普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

病んでいる、などというレベルではない。

2014-07-29 23:45:57 | まあまあ社会<的>な
49歳のおっさん、自称イラストレーターが、小学校5年生の少女を「かどわかし」、自宅を改造して造った監禁部屋で監禁していた、という事件。

「人を殺してみたい」と思い、同級生の少女を自宅に呼び込み頭を鈍器で殴り、首を絞め殺し、その死体の解体を試みたという、同級生少女が引き起こした、事件。

なにか、根っこがつながっている。

20年ほど前の、宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件と、酒鬼薔薇聖斗の神戸連続児童殺傷事件を思い出してしまった。

なにも得るものなどない記憶の果てに、まったく忘れることのできない残滓として残る二つの事件。

それと、ほとんど似たような事件が、あれほどのインパクトもなく受け止められているように感じてしまう今の世の中。

慣れなどというレベルの問題ではなく、病んでいるというレベルの問題でもなく、ただどうということもなく受け止めてしまう人々のいる恐怖。

日本という国は、どこか衰微している気がする。

物事にまともな反応もできなくなっているのでは? などと思ってしまう。

なんだか、ボクも「人並み」におかしくなりそうだ。


小保方さん VS NHK

2014-07-26 23:20:42 | まあまあ社会<的>な
まったくろくでもない人々。
誰かって?
NHKの記者。

小保方さんへの突撃取材のようなことを敢行して、小保方さんにケガをさせたという。

ケガの程度はどうやら軽かったようで、このさい問題視しないでおくとしても、それより問題なのは、どんな取材の仕方をしても良い、とりあえず悪いことをした人間らしいから、どんなやり方でも許されると思い込んでいる、NHKのバカ記者だ。

そのバカ記者が許されないのは、自分は許されると思い込んでいること。だって、天下のNHKの人だもの、てな感じの思い込み。

こういう輩は、まだ犯人かどうかはっきりと司法の結論が出ていないのに、犯人だと思い込む。そして、そういう取材の方向性、方法論しか思いつかない。

その取材を敢行した番組の番宣で「史上空前と言われる論文の捏造」とか「論文の不正の実態に迫る」などといった文言をちりばめているそうな。

下品な連中だ。

不本意ではあるだろうが、いま小保方さんは、しないでもいいSTAP細胞の検証実験の最中。まだなんの結論も出ていない。前にも書いたが、それこそ虚しい実験の真っ最中。それでも真摯に取り組んでいる。

それを! 論文の捏造と言い切る根拠を持っていたとしても、いまは静かに見守るのが、言論人のスタンスだろう。

それを抜け駆けするのが、スクープとでも勘違いしているのか、本当に! もう一度言うが下品な連中。

これが視聴者から強制的に受信料を取り立てる、親方日の丸半国営企業の実相なのだ。

腹が立つ。




脳裏を掠めたこと

2014-07-03 19:55:10 | まあまあ社会<的>な
仕事をしながら、脳裏を掠めたことがある。

人が人をコントロールできるのかということ。

おそらくできるのではないかと、多くの人が思っている節がある。

それは政治家やマスメディアに携る人間に顕著だ。

メディアの力は、恐ろしいほどに強力だ。確かに。

一国の国民を、「莫迦」にだってできると、思っている節もある。

国民の意識の中に「莫迦」にされても良いという土壌を作れば、それはいとも簡単な作業だ。簡単に言えば、「莫迦」に対して不感症にすれば良い。

詰まる所、毎日毎日「莫迦」と言い続ければ良い。

毎日毎日、意味もなくお笑い番組ばかり見せられていれば、「莫迦」と言われなくとも、「莫迦」になっていく。

自覚はないが、気が付けばメディアがお笑いの次に「一番大事」だと言い続ける「金」以外の大事な問題には心が動かなくなっている。

そうなれば、例えば、家族などどうでも良くなるだろうし、親さえ隣近所のおじさんおばさんと変わりなくなるだろう。もっと言えば、通りすがりの赤の他人と、何ら変わりない存在にだってなるだろう。

子供はどうだ?

最近の日本の親子も含めた人間関係の崩壊の様を見ると、何者かにコントロールされているのではないか? てなことが、脳裏を掠めたのであった。

ちゃんちゃん。

小保方さん、検証実験メンバーに!?

2014-07-02 00:11:51 | まあまあ社会<的>な
小保方さんは、自信を持って検証実験に臨めるだろうか?

すべてが、すべての責任を小保方さんに背負わせる方向で動いているとしか思えない。

検証実験への小保方さんの参加は、論文もすべて撤回し、ネイチャー誌も「なかったことに」なり、すべてが白紙に戻った状態で行われることになった。

皆さんに聞きたいが、何もないことの検証実験などあり得るのだろうか?

ことここに至って検証実験をやる意味が、ボクにはまったくあるとは思えない。検証実験など無意味ではないか。

それなのに、この期に及んで小保方さんを参加させ検証実験を行う意味があるとすれば、それは「STAP細胞は空想の産物、大ぼら」という結論を導き出すためのものであり、小保方さんの息の根を止める意味しかない。

そのためにはおそらく、失敗を導き出すあらゆる環境を整えるのだろうし、よしんばSTAP細胞ができたとしても、それはなかったことにするという余地しか残されていないのは、明々白々だ。

小保方さんは、必死に努力するだろうが、STAP細胞はできないことにされるだろう。なぜならできない環境の中で努力することになるからだ。出口のない闇の中で、落ちた一本の針を探すことを強要されることになるのだ。

できなければこれ以降「それみたことか」と後ろ指を指され続けることになり、「嘘つき」呼ばわりもされるだろう。研究者生命もたたれるだろう。

もしSTAP細胞ができたとしても、小保方さんがどんなに「できた」と叫ぼうが、「できていない」と判断されるだろう。そうしなければならない力がすでに働いているような気がする。

突き詰めれば、一人の女性研究者の「大ぼら」が世界をにぎわしたという体で、問題を終わらせる形しか、理研は用意していない。

意味のないステージには立たない方が良いと、小保方さんには言ってあげたい。

World Cupという求心力

2014-06-15 23:01:43 | まあまあ社会<的>な
WCは元々どんなきっかけで生まれたモノなのだろうか?

NET上に展開されているさまざまな解説を要約すると、おおよそ以下の通りだ。

「20世紀初頭、それまで欧州内にも国を横断するサッカーの国際組織がなかったことから、国際試合開催のためにも、各国のフットボール協会が国際組織の創立に同意した。だが、サッカー誕生の地の最大組織イングランド・フットボール協会(FA)は国際組織設立には消極的だった。

それならと、フランス総合スポーツ連盟事務局長=ロベール・ゲランが、イギリス抜きで会合を開くことを各国協会に提案、1904年5月にパリで会合が開かれ、国際フットボール協会(FIFA)が設立された。一国一協会とし、FIFAの管理の下で国際トーナメントを組織することも決定した。これが、のちのワールドカップ。ゲランは会長に就任。

各国のそうした動きを見てイングランド(FA)も、翌1905年にはFIFAに加入。1906年にはイギリス人のダニエル・ウールフォールが会長となり、イギリスは影響力を強めることとなった。1910年5月のミラノ総会でFIFAは一国一協会の規定にもかかわらず、サッカー本家の連合王国(UK)内のスコットランド、アイルランド、ウェールズの加入を認めた。これを契機にFIFAは国際組織としての地位を固めていく。

アマチュアリズム、オリンピックに関連する問題もあったが、1927年2月のチューリヒ会合で、4年に1度の世界大会(ワールド・カップ)開催を決定、1930年の最初の開催国を、同年が建国100周年に当たりそれ以前のオリンピックで2度優勝し、政府が運営資金を肩代わりし支援も約束したウルグアイとした」

結局、当初はワールドカップとは言え、ヨーロッパ、中南米中心の大会で、植民地であったアジア、アフリカは置き去りにされた形だったのが、FIFA成立の経緯からも明らかだ(中南米も植民地だったが、アジア、アフリカとは宗教的背景も違ったのだろう、ヨーロッパ勢の進出がサッカーを根付かせていた。ただ、この辺りは微妙で、断言はできない)。

ようやく1980年代になってアジア、アフリカ勢もワールドカップに力を入れ始め、今日のような地球規模の大会になったのだが、ランキングなどを見ても明らかなように、まだFIFAサイドではアジア、アフリカが軽視されている感は否めない。

そんな中での日本の活躍を、ことにアジア勢は期待しているのだが、初戦は残念なことだった。ドログバの存在感に引っ張りまわされた。「膂力」と言う言葉があるが、ドログバはまさに「膂力百人力」と言ったところだったのだろう。三国志でいうところの関羽、張飛クラスだったに違いない。

アジア、アフリカ勢が優勝または上位に食い込むことで、ワールドカップの意味合いはこれまで以上に求心力をもつものになるだろう。それはヨーロッパ勢の凋落をもたらすかもしれないが、意識としてはそこで初めて、イーブン、フィフティフィフティ、ハーフハーフになるように思う。

それにしてもサッカーは、観ているだけでも攻防めまぐるしい一瞬も気の抜けないスポーツだな。

面白い。ギリシア戦も、大いに楽しみだな。

犯罪の方法を、微に入り細を穿ち教えるマスコミ

2014-06-12 23:51:25 | まあまあ社会<的>な
それはまるで、犯罪をトレースするようなもので、気分が悪くなるほどしっかりと再現する。

マスコミの犯罪報道。

変わった犯罪であればあるほど、よりリアルに再現しようとする。なぜなら、絵解きを必死でやるからね、マスコミは。

模倣しようと思えばいくらでもできるほど詳細に。

話は跳ぶが、役者がスタニスラフスキー・システム(かつて、NYのアクターズ・スタジオがこのシステムで役者の育成をしていた。もっとも有名だったのは、かのジェームス・ディーンだろうか?)で演技を学ぶことは、追体験、つまりはより現実に近いリアリティを追い求めることで、なかには殺人という狂気の追体験で、元に(つまりは現実に)戻れなくなった俳優もいたほど。

今のマスコミの事件報道は、まさにしっかりとした台本のようなもので、報道をテキストとして学べば、簡単に犯罪を犯せる。つまりは模倣が簡単にできてしまう。

なにを言いたいのかと言えば、そんな報道は不必要だということ。

「後々の教訓のために」という大義名分でもあるのだろうが、それでも必要ないと断言できる。

ことに殺人と言う尋常ならざる行為は、その心根も方法も秘すべきものであって、露わにすべきではない。犯罪を立証する裁判所ではないのだ。

露わにすれば、必ず誰かが模倣する。

犯罪報道は、5W1H(何時、誰が、どこで、何を、何故、どのように)を淡々と伝えれば良い。

確かに刺激的な内容であればあるほど、視聴者は興味を抱く。だが興味を抱くということこそ、模倣に連なる。

「なるほど、そうすればいいのか!」と納得してしまうほどの報道。

いい加減にマスコミは反省した方が良い。

昔、ある雑誌を作っていた時にそこの編集長が常々口にしていた言葉がある。

「読者の要求に応える」

そして出来上がった雑誌は、SEXと金と、できるだけ簡単な表現満載の女性誌だった。売れに売れた。

よく考えれば、それがどれほど読者をバカにしたことか。

今でもマスコミの人間は同じような言葉を吐く。できるだけ表現はわかりやすく、漢字を使わない、四文字熟語は使わない、文節はより短く端的に……。

読者・視聴者を第一義においているようで、実はバカに仕切っている。

読者をバカに仕切った編集姿勢、微に入り細を穿つ犯罪報道、共に根は同じ。

「読者・視聴者が望むから」と言うのだろう。この発想も、いい加減捨てた方がいい。

捨てられないか!? なにしろ売れないと(スポンサーが付かないと)おまんまの食い上げだしね。

おいおい、マスコミ人間のおまんまのために、日々世の中は悪くなっていくのかよ? 

あほらしい。と、思いました。


マスコミの、尋常ではない報道

2014-06-11 23:27:28 | まあまあ社会<的>な
最近とみに思う。

日本の(世界共通なのかもしれないが…)マスコミは、大量伝達手段と言う意味の「マス」と言う言葉はついているが、コミュニケーション機能は全くない。

むしろ悪いことに、情報垂れ流し、あるいは情報操作機能しか持たない。

マスコミの報道は、社会規範(法的な)に則った規制を遵守はするが、それは自己保身のための、後ろ指刺されないための防衛手段。本当の意味合いの社会の自浄機能とでも言える正論などは、どこにもない。

スポンサーである企業論理は擁護するが、個の権利への配慮などほぼない。

要するに金の関わることには気を向けるが、金と縁のないことには目もくれないということだ。

半世紀も前には、マスコミの役割は「社会の木鐸」であった。そこには少しでも人々が幸せに生きるためのガイドラインとしての役割さえあった。

だが今では、そんなことはマスコミの何処を探しても痕跡もない。手前勝手な論理の押し付け(=偏向報道)はあるが、我々の生活の糧に微塵もなりはしない。

情報の垂れ流しはTVなどで顕著だが、横並びの上意下達としか思えない報道がそれだ。そこから逸脱すればどこかでしっぺ返しを食らうことが分かっているから、どこも同じ報道内容、同じ報道姿勢を守る。

情報操作はニュースのショー化に伴う、パーソナリティー、コメンテイターの発言に無作為に組み込まれている。「~と思うのですが…」などと言う言い回しは、報道する側が使うべき言葉ではない。

いまでは、そんな言葉を取り上げてみるのも虚しいほどに、意味も分からず言葉を垂れ流しているニュースキャスターなどもいる。読み上げるニュースは、一つも伝わらない。

よく考えれば、スポンサーがいなければTV局も立ち行かない。スポンサーの意向が運営のすべて。それを言葉を変えて言い訳にしている。「視聴率が大事」。

違う違う! 「金が大事」と素直に言えばいいのに。そうすれば、TVを見るのもバカバカしくなるというものだ。これは活字メディアも同じこと。偉そうな朝日も同じこと。

そして最近の報道内容。庶民の生活にとって肝心な地域の首長選挙結果などは霧の彼方で、A●Bの総選挙は詳細に報道する。味噌糞一緒にして、糞を大事に報道する(A●Bが糞と言う意味ではないよ。マスコミが糞味噌を仕分けているんだよ)。

やんぬるかな……。

次はもっと恐ろし気な、マスコミの正体を検証しようかな。




毎日毎日、人が殺される。

2014-06-10 23:26:41 | まあまあ社会<的>な
何日か前にも書いたが、毎日毎日、人が殺される。

昭和の時代であれば(表立っては)それほど頻繁には起こり得なかったような、性と金がらみの、とりあえずは殺す側の心に、痛みやら悔恨やらと言った、本来なら誰の心にもあるはずの人間性のかけらも垣間見えないような、それなのになぜか今の時代を端的に表しているような、殺人事件だらけだ。

標的になるのは、女性や子供。それに高齢者。要は弱い者達。

なにが起きているのだろうか? と、きょとんとしてしまう。

被害者が若い妙齢の女性でも、リアルな友人関係を追っても辿り着かないような、家族や知人もまったく知らない、別回路で完結する人間関係がSNSなどによって成立していたりする。正直、昭和世代から見ると無防備で空恐ろしいほどの自己完結ぶりだ。

昭和と書いたが、まさに昭和と平成のつなぎ目とでも言えそうな、1995年に起きた「酒鬼薔薇聖斗」による凄惨な児童殺害事件以降、それまで稀だった無意味な殺人が増えている気がする。

もっと多くなっているように思うのが、本来なら「尊属殺人」と別格で呼ばれるはずの家族間での殺人事件。

子が親を殺し、親が子を殺す。なんと陰惨な心根が生み出す事件だろうか。

殺人衝動は、いつ何時自分とも無縁ではない形で立ち現れるやもしれず……。

昭和であったなら「モンスター」と言われていても可笑しくない加害者は、今ではどこにでもいる普通の人間。

ただし、表には見えにくい深いところで病理に蝕まれているようではある。


皇族報道の不思議な傾向?

2014-06-09 23:48:28 | まあまあ社会<的>な
車椅子の殿下=桂宮様が薨去された。

長い闘病と、であるが故の独身宮家と言う、非常に特異な存在であられた桂宮様だった。

深い哀悼の意を捧げたい。

それはそれとして。なにか不思議でならないのは、5月26日の高円宮典子殿下のご婚約ニュースの時もそうだったが、TVの速報ニュースで流れたこと。

ついこの間まで、速報扱いされた皇室関係のニュースなど、それほどなかった。

桂宮様にしろ、典子様にしろ、正直ほとんど知らない皇族方だ。速報ニュースのテロップが流れても、お顔すら思い出さない。

正直な感想を言えば、皇位継承権第三位以下の皇族方の動向を速報ニュース扱いすることは、マスコミの独りよがりの勇み足と言う気がして仕方ない。

昨今のテレビ速報は、AKBグループの動向すら取り上げる。

マスコミの扱いは、そうした芸能ニュースも同等という印象を拭えない。

AKBを取り上げるのなら、むしろ皇室の動向は速報ニュースにするなと言いたい気がする。

天皇・皇后両陛下、皇太子同妃両殿下の御動向を速報ニュース化することに異論はないが、それ以外は不必要と言う気がする。

ボクは決して右翼でもなく左翼でもないのだが、なにか皇族方の速報ニュースには、マスコミに対する違和感とイラつきを禁じ得ない。

桂宮様の薨去に対し、いま一度深い哀悼の意を捧げます。




小保方さん、論文撤回?

2014-06-04 22:47:26 | まあまあ社会<的>な
とうとう来るべきところまで来てしまった、という感じだ。

小保方さんが、ネイチャーに発表した2本の論文の内の補完的な論文は既に撤回を表明し、今日になって主論文の撤回にも同意したと報じられたのだ。

この小保方さんの意向を受けて、小保方さんの代理人である三木弁護士は、取り下げが事実ならば「無念だ」と言い、一方で「極めて精神状態が悪い中、主体的な判断を行ったのかどうか、十分に見極めて対応を決めたい。彼女の本意ではないと思う」と話し、さらに「何らかの強い圧力によって、同意せざるを得なかったのでは」と推測していると報じられた。三木弁護士の知らぬところで、論文撤回は既成事実化したようだ。

今日の小保方さんの論文撤回に対しては、ボクも三木弁護士の観方・判断に賛成だ。

なにより、これまで三木弁護士を代理人に立てて、STAP細胞に関わる係争に臨んできた小保方さんが、姿も声も出さぬまま、代理人の三木弁護士に相談することもなしに、最終決断をしてしまったという点に、大いに違和感を覚えるのだ。

今日の昼前頃に、理研の遠藤高帆(たかほ)上級研究員の解析によって、小保方さんの公開した遺伝子データが、胚性幹細胞(ES細胞)など2種類の細胞を合わせて得られたデータだった可能性が指摘されたのだが、そのことをもって、小保方さんが観念したという論調になるのは目に見えている。

だが、実際のところはどう考えてみても、三木弁護士の意見が的を射ているように思う。

以前にも指摘したが、踏んだ「虎の尾」が、太く長かったと思えて仕方ない。

もし小保方さんの論文撤回同意が真実であり、彼女の主体的な意思によるものであれば、これでSTAP細胞のすべては白紙に帰るわけで、すぐさまどこかで動きが出ることになるだろう。

機能は同一だが、まったく異なるよび方をされる「細胞」がすぐにも登場するのではないかと、密かに思う。

正直なところ、今のボクの生活には何らの影響もないSTAP細胞だが、巨大な利権を生むこうした研究成果の動向は、近い将来、利権と言う意味ではなくとも、大いにボク達一般ピープルにも関わってくるだろうことは、良く分かる。

小保方さんはこれで稀代のペテン師呼ばわりされる階段を、一段上ってしまったようにも感じる。

これまでよりも一層、状況は悪くなるのかもしれない。




国家的規模の利権の喪失 小保方さんvs理研では終わらない

2014-05-09 07:58:30 | まあまあ社会<的>な
以前にもここで指摘したが、小保方さんの作り出した「スタップ細胞」は、国家的規模の利権を生むプラチナの卵。

4月10日にここで、以下のように書いた。

「~少し翻って、世界中からのバッシングの根底にあるものを考えてみるに、それはSTAP細胞のもつ圧倒的な利権と大きく関わるのではないかと思えてきた。
諸論あるだろうが、巷間言われる小保方さんサイドの利権ではなく、強大な別の組織(国?)あるいは研究機関の利権を、小保方さんの論文発表が先行することで侵したのではなかろうか? 俗に『虎の尾を踏んだ』ということなのではないか?
そうでなければ、一人の女性研究者を叩くにしても、これほどのバッシングにはならなかっただろうと思えるのだ。しかも、研究成果まで『捏造』呼ばわりだ。単純に考えれば小保方晴子(の研究)は存在してはならない。従って、その研究成果もあってはならない、と誰かが言っているように思えて仕方ない。
これはボクの推論だが、近い将来、小保方さんの研究によく似た、イージーな万能細胞作成技術が、(国家の利権を代表するような)製薬会社の息がかかった研究者(あるいは、別組織に移った小保方さん本人)から発表されるに違いない」

理研が今回、小保方さんに下した「不正、捏造」の文言そのままの、再調査要請への却下措置は、前述した視点から見れば、この勢力に組するものとしか思えない。ひょっとすれば、理研は小保方さんを「敵」に売り飛ばしているのではなかろうか?

理研は「すべての利権を、理研によこせ。そうすれば許したる」と言っているようにも思えるが、実のところ小保方さんを切り捨て「『敵』に自主的に下るよう仕向けている」ようにも見える。できないことをしろと言っている。

その証拠に、小保方さんが新たに提出していた研究ノートの抜粋に関しても、再調査に結びつくはっきりとした証拠にならないと言うが、再度言わせてもらえれば、あれ以上出すことは小保方さんが自分の正当な権利を放棄することと同じことだ。

理研は、日本の国益より他の何物かの利益を優先しているのではないか? 「敵」はどういう形でか、理研に金を出していそうな気もする。

このままいけば、訴訟沙汰にもなるのかもしれないが、その先を見れば小保方さんは自分の「レシピ」を頭の中に仕舞い込んだまま、短期間とはいえ学んだ母校でもあるハーバード(共同執筆者のハーバード大医学大学院のチャールズ・バカンティ教授に招かれてもいる)に行くことになるのではないか。

そしてそれこそが、理研が結託し小保方さんとその研究成果を売り飛ばす先である「敵」の、思うつぼなのではないだろうか?

さらにもう一つ。

この問題に、日本という国家はあまりにも無関心、無策ではないか? そこが一番問題で心配なところだ。

TVは、むしろ極悪?

2014-04-23 16:54:19 | まあまあ社会<的>な
以前にも書いた記憶があるが、テレビの草創期から70年代までは、優れた情報メディアだった。

メディアとしてのテレビの発達は、先行のラジオと共に大容量、しかも無料の電波情報メディアとして、それ以前の活字メディアなどを駆逐する勢いだった。

活字メディアは、テレビの発達によって、現在にまで至る構造不況の負のスパイラルに陥った。

だが、そこはメディア同士のもたれあいというか、ある種不可侵の馴れ合いというか、壊滅するまでには至らない、手心があった。例えば、事件などのより深い取材・解説などは活字に任せ、テレビなどはその速報性や現在性をと、住み分けをしていた。

そこには、民間レベルでの相互理解が働いていた。

それが、地デジ化により、すべて吹き飛んだ。

あの地デジ化は国策として一方的な無理強いに近い形で実行された。地デジ化によってNHKの国営放送化は聴取料の義務化でより強化され、テレビはデジタルの双方向性という特質を悪用し、明らかに国家の国民管理の道具と成り果てた。

システムとし道具化するということは、その内容もまた、管理されるのは自明の理だ。

しかも多チャンネルとなり、テレビは内容ではなく単に時間を埋めるための番組作りを余儀なくされることになった。あの物売り番組ばかりのCHなど、その最たるものだ。

そこには正気の制作者がいても、まともな番組作りなどできない環境しか存在しない。スポンサーの顔色をうかがい、視聴率だけが頼りの、視聴者に何かを資することなどない、視聴者をバカにし切った世界。

ということで、テレビはついにその存在意義を失った。

そのことは、各局が自前の番組、他メディアでの制作物の宣伝に血道をあげ、手前ミソの番組ばかりが出来上がっていることひとつとってもはっきりとしている。

屹立した存在意義を持つような番組制作は回避され、ばかばかしいお笑い番組ばかりが幅を利かせている。人に対する悪口に近いあだ名をつけるタレントが、億という金を稼ぐようなさらにばかばかしい世界、テレビ画面の向こう側だけで成立し自己完結するという、度し難い世界がまかり通っている。

中途半端なお笑いタレントが、まるでこの世の成功者であるかのように吹聴し、不遜ともいえる態度でいることが、どれほど風変わりで異常な世界か、本当は誰もが知っていたはずなのだが……。

結局、多くの人々の夢であり、現実を伝える民衆の道具であったはずのテレビは、人事不省に陥り、人々の愚民化と恐ろしいほどの無能化を促進する、むしろ「悪」に成り果てた。

テレビよ、お前はすでに死んでいる! とでも言おうか。

もはや世界の終りが迫ってきても、嘘八百を国民に伝える道具に成り果てて、いまさら、正気には戻れないだろう。

テレビは嫌いではないが、本当のところ、いまは極悪だ。

内なる革命

2014-04-19 01:56:45 | まあまあ社会<的>な
ある方から、「あなたは革命についてどう思っているのか?」という問いかけがあった。非常に難しい問いかけで、すっと答えられはしないのだが、それでも試みに……。

なによりもまず、革命という言葉の意味を、ボクたちは意外に知らない。

東洋的には、中国の易姓革命的概念がまずくる。それは王朝の交代を示す言葉であり、西洋的な「古い概念(例えば政治秩序)の破壊と、新秩序の構築にいたる急激な変革」といった意味とは異なる。

西洋的な革命とは、ヘーゲルの弁証法(テーゼ→アンチテーゼ→アウフヘーベンしてのジンテーゼ)に端的に言い表されているように、何者かによる既成の価値に対する変革であり、何者かによる改革なのだが、その改革・変革をもたらす主体者が何者であるかが、大きな問題になる。

近世以降は、革命と言えば一般的に「共産革命」あるいは「民主革命」、「市民革命」を意味するようになった。いずれも王侯・貴族・ブルジョアジーらの既得権益を破壊する働きを持っていて、その主体者は市民、あるいは民衆ということになった。西洋的な革命とは、端的に言えば抑圧するものへの被抑圧側からの反乱という意味合いが強かった。

だが、革命を単純に「激的な変化」ととらえれば、日本でも近世以降何度か革命は起きている。もっとも劇的で激的だったのは第二次世界大戦後の変革だろうか。

ただ、その革命=変化の主体者は、日本国内の勢力ではなかった。それが良かったのか悪かったのかどうでもよかったのかは別にして、アメリカ主導による「日本の民主化」という名の無意識領域の変革も伴った政治、経済、教育・文化など、およそ人の営みすべての、徹底的な破壊と再構築が行われたのだった。

それ以前にも日本の西洋化、世界化を果たす端緒となった明治維新もあったが、これとても変革の主体者は、決して民衆ではなく、尊皇攘夷派という大きな政治勢力による領導だった。だが、激的な変化という意味では、明らかに革命だった。

革命をもう少し狭義の西洋的民衆革命と理解して、そうした運動が日本にあったかと問われれば、あったと答える。

それは、60年安保から70年安保へと引き継がれていった、学生・労働者を主体とした左翼勢力による反米・反戦、反権力(自民党などの右翼政治勢力、大企業などのブルジョアジー等)闘争がそれだった。

ご存じのようにこの闘争は、半ば自壊といった形で頓挫・崩壊した。成功を収めなかったという一点で、革命とは呼べない。だが、西洋革命的要素は満々としてあった。

こうしたポリティカルな組織だった変革を「革命」と呼ぶ場合が多いのだが、実は「革命」とは本質的に個々一人ひとりの営為と考えることが重要なのではないかと、後々は思うようになった。

内なる革命、である。

そしてこの内なる革命こそが、おもしろい。

「男子三日会わざれば刮目して見よ」という、三国志演義に登場する呉の呂蒙の言葉があるが、まさにこれこそが、内なる革命を端的に言い表した言葉。

最近のイギリス&アイルランド出身のPOPグループ=ワンダイレクションの登場するTVCMでも、「三年前の自分は平凡な少年だった」みたいなことを言っている。

もっと言えば、内なる革命は瞬時に起こる。三年、三日どころか三秒もいらない。そこに生命のダイナミズムがある。

変わる! そう決意した瞬間に人はすでに変わっている。それを革命というのだ。

革命とは「生命の変革」、そう理解するのがもっとも良いのではなかろうか?

異論も反論もあるだろうが、これがボクの、最近の革命論。

「自分で決めたことだから」…なんて不条理な…。

2014-04-15 13:16:55 | まあまあ社会<的>な
以前に同じようなことを書いた。もう一度。

世界は意外に単純な仕組みで支配されている。思ったよりも簡単な仕組み。
もっと言えば、より単純化することで支配の効率を上げようと、支配する側は日夜腐心している。
彼らの仕事のほとんどは、それを考えること。
そして、支配される側にそのことを気付かせないよう、支配の方法論は覆い隠される。

だから、多くの人々は大抵の場合、自分が誰かに支配されているなどとは、毛筋ほども考えない。自由に生きていると確信し、疑いもしない。

一番便利な支配のための言葉がある。

「自分で決めたことだから」

これほど支配に都合のいい言葉、支配される側に植え付けると便利な「思い込み」はない。

人は何かを決断しなければならないことがある。のほほんとしていたいのに、二者択一を迫られる。「生」と「死」の分岐点でも。

時には初めから死を選択するように決められている場合もある。かの太平洋戦争中の特攻隊員のように。それでも、納得せざるを得ない言葉がこれ。

「自分で決めたことだから」

完遂しようと人々はあがく。だから支配する側は何をする必要もなく、眺めているだけでいい。

歴史を、支配の方法論の変遷とみることもできる。暴力的な獣性による支配から、論理的な仕組みによる方法論への変遷。

この世の中の仕組みを、60余年生きてきて、ようやく理解した。

簡単に言えば、
①誰が誰を管理するか?
②何を使って管理するか?
③いつから始まったことか?
④今はどういう形でそれが行われているか?
⑤どこを見ればそれがわかるか?

簡単に言えば、こんなことがわかるとこの世の中の仕組みのほとんどが瞬時にわかるという話だ。
それがわかるということは、やろうと思えば、その仕組みを壊すなり、入り込む方法を見つけるなりはできるということ。

ただし、やろうと思えば、だ。相手は巨大すぎて急所も見えない。

ただその相貌は、時々、具体的に書いていこうと思う。

忘れてはいけない。

2014-04-14 23:30:54 | まあまあ社会<的>な
写真を整理していたら、3.11から5日後に撮った写真が出てきた。

蝋燭の灯りで食事をしている我が家の写真。



あの時、電力危機と言い計画停電なるものが実行された。

その計画停電の時の我が家の様子だ。

今考えれば、何だったんだろう? どう考えても全く不要な停電措置だったとしか思えない。

真っ暗になりおおせた、信号すら点かない漆黒の闇の道を、おっかなびっくり車を運転した記憶もある。

ただ人々の不安と恐怖と焦燥感を、いたずらに増幅させただけの実も蓋もない愚策だった。

東南海トラフ地震、首都直下型地震の起こる確率は、70%を超えるらしい。

もしこれらの地震が起きたなら、こんな蝋燭パーティーのような塩梅ではすむまい。

人々の心根はどんな方向に振れるのか? 破壊は人々に何をもたらすのか? 空恐ろしい気もするのだが、存外、思うほどには極悪非道なことにはならないかもしれない。そこはわからない。

なんだか世界中で地震が頻発している。それもM6以上の地震。発生地点を眺めていると、太平洋をぐるりと囲んでいるような印象も受ける。

なにか、不気味なものを感じるのはボクだけではないだろう。

心しよう、お互い様に。