔物めいて胸が高鳴った。

昭和の正月はおせちも手作り、松飾も手作り(気の置けない職人が作ったもの)。

正月に許された遊び道具と言えば、トランプ、花札、凧揚げ、羽子板と相場は決まっていた。花札、トランプは本当に一年の正月、それも松の内だけに許された遊びだった。

家族4人で遊ぶことなど、正月だけだった。

みかんを食べながら、炬燵(初めの頃は、電気炬燵などというものはなく、「ねこ」と呼ばれる行火に炭や練炭、豆炭などを入れたものだった)に入り、ぬくぬくと遊ぶカードゲームは、何とも言えず楽しかった。みかんは炬燵の中で温めるとよりおいしさが増した。

そんな正月は、もうない。

ただ我が家は、代替わりした今でも、おせちだけは相変わらず手造りだ。





2021年 明けましておめでとうございます

2021-01-04 17:01:43 | 普通な生活<的>な
2021年 明けましておめでとうございます。



永らくのご無沙汰でしたが、新年の喜びと共に活力を得て、再開いたします。

2020年は、多くの皆様にとってなかなかに不如意の年であったと推察いたします。

でき得るならば本年は、皆様にとり最高にして最大の喜び溢れる年であらんことを、心より祈り願うものであります。

まずは、ご挨拶まで。

2021年1月 加藤 普、明、久明



東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その62>仕事・人

2020-11-15 15:44:37 | 東京「昔むかしの」百物語
社会に出て、既に50年が経った。簡単に俯瞰してみる。

大学を中退したのが3年に進級する1970年だから、ちょうど50年。

大学を止めて、芝居に専念しようと思った。それから外波山文明氏のはみ出し劇場で東北・北海道を回ったり、いくつもの劇団や同人の芝居に客演で参加したり、新宿や六本木で「黒魔術旅行団」名義で劇場公演を開いたりしたが、続けられなかった。

はじめて告白するが、正直、面白くなかったのだ。なにをしているのだろう? と、いつも疑念が頭のどこかにあった。

そのうちに、週刊誌の記者ライターへの道が開けた。当初は「七月企画」という編プロでアンカーライターとして活動していた。主婦と生活社でおよそ半年以上をかけて一人で「島の旅」というMOOKを作った。担当は京極さんだったか。必然的に芝居からは足が遠のいた。

やがていつのまにか廣済堂の「マネーライフ」編集者になっていた。七月企画のボス・ぴらさんの計らいだった。

この廣済堂時代に、今でも交流の続いているカメラマン・生井秀樹氏、超一級の記者・江原芳美氏と知り合った。

やがて編集長として川内康範先生が来られ、大事にしていただいた。海外(といっても韓国、台湾)取材は、ボクが担当した。

そこで過ごすうちに、当時人気の小説家、花登筐、川上宗薫の担当編集者になり、悪筆だった二人の小説原稿を読み取りリライトし入稿するようになった。これは勉強になった。そして、芸能方面の取材をするようにもなった。

そして知己だった田中唯士氏(後のS-KEN)の誘いで、「ロッキンF」の編集者になった。

ここで多くのことを学び、今の奥さんとも知り合い、今も交流のあるP-MODELや佐井好子さんなどとも知り合った。

ここまでが、20歳からの10年間。目まぐるしかった。

これ以降は、長くなるのでまたの機会に書くことにするけれど、読んでいただくとわかる通り、ボクはいわゆる就職活動をしたことがない。いつも誰かがお膳立てをしてくれて、道が開けて行った。これは、昭和という時代の大きな特徴だと思う。

ただただ人間関係だけが、道を切り開くファクターだった。コネなどといったことではなく、面白そうだから一緒にやらない? というような、人をまず信頼して事を始めるやりかた。

今のように、面接にマニュアルがあったり条件に満たなければ無条件に切られたりというようなことはなかった。

もちろんくそ生意気なボクだから、すぐに馬脚を現して辞めてしまったり喧嘩をしたりもした。そんな話は次回以降に。



トランプに肩入れ

2020-10-10 15:49:43 | こんなことを考えた
予告通り、トランプについて書きます。

政治<的>な意見は封じてきたけれど、今回は書きます。それも「とんでも論」をベースに書きます。

興味のない方は、悪しからず。

アメリカ合衆国第45代大統領ドナルド・トランプを、ボクは嫌いではない。特に好きと言うわけでもないのだが、決して嫌いではない。

成りあがりの成金にありがちな(トランプ家は昨日今日の成り上がりではないが……)、野卑で横柄で鼻持ちならない高慢さも感じる。ものごとの価値を金の多寡で判断しそうな言動も多い。人間に対する評価も見た目で判断しそうで、本当のところ好きにはなれないタイプだ。

だが一方で、嘘のつけそうにない直情的な側面には惹かれる。いかにもアメリカン(中西部のファーマー的)な、単純で好き嫌いのはっきりしているところにも好感が持てる。

ドラスティックに相手を理詰めで追い詰める輩よりは、はるかに良いと、正直ボクは思う。そういう輩は、必ず言葉の裏にウソが潜んでいる。

そしてその裏には、陰謀論的な理解をされる、ある種の世界理解が横たわっている。

ボクはもちろん、意識としてもディープステートには与しないし、NWOを主導する側にも属さない。もちろんフリーメイソンでも、イルミナティでもない。なりたくてもなれないわけだが、なりたくもない。

トランプはどうか? どうやらディープステートの側にはいない。世界秩序を主張する表向きの組織である国連、グローバリズムにも与しない。ポピュリストだし、ナショナリストだ。

今、NWOと対峙するにはポピュリズムを武器にするしかない。

前回の大統領選で、何故ヒラリーが負けたのかと言えば、彼女のバックグラウンドにNWOの影がちらついたからに他ならない。あのメール騒動など、典型だ。

戦後(戦争前からずっとそうなのだが)、ボクらはグローバリズムが唯一の世界的価値かのように教えられ、国連を舞台に、世界政府を待望するかのような風潮の中で生きてきた。

その一つの集大成がEUだったが、どうも雲行きが怪しい。何かに気づいた勢力がいるようだ。

アメリカの政治は、ワシントン以来自由主義国でありながらほぼ常にフリーメイソン、イルミナティの影響下にあったように見える。従って戦後、国連の舞台を自国に招致した。

アメリカの政治・経済を司ってきたのはWASPだが、なんとなくメイソン、イルミナティはWASPが下支えしているようにも感じる。そのあたりは、ボクは日本にいるので判然としない。

要は、トランプはそうしたアメリカの政治・経済を支えてきた既存の勢力(フリーメイソン、イルミナティ)に戦いを挑んでいるように思えるのだ。

今回の大統領選では、ずっと劣勢が伝えられる。だがボクは、是非勝って欲しいと思っている。なぜなら民主党の大統領候補バイデンも、副大統領候補ハリスも、鼻持ちならない支配層の臭いがする。

ボクはトランプを好きでも嫌いでもないが、彼の勇気は買う。

支配する側として、いるべきところにいるだけと言う臭いを発散する民主党候補者を、蹴散らして欲しいと思うのだ。

そうそう、トランプは中国共産党とも対峙している。共産主義は瞬く間に全体主義に移行する。実はイルミナティの望む政治形態であり、中共は残された数少ない共産・社会主義国家でありながら、かつてのソ連に匹敵するような勢力を経済によって作り上げている。その裏にはイルミナティがいる。

トランプが破れ民主党が政権を取れば、世界はタダならぬ方向になだれ込むような気がしてならない。

そんな荒唐無稽と思われるようなことを、最近考えている。

大勢の同輩に

2020-10-04 15:09:04 | こんなことを考えた
どうしても書いて置きたいことがあって、ここに座っているのだが、どう書くか度忘れした。

こうしたことを書くと、やれ痴呆症だ、やれアルツハイマーだと周囲はがぜん嬉しそうに、かつ賑やかになるのだが、そういったことでは断じて、ない。

今回の場合、度忘れしたのは、テーマに沿ってなにをモチーフとして書くかということに関してだ。

テーマははっきりしている。問題はモチーフだ。というのもいくつかアプローチの方法があって、そのアプローチを並列的に思考していたもので、どのアプローチを使って書くかと言う部分が曖昧模糊としてしまったということ。

こんな度忘れはしょっちゅうある。どれが良いのだったかな? という感じだ。

ちなみに、テーマは「陰謀論的世界秩序」だ。「陰謀論」と言う言葉も、今では普通に使われる、例えば「卒業論文」と大して変わりのない普通の言葉になっている。詳しく内容は知らなくとも、誰もが印象としてその言葉を知っていると思っている、と言う意味の普通。

そんなテーマだから、陰謀論という言葉を使った瞬間に、受け取る側にはその段階で持っている印象と言うバイアスがかかり、一筋縄では内容を届けられない。

「インターネット社会の弊害の一つである」。そんなことを考えている内に、さらに頭の中は渾沌としてきた。

平沢進師の言葉でいえば「あたまのなかのあたまに、あたまのなかのあたまがぁ~」である。

モチーフは「仮想通貨をも含めた、NESARA GESARA」「ロスチャイルド/ロックフェラー」「影の政府/ディープステート」「ジョージア・ガイド・ストーン」「NWO」「ウィルス/ワクチン/薬剤」etc.を考えていて、原稿の入り口は何が良いのかを、今書くべきことはなにかを選択しながら、寝てしまう、ということなわけだ。

結局、まだ思い出せないで座っているのだが、

なにかに特定して、書くことにする。

で、また繰り返すのは嫌なので、モチーフは「なぜトランプは、あれほど野卑に振舞うのか」ということにしようと思う。

昨日、コロナ感染の一報が入ったが、世界はトランプがどうなることを望んでいるのかを、考察しようと思う。

今日は一応ここまで。 2日以内にトランプについて書くことにする。

ただし、あくまでボク個人のトランプ評。学術的なあるいは評論家の論ではないので、その点ご容赦。