普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

何故巨大な企業が生まれるのか?

2014-04-02 23:04:32 | まあまあ社会<的>な
巨大な企業が生まれている。若い億万長者も生まれている。

何故億万長者や、巨大な企業は誕生するのか?

理由はとても簡単なことで、要は本来の価値にどれだけの価値を上乗せして売ることができたか、という単純なことだ。

10円のモノを11円で売っても1円しか儲からないが、本来は10円であるにもかかわらず200円で売れば190円儲かる。

①この190円という金額は、10円のモノを19個作る(用意する)ことができるということで、単純に考えれば次の段階②では10円のモノを19個作って売ることができる。するとすべて売れれば、3800円の売り上げで、次に10円のモノは380個用意できる。これもすべて売ることができれば、③76000円になる。だから次のステップ④では7600個用意できるわけで、総売り上げは1520000円になる。そして次のステップ⑤では……152000個のモノが用意でき、すべて売り切れば30400000円が手に入る。さらに無駄使いせずすべてをモノに変えれば3040000個のモノが用意でき、すべてを売り切れば、たったの⑥ステップで608000000円が手に入る。

608000000円を見やすく直せば、6億800万円だ。この段階までくれば、200円で売っていたものを100円にコストダウンしても、富を生み続ける。

もちろんこれらのことをするには、営業力、宣伝力、設備投資、販売力、危機管理……といった経営のあらゆるノウハウが必要であり、ことはそううまくは運ばないのだが、考え方としては間違いではない。

なにを言いたいかと言えば、世の中で、金を得ることに成功している人や組織は、いかに人に気付かれずに、臆面もなく必要以上の価値を上乗せして人々に売りつけているかということだ。

もっと嫌な言い方をすれば、金を生むということは人を騙すということと同義語だ。

貧乏人は、人を騙すことができない人と言ってもいいかもしれない。10円の価値のモノは、せいぜい20円くらいでしか、怖くて売れないから。人を騙すことになりそうな気がしてね。だからその日暮しになる。せいぜい家を建てるくらいが成功の証だったりする。

貧乏は良いものではない。だが人を騙すよりはいい。それだけのことだ。



日韓関係の悪化は、必然?

2014-03-08 17:06:38 | まあまあ社会<的>な
ボクは、北朝鮮のことは面白おかしく書いてきた。韓国に関しては触れないできた。一時、音楽に関わることで韓国に関して書いたことはあるが、政治的な側面からは、一切触れないできた。

その理由は、韓国と日本の関わりは、良くも悪しくもわずか数十キロの海で隔てられただけの、隣国であるということによる。

それは、好き嫌いも関係なく関わらざるを得ない地政学的意味を持つ。

意識するとしないに関わらず、無意識にでも関わらざるを得ない相手と、どう関わっていくかという問題への回答は、それほどたくさんはない。

その決定的な一つは、どちらかが「我慢する」というもの。

振り返ればわかるとおり、簡単に言えば戦前は韓半島が我慢し、戦後は日本が我慢してきている。

ところが昨今、我慢にも限界があることが分かりはじめている。日本が我慢の限界を超え始めているのだ。

特段に教科書を書くわけでもないので、個人的な見解と知りうる限度内での情報を元に書く。

我慢ならない理由。

その① 朴槿惠の日韓関係の政治利用。父親の朴正煕は旧日本陸軍(正確には満州国軍)中尉であり大統領就任中も「親日」的であったとされ、日本側が対韓賠償問題の根拠としている「日韓請求権協定」を締結した当事者。簡単に言えば、父親の政策を否定することでしか、自らのアイデンティティを見いだせないのだ。それが著しい反感を持った対日発言になっているように思う。あまりにエキセントリックで、彼女は更年期障害なのではないかとさえ思う。
その② 朴槿惠の日本「民族」への差別発言。『歴史を忘れた民族に未来はない』。確か大統領に就任してそれほど経たずに、朴槿惠は演説でこう言った。国でも政府でもなく「民族」と言ったと思う。日本人すべてが全否定されている。あからさまな民族差別発言。聞き逃すことのできない「歴史的」な暴言だと思う。
その③ 安重根の英雄視。日本の初代宰相であった伊藤博文を暗殺した安重根の碑を中国のハルピンに建設することを韓国政府が要求し、習中国はこれに応え今年開館した。例えどのような理由があろうと、暗殺者は暗殺者。人殺しだ。その行為に正当性などない。そうした人物を英雄視し義士と称えるということは、例えば今後日本の首相が韓国人、中国人に殺されたとしても、彼らは英雄視されることになるわけで、そのような国には恐ろしくて日本の首相に足を踏み入れてもらうわけにはいかない。いや行くべきではない。日韓、日中首脳会談がもし開催されることがあるならば、日本か、あるいは中韓以外の第三国で行うべきだ、と思うほどの問題ではないか? 中韓とも「文化度」「民度」という意味で、低劣である。
最後に、その④ 歴史認識。韓半島の歴史を語るのなら、対中国への恨みつらみも同時に中国にぶつければいい。中国4000年の歴史の中で、韓半島はただの一度も中国の侵略を跳ね返したこともなく、常に「侵略」「搾取」「併合」されていたはずだ。朴槿惠は都合よく「歴史」という言葉を使っていると思わざるを得ない。

従軍慰安婦に関することにも言わなければならないことがあるが、それはまたいずれかの機会に。

それでも、政治的な韓国との関わりは、前向きに発展的に考えていくべきものではある。それは近い未来の隣国同士の関係にとどまらず、遠い未来の関係を考えれば、なおさら当然だ。

我慢はならないのだが、残念だが、そのことだけは忘れてはならないだろう。


三味線の音の話

2013-12-06 01:45:26 | まあまあ社会<的>な
少し前に、三味線の音の話を書いた。

あれは、本当に何だったんだろう? あれから二度と聞くことがない。幻聴だったんだろうか?

いやいや、そんなはずはない。本当に心が震える音だった。

それにしても何処の誰が爪弾いた三味線の音だったのか? 二度と聞こえないとなると、なおのこと知りたくもなる。

吉原を思い出したという話も書いた。

ついでに書くと、昭和33年がエポックメーキングな年だったということも以前に書いた記憶があるけれど、吉原などの公娼場が売春防止法の施行で廃止されたのも、昭和33年だった。

逆に言えば、昭和33年まで売春が公に認められていたということであって、そのことの方が、ちょっと驚きだ。

戦中に朝鮮婦人を売春婦として徴発したとかしないとか、日韓間の大きな問題になっているが、あの時代相の中で、売春をどう考えていたかはあの当時の価値判断や人々の引きうけ方も含めて問われなければならないように思う。

今の人々の価値判断で、戦時中の人々の判断基準を語ることはできない。

世界最古の職業と言われる売春は、ついこの間まで『悪』ではなかった。そのことは歴史を紐解けば分かることだ。

それは韓半島でも同じだった。1970年代半ばのソウルで、売春婦を引き連れて夜な夜なホテルや旅館を徘徊する女衒に、逗留していた2週間、毎日遭遇した。

今だからこそ、売春は『悪』と断罪できる。だが過去のそれを断罪はできない。なぜなら罪でも悪でもなかったからだ(もう一度書くが、今の判断基準での判断ではないよ)。

問題はこんな程度の思慮で解決する類のものではない気もするが、エキセントリックな決めつけよりはまだましな気もする。

ちなみにボクは、この歳になるまで、女性をお金で買ったことはない。



運賃が1円単位?

2013-10-30 22:51:16 | まあまあ社会<的>な
大分前から、利用者とは無縁のどこかで、公共に近い乗り物の運賃を改定、1円単位にするという議論が行われていたようで、昨日、そのことに関する解説だかニュースだかをどこかでみた。

一見、なにか合理的に思えるし、便利そうな気もするか、釈然としない部分もある。

その一つが、1円単位で目的地までのチケットを、キャッシュで買えるのかということ。

当然、スイカやパスモ、その他の電子マネーを使用することを前提に据えた話しなのだろうが、日本には金本位制に基づく貨幣が存在するわけで、よもや、その貨幣が使えないシステムになるのではあるまいな、ということである。

はっきり言って、1円から使える自販機を導入することなど、端から考えていないと思う。

電子マネーやクレジットを意識的に使わない人もこの世には存在するし、クレジットなどは持つにもてない人もいるだろう。

こうしたシステムというよりは、何らかの構造を一企業、あるいは企業の連合体が民意を問うことなく変えてしまうことは、果たして許されることなのだろうか?

ボクには、少なくとも今のボクにはわからない。

ご意見を聞かせてほしい。

韓国の自戒

2013-10-02 16:57:01 | まあまあ社会<的>な
「産経WEST」というNEWSをながめていたら、おもしろい記事があった。

朝鮮日報が掲載した記事「かっとなる韓国人」で、韓国社会が忍耐力を失い、かっとして衝動的な犯罪に至るケースを紹介しているというのだ。

そこには「帰省した時に母親に叱られ、腹いせに殺害した息子、『音を立てながら食べる』などと指摘した母親の首を絞めて殺した未婚の男性会社員、同じマンションに住む女性に『ブサイク』と言われ、そのまま殺害した男」などの事例が。

同じような事例は「放火」も含めて急増しているというのだ。

同記事で専門家は、利己主義がはびこっていることを指摘しつつ、「急激な経済的変化や社会的葛藤の中で、相手への思いやりや対話という文化が衰退している」と分析。また、別の有識者は「すぐに結果を出そうという韓国人特有のパルリパルリ(急げ急げ)文化によって、我慢し妥協するプロセスが持てなくなっている」と嘆いている、とあった。

今の日韓関係も同じ根のような気がする。

日本でも訳のわからない犯罪が増加している印象を受けるが、なにかこちらも根が同じように思える。

それが日本の場合、どこの根から生まれてきているのか? 以前このブログでも書いたが、日本の場合は、なにかこの20年くらいで顕著になった新しい傾向の犯罪という気がするのだが…。

何はともあれ、韓国で自分たち自身を顧みるメディアがまだあることが、救いだ。




「自由主義」の本当の意味

2012-03-18 13:02:42 | まあまあ社会<的>な
 考えることはたくさんある。やることもたくさんある。
 考えることは他人には見えないから、口に出したり実行したりしない限りは、自由だ。
 だが、やることは自分でこっそりと誰の目にも触れずやらない限りは、決して自由ではない。

 戦後教育を受けて自由の意味を、現代の日本人はまず自分の立場に立って考える。自由という言葉の本質を個に引き当てて考えるように教えられてきた。
 それが一番自然だと考えてきた。個人主義の自由主義。

 だが、それはほんとうだろうか? 日本には元々自由という言葉も発想もなかった。free、libertyという外国語に対応する言葉として、明治以降に作られた言葉だ。士農工商という身分制度が厳然とあった日本には、そこから逸脱する自由さえなかったのだ。
 それが戦後教育の中で、とってつけたように自由という言葉が「自由」気侭に自己主張し始めた。

 もう少し考えてみよう。自由という言葉の意味をwikipediaでみると「両者の共通点は、現在的意味合いの自由とは異なる意味で用いられた点である。freedom および liberty の用法にも残っているが、近世までは<特権>を意味する語であった。<民衆の持ちえない権利を有している>状態が freedom または liberty であった。1729年に出版された辞書によれば、権利付与や時効によって得られる<高貴なる者の特権>と定義され、但し書きで『一部で、各人が思うように行動できる力という意味でも用いられてきている』と言及されている」と書かれている。

 実はこの理解こそ、「自由」という言葉の本質であり、いま流布している「自由主義」という言葉の本質なのではなかろうか。

 少し考え方を変えてみよう。この「自由」は誰の自由なのかということだ。そして良く考えてみると、決して自分の「自由」でないことだけはわかるだろう? そして主義としての自由、パブリックな自由などというものもないことが分かるだろう。それは「勘違い」なのだ。
 
 では誰のどんな自由なのか?

 一握りの特権階級が、人々を自由に使役する「自由」、と考えると実にすっきりする。
 つまり一般人は「自由に生きている」と思わされているだけで、決して自由ではない。それは自分の周囲での不自由さを考えてみればよく分かることだろう。

 我々が知っている「自由主義」という言葉の本質は、人を支配する自由を持っている<高貴なる特権を持った者>のアイデンティティ表明というだけのことなのだ。

 そんなろくでもない考え方、という人もいるだろう。

 だが、考える自由を駆使して考えれば考えるほど、残念ながらこうした結論に達する今日この頃……。
 今日は、ここまで。

歴史を読み解く、僕のやり方。

2011-09-10 01:16:39 | まあまあ社会<的>な
(いつでも批判を受け付けますが、これはボクのやり方なのであって、誰に押し付けるものでもないと言うことが前提です)

 と、言い訳のような前段があって、ボクの歴史認識の話を少し書こうと思う。
 まぁ、堅苦しい話は抜きにしていきたいので、最初は本当に初歩の初歩で。

 ボクは歴史をこう見ることにしている。始めは「一」、次が「二」も含めた複数、次は「数えられる程度」の多数、そして「数え切れない」ほどの混乱と「革命」。
 そして程度の差こそあれその繰り返し。繰り返しだが、始めの「一」は既に純粋な「一」ではなく、「一」であろうとする意志だけが突出している様。

 「一」は言葉を変えれば「英雄」かもしれない。「二」は対立する存在の登場であり、それは必ずしも一人とは限らない。始めは一人だが、対立する存在はいくらでも生まれてくるものだから。そして「数えられる程度」の多数が生まれ、抗争が始まる。そして「数え切れない」ほどの自己主張と自己撞着の末に、再び意志の統一という名の「革命」が起きる。

 かつてヘーゲルの「弁証法」というものがもてはやされた時代があった。それは「テーゼ=正」があり「アンチテーゼ=反」が生まれ「アウフヘーベン=止揚」し、「ジンテーゼ=合一」となるという、なんだか三段論法みたいなものだった。だがそのシンプルさ故に威力があった。それは歴史観でもあった。

 ただ、ボクの歴史認識は、ヘーゲルの弁証法ではなく、どちらかというと仏教の歴史観、すなわち「正 像 末」の歴史観に近い。
 「正」とは仏陀その人の教えであり、敷衍しても直接の薫陶を受けた弟子達の時代。「像」とは、仏の教えをすでに観念、想念としてしか理解できない人々の時代。そこには多くの人々がおり仏像を彫り、寺院を建立するなどし「正」を歪めはするが、まだ仏の威光は残っている時代。そして「末」にいたり、誰でもないすべての人が、まるで自分が仏でもあるように、聞きかじった真理を自分のもののように語る。それはまったく訳知り顔の、無知な人々の集まり。
 ただ、仏教ではこの状態を「末法万年尽未来際」と説く。つまり、いつまでもそのような時が続くのだという。
 ボクは、確かにその通りではあると思うのだが、今一度顕微鏡をのぞくように歴史をのぞくと、フラクタルのように繰り返しがあると思えるのだ。
 やがては確かに「末法万年~」という事になるのだろうが、もう少し短いタームで眺めると、「繰り返し」という概念が生きてくるような気がする。

 今日はここまでにしておきます。頭の芯が「グワッ」となってきましたので。

長い時間をかける、自殺?

2011-08-12 13:47:43 | まあまあ社会<的>な
 以前にも書いたかもしれないが、最近「自死」「自殺」について考える。

 断っておくが、ボクは鬱的傾向はあるが「うつ病」ではないから、「自殺」という概念に関して考えるのであって、「自殺」をしたいとか、止めようとかという次元とは別の次元での思考。

 よく「喫煙」「飲酒」などを、「長い時間をかける自殺」という。
 明らかに害のあることを止められないというのは、潜在的にその害を容認し、自分の寿命を縮めることになるのだから、それは「自殺」に等しいというわけだ。

 そういう言い方が成立するなら、昭和33年以降頻繁に使用されることになった食品添加物を使った食品の横溢は、国による自国民への大量虐殺行為ということになる。
 工場廃棄物による大気汚染、土壌汚染、水質汚染も同じだ。

 もっと卑近な例を言えば、原発の容認は、100%確実に大丈夫という安全性の確立が成されずに行なわれた、国家を挙げての国民を実験材料にしたモルモット実験だったということだ。その結果が今の日本ということだ。

 なんだか、この国は自分で思っているのとは裏腹に、「長い時間をかけた自殺・自滅」を演出しているように見える。

 ことに、菅の政権への居座りは、その演出を深化するようにしか思えない。

 ボクらは、なにをもってこの国家に対して報いていけば良いのか?
 ついでにそんなことも考え始めている。

世界経済の不思議な仕組み?

2011-08-10 16:53:13 | まあまあ社会<的>な
 さて、世界経済が逼迫している。こちとらにはさして関係もないのだが、客観的に眺めているとおもしろいことが見えてきた。

 簡単に言うと、これは単に資本主義の終焉、末路なのだろうということ。
 二十世紀の最後に共産主義・社会主義経済が破綻し、資本主義・自由主義へと世界中がシフトしたわけだが、それも一つの理由なのかもしれないが、資本主義が一気に疲弊した感が否めない。

 本来は、まるで誰かの意志の様に斬新的に前進してきた資本主義経済の枝葉であったはずの投機が、狂い初めて資本主義を一気に末路へと引きずり込んだ。本末転倒。
 投機という、本来であれば巨大資本がまるで卓上ゲームのように遊んでいれば良かったものが、金はあるが節操のない(投機に走る連中は、元々節操などないのだが)連中が金があるということだけで投機に参画し、優雅な卓上ゲームではなく、完全にマネー生産工場と化した。
 余裕もクソもない、ただただ金を生み出すための作業。結果、世界経済は前の見えない袋小路に入り込んだ。
 アメリカは、テロ事件を演出したり戦争を作り出したり、この十数年、忙しく「経済」活動にいそしんだが、タガの外れた投機筋の暴れぶりに、成す術もなく国債格付け「AA+」に転落。
 とっくの昔に「AA」という低信頼度の日本に、追いつけ追い越せか?

 エントロピーの法則ではないが、資本主義はゴミばかりを生産し、今度はCOを悪玉にしたてて、世界経済の転換を図ろうとしている。COは悪玉の、ゴミ扱い論議は、なんだか胡散臭さがぷんぷん漂ってきた。
 COを機軸とした、原子力発電容認やらエコ推進といった議論や流れは、なにかウソ臭い。

 それにしても。こうした流れを計画し、実際に作り出している連中がどこかにいるのだろうに、一向に姿が見えない。プレデターかい?

 見えれば拳骨で一発殴るくらいはしてやりたい。当たるものならね。

生かすための、自死。

2011-07-27 19:32:25 | まあまあ社会<的>な
 自死を考える。
 自殺ではない、自死。
 自殺は自分を殺すと書く。そこには自分自身への否定がある。
 特段に何かが違うわけではないのかもしれない。自分の意思で死のうと、他人に殺されようと、自分に殺されようと結局は死ぬ。

 どんな言い方をしたところで自死は自死なのだが、むしろ積極的な意志として、誰かの役に立つのであれば喜んで死ぬ、という人は少なくなかろう。
 ボクの奥さんの父親(義父です)は、既に病気で亡くなって10年が経つが、敗戦直前に入隊した特攻隊員だった。彼は死の直前まで特攻隊員として共に過ごした仲間と飲みに行くなど、同じ時を過ごすのを楽しみにしていた。死を共通のテーゼとして抱えていた、死を眼前にしたことのある者たちは、常人にははかり知ることのできない絆で結ばれていたに違いない。
 特攻隊員は、何のために積極的な自死へと赴いたのだろうと考える。
 「お国のため」といいながら実は「お母さ~ん!」と叫びながら死んでいったとも言われるが、残された者を守るために、彼等が自ら死んでいったという事実は否定できない。薬の力で無理矢理送り出されたなどという輩もいるが、それは、たとえ恐怖にさいなまれた状態だったとしても実際に散った特攻隊員への冒涜的発言と言ってもいい。
 彼等は等しく使命に散ったと考えるのが妥当だろう。でなければ彼等の死は「犬死」になってしまう。

 積極的な自死というものは、これからも積極的に考えていかざるを得ないテーマであり、最も身近な命題ということになろうか。
 死を、自分のエキゾティックな生の「刺身のツマ」扱いしてはならない。
 いまという時の中での、自死を考える。

地デジ化に疑問は感じません?

2011-07-05 00:28:17 | まあまあ社会<的>な
 何もせずとも、時間は過ぎていくもの。それなら何かをしたほうが良いに決まっている。だが、そんな時ほど、何をしたらいいのか見えなくなっている。がむしゃらに出来ることをする、それが極意かもしれない。たとえば革命のようなもの…。

 地デジ移行へのタイムリミットが近づいている。皆さんは準備万端整って、いつアナログ放送が終わっても「えっ? そうなの」とやりすごせるのだろう。
 だが、ちょっと待って欲しい。
 正直なところ、ボクは地デジ移行への準備をまったくしていない。まったくする気になれないのだ。
 なぜなら、これほど強権的に有無を言わせぬ政策推進というものは、共産主義、全体主義国家の専売特許であって、自由を標榜する日本という国家で行われたことにショックを覚えるのだ。
 なんの選択肢もなく、しかもすべてが国民一人一人の負担で、国の政策でありながら、国は口を出すだけで、なんの負担もしていない。こんなことがシレッと行われていることに、国民は誰も不満どころか疑問すら持っていない。
 不満も疑問もないなら、それでいいじゃないかというレベルの問題ではない。これは、国家と国民という基本概念の問題なのだ。自由を標榜する国家にあって、国と国民の健全な関わりとはどのようなものなのか、真剣に考えるべき事であり時だったのではないかと思えて仕方がないのだ。
 たかが地デジごとき問題で、何を真剣にと思われるかもしれないが、こんな一見なんでもない軽い問題だからこそ、真剣になったほうが良いと思うのだ。
 今更というそしりを甘んじて受けるにしても、このブログを読んでくださる方には、遅きに失していると思ったとしても、是非一度考えてみて欲しいことのひとつではある。

 というわけで、我が家は、あと3週間したらテレビというメディアと無理とに別れさせられることになる。
 情報の共有もできなくなる。
 だが逆にそのほうが、どこかの誰かさんの思うつぼにならずにすむ、そう思ってもいる今日この頃です。

超高齢化社会でなにが起きるか?

2011-02-20 23:16:07 | まあまあ社会<的>な
 久しぶりです。
 10日間もブログのためにPCの前に座ることができませんでした。
 アラブ世界だけでなく、中国にまでSNS革命とでも言えそうな新しい革命の波が押し寄せているようですね。
 それにしても、なぜ日本ではまったくそうした動きが起きないのでしょうか? 正直なところ、日本は「心身ともに」病んでいるような気がしてなりません。元気の出しようがないという気がします。その理由のひとつは、高齢者の処遇にあります。
 多くの学者や社会活動家が、日本の行く末を解き明かそうと発言しています。超高齢化社会は眼前にまで迫ってきています。
 超高齢化社会ではなにが起きるのでしょうか? 若者が一人で何人もの高齢者の社会保障を支えなければいけなくなるなどということは、そう大した問題ではないと僕は思います。そんなものは社会保障の制度を変えれば済むことですから。
 問題は、高齢者は働き手ではない、社会を構成する要素から外れているといういまのままの考え方でいけば、まったく高齢者は社会構成要素から外れたままになり、二度と社会の構成員として浮かび上がる事がなくなるということです。60歳を過ぎた途端に、まったく就職先がなくなるなどという歪みは、あってはならないことでしょう。高齢者の社会参加意識を鋭利な刃物で削ぎ取っているようなものです。
 なぜ高齢者を中心に据えた社会という考え方ができないのでしょうか? このままでいけば高齢ではあるけれど、多くの有用な労働人口も優秀な頭脳も失われるままになるだけです。
 なにより高齢者の生理ということを考えると、おそらくあと何年もしないうちに、すべてのスピードがいまよりスローダウンするはずです。それを無視すれば、必要以上の軋轢が生じ、不慮の事故や事件が多発するようになるでしょう。そのことの方が、遥かに重大な問題だと、僕には思えます。
 社会というものは、流れの中で変化するものです。国民の意識や生理が国家そのもののありようすら変えていきます。冒頭に書いたSNS革命などもそのひとつの現れでしょう。
 日本人は、すでに何かを諦めてしまっているようにも思えます。そこから崩壊が始まります。日本という国体はすでに崩壊に向かっているようにも感じます。政治などすでに崩壊の初期段階に足を突っ込んでいます。もう後戻りはできそうもありません。経済も浮かび上がる端緒すらみつけられずにいます。そしてこれこそが最も恐ろしいことですが、拝金主義が日本中にいきわたり、思想も哲学も組み伏せられてしまい、息も絶え絶えだということです。
 今の日本が高齢者を脇に追いやる考え方の基本は、合理的という名のやはり拝金主義がベースにあります。
 どうか、政治に携わる皆さんは、高齢者を中心に据えた社会構造を模索してください。それが小さな政府を招こうが、経済の縮小につながろうが良いではありませんか。高齢者が大半を占める世の中を基本に考え、若者がその中で生き生きと活躍できる社会を模索する方が健全です。
 無理矢理に勢いのある若者中心の社会を構築する必要はありません。でなければ、日本は後10年ももたないのではないかと危惧します。

世界は変るかもしれない。

2011-01-20 03:02:18 | まあまあ社会<的>な
 なにがどうのということもないのだが、世の中が変わるような気がしてしかたない。
 なにか一瞬にして、人々の精神革命のようなものが起きるような気がするのだ。
 簡単にいえば、拝金主義から人間主義、生活主義への大転換。
 良く考えれば、「ないない」という飢餓感から「分かち合おう」という豊かさへの簡単な転換。
 嫌な生活、人生から、楽しい生活、人生へ。
 その指標は、自殺者が1万人を切った辺りになるような気がする……。

今日は「いい兄さんの日」です!?

2010-11-23 09:33:29 | まあまあ社会<的>な
 最近「○○の日」というのが流行っている。昨日は「良い夫婦の日」だったそうだ。11月22日の文字の語呂合わせ。
 11月で結構気になったのが「11月11日→ポッキーの日」。ポッキーが並んでいるという、これは視覚的な印象からきたもの。同じ11月11日が「電池の日」というのも面白かった。十一十一で「電池の日」。こちらもポッキーに近い発想かな。
 しかし、ほとんど毎日がなにかの記念日で「○○の日」と呼ばれているのは、どうなんだろう? 11月でみると、6日と21日だけなにもない。あとはすべての日が「○○の日」。

 昔はというと、例えば今日は「勤労感謝の日」と素直に言ったけれど、最近はどうなんだろう? さしずめ「良い文の日」とでもなるんだろうか? ちょっと調べたら「勤労感謝の日」、「手袋の日」、「外食の日」、「Jリーグの日」、で、やっぱり「文の日」もあったけれど、これは毎月23日なのだそうだ。そして「いい兄さんの日」でもあった!

 今日11月23日が色々な日であるのは良いが、それにしたって「いい兄さんの日」というのはありだろうか? 「いい兄さん」って誰が何のためにそう呼ぶのだろう?
 一歩譲って今日を「いい兄さん」と限定的に呼べる「兄さん」をリスペクトする日だとしよう。兄さんは「いい兄さん」であって欲しいという願望が込められているとしても、今時は、兄さんのいない人の方が多いと思うし、「いい兄さん」と限定すれば、その数は絶滅危惧種並みに激減しそうな気もするが……どうなんだろう?
 ま、どうでもいいか……。

歩行者 マナー

2010-10-12 12:14:12 | まあまあ社会<的>な
家の近所は、何もない。

何もなさを説明すると、最寄駅前はコンビニが100m離れて2軒、その間に小規模なスーパーが1軒。半径1km圏内に他の店はない。

駅から家まで約700m。その間の道は、車が行き交えない道幅で農道を舗装しただけのもの。

そんな環境のくせにマンションが林立、世帯数は地域で優に2000世帯は超える。

だから地域内の車両数はハンパなく多い。車が道で鉢合わせすると、慣れている住民は下がったり脇の際際まで寄せたり、それなりに工夫もするが、通りがかりの連中は殺気立つ。「お前が下がれ」というわけだ。イラッとするのはする。

朝の小中学生の通学時間帯は、地域内の道路を走る車の運転手は災難という他ない。

なにしろ学生だけでなく通勤の歩行者も湧き出して無法地帯と化し、道はカオスが支配する。

しゃきしゃきと歩いてくれればまだしも、てれんてれんと進む。数人で道幅一杯に広がり話をしながら歩く。

ときどきクラクションを鳴らしたい衝動に駆られるが、我慢する。
それでも事故は起きない。だが、いつか重大事故が起きそうな気もする。

それでは遅いのだが、道を囲む農地や造園業者の地主が、道幅の拡充に協力しない。

そういう意味では、家の近所には、不便さと、カオスと、無関心はある。