普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その62>仕事・人

2020-11-15 15:44:37 | 東京「昔むかしの」百物語
社会に出て、既に50年が経った。簡単に俯瞰してみる。

大学を中退したのが3年に進級する1970年だから、ちょうど50年。

大学を止めて、芝居に専念しようと思った。それから外波山文明氏のはみ出し劇場で東北・北海道を回ったり、いくつもの劇団や同人の芝居に客演で参加したり、新宿や六本木で「黒魔術旅行団」名義で劇場公演を開いたりしたが、続けられなかった。

はじめて告白するが、正直、面白くなかったのだ。なにをしているのだろう? と、いつも疑念が頭のどこかにあった。

そのうちに、週刊誌の記者ライターへの道が開けた。当初は「七月企画」という編プロでアンカーライターとして活動していた。主婦と生活社でおよそ半年以上をかけて一人で「島の旅」というMOOKを作った。担当は京極さんだったか。必然的に芝居からは足が遠のいた。

やがていつのまにか廣済堂の「マネーライフ」編集者になっていた。七月企画のボス・ぴらさんの計らいだった。

この廣済堂時代に、今でも交流の続いているカメラマン・生井秀樹氏、超一級の記者・江原芳美氏と知り合った。

やがて編集長として川内康範先生が来られ、大事にしていただいた。海外(といっても韓国、台湾)取材は、ボクが担当した。

そこで過ごすうちに、当時人気の小説家、花登筐、川上宗薫の担当編集者になり、悪筆だった二人の小説原稿を読み取りリライトし入稿するようになった。これは勉強になった。そして、芸能方面の取材をするようにもなった。

そして知己だった田中唯士氏(後のS-KEN)の誘いで、「ロッキンF」の編集者になった。

ここで多くのことを学び、今の奥さんとも知り合い、今も交流のあるP-MODELや佐井好子さんなどとも知り合った。

ここまでが、20歳からの10年間。目まぐるしかった。

これ以降は、長くなるのでまたの機会に書くことにするけれど、読んでいただくとわかる通り、ボクはいわゆる就職活動をしたことがない。いつも誰かがお膳立てをしてくれて、道が開けて行った。これは、昭和という時代の大きな特徴だと思う。

ただただ人間関係だけが、道を切り開くファクターだった。コネなどといったことではなく、面白そうだから一緒にやらない? というような、人をまず信頼して事を始めるやりかた。

今のように、面接にマニュアルがあったり条件に満たなければ無条件に切られたりというようなことはなかった。

もちろんくそ生意気なボクだから、すぐに馬脚を現して辞めてしまったり喧嘩をしたりもした。そんな話は次回以降に。



東京「昔むかしの」百物語〈その61〉竹刀

2020-08-31 11:07:08 | 東京「昔むかしの」百物語
もう、60年も前のコトだから、書き残しておこうと思う。

ボクは、小学3年生の3学期に杉並区立西田小学校に転校した。それまでは、文京区立窪町小学校に通っていた。

今でもそうなのだろうと思うが、当時文京区は都内でもいわゆる文教地区と言われる地域であり、親御さんも教育熱心、子どもたちも親の期待をそこはかとなく感じながら、学校に通っていたと思う。

そんな中、ボクはといえばそうしたことには無頓着で、板橋から越境入学した窪町小学校に、壮絶な通勤通学電車を利用しただ通っていた。

先生方も、子どもたちの指導に熱意を持って当っていたと思う。

転向して初めて西田小学校の校門の前に立ったとき、強烈な違和感を感じた。ハッキリと覚えている。

ボクは電車通学をしないですむことに、正直ウキウキと校門の前に立ったのだが、血の気が引いた。

校門の脇に、おそらく30代半ば頃の、厳しい顔つきの男性教師が立っていたのだ。それだけならまぁどうということもないが、その手には竹刀が握られていたのだ。

それが教育指導のA先生だった。

竹刀は、当時であれば普通だったのかもしれないが、遅刻する子ども達、服装の乱れた子ども達などといった、問題のありそうな生徒への、威嚇のために握られていたのだろう。

今であれば、即刻退職を余儀なくされるのだろうが、当時は多くの復員兵が教職につき、戦前の皇国教育を金科玉条としていた教師も多かった。

それが良いことだとか悪いことだとか論評するのではないが、子ども心には怖かった。

A先生が竹刀で生徒を叩いたなどという話は聞かなかったが、のほほんと文教地区の学校に通っていた身にとっては、A先生が、感じたことのない威圧感を醸し出していたのは事実。

だが、ボクが通い始めて卒業する前には、A先生の手から竹刀は消えていた。おそらく、教育の現場で大きな勢力を持ち始めた日教組との軋轢の中で、A先生は弾き出されてしまったのだろうと思う。

実は、A先生は担任になったことなどなく、話すらしたこともないのだが、一度だけ、朝礼のときに倒れた同級生がいて、その子を介抱したことがあった。A先生が駆け寄ってきてその子を抱き抱え、ボクの方を見て何故かニコッと笑いかけた。その顔が実に穏やかで、良い大人の威厳と親しみを感じた。

その時、あっ、この先生は良い先生だ! と確信した。

人は見かけではないということを、その時学んだ。

昭和の、ほんのちょっとした物語。

東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その60>グリーンハウス

2020-08-24 17:45:31 | 東京「昔むかしの」百物語
1960年代の後半、世界は「水瓶座の時代=アクエリアスエイジ」に対する期待に溢れた。

この「水瓶座の時代」というのは、西洋占星術を基礎とした「時代」の読み取り方とボクは理解しているのだが、もう少し詳しく書いてみたい。

毎年の春分の日に太陽の方角にある星座は、約2万5860 年の周期で一周すると言われる。なぜ12星座を経めぐるのかと言えば、地球は自転しているけれど、少し首を振っている。独楽は回転が弱くなると首振り運動を始めるが、地球も同じでその首振り運動=歳差運動に則して、太陽は12ある星座を経めぐる。

一つの星座の時代はおよそ2000年程度続き、これまでの知り得る限りの人類の歴史は、「牡牛座の時代」(B.C.4000~B.C.2000 )、「牡羊座の時代」(B.C.2000 年~紀元0年)、そして「魚座の時代」( 紀元0年~A.C.2000)と続き、2000年頃から春分の日に太陽のある星座は「水瓶座」になったと言われるのだ。

その説に従って、1960年代頃から「水瓶座」待望論が、西洋文明を担うアメリカやヨーロッパで澎湃として起こった。

なぜなら、自分達の精神が属する19~20世紀は西暦元年頃から始まった「魚座の時代」の末期で、「魚座」は支配を意味する時代であり、社会的ヒエラルキーや差別・分断という側面が、人々のコンセンサスとなっていて、その混乱の中で時代は戦争に明け暮れていた。その非人間的な時代相へのカウンターとして「水瓶座」は、一つはそうした権威や支配からの「解放」、「自由」「公平さ」「新生」といった精神の解放を意味する時代として待望されたのだ。

そして旧時代の象徴として「ベトナム戦争」があり、新時代の象徴として現れたのが精神の自由を標榜する、フラワー革命=ヒッピー的なるものだった。

アメリカでは、旧時代の象徴「ベトナム戦争」へのカウンターとして「平和」「自由」「平等」「反戦」を標榜するヒッピームーブメントが若者の精神の大きな潮流となった。音楽、演劇をはじめとする表現の世界でそれは顕著だった。映画ではハリウッド的な映画作りとは一線を画するニューシネマと呼ばれる表現が誕生する。ブロードウェイはオフブロードウェイ、オフオフブロードウェイが、音楽では西海岸を拠点としたロックが、ヒッピー的なる思想の代弁者となった。

さて、日本だ。日本ではそれほど若者に受け入れられることのなかったヒッピームーブメントだった。なぜなら、西洋占星術を背景にした「水瓶座の時代」などと言われても、まったくピンと来なかったし、日本も前線基地であったベトナム戦争に対する反戦意識は高まったものの、文化的なものへのヒッピー的アプローチなど、日本的尺度では理解しようもなかった。

ただ憧れはあった。それは長髪であったりベルボトムのジーンズであったり、単なるファッションとして昇華されていった。

そんな中、いかにも日本的なヒッピー理解として誕生したのが、新宿東口に誕生した「グリーンハウス」だった。今の新宿駅東口イベント広場(アルタの前)あたりにあった芝生の一角なのだが、そこに何するでもなく日がな一日過ごす一団がいた。それを、日本的ヒッピー=フウテンと言っていた。今の言葉でいえば、若いホームレスだったかもしれない。

実にただそれだけだった。政治的でもなく明確な目的意識もなく、ただただそこにいた。

これが世界を席巻した若者のムーブメント=ヒッピーの、日本的表象だった。もちろんユング的な深い理解をもってヒッピーだった人々もいただろう。だが結論から言えば、一つのヒッピー的表象だったグリーンハウスは、だからあっという間に官憲によって排除され、終わった。

昔むかしのお話しである。


東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その59>麻雀

2020-02-08 01:53:48 | 東京「昔むかしの」百物語
麻雀は、普通の遊びだったが、ささやかな賭け事でもあった。

法に触れることではあったが、暗黙の了解でお金をかけ、よほどのことがない限り警察沙汰になることもなかった。一度のゲームで、多くて数万円、少なければ煙草一箱があちらへこちら行き来する程度のもので、家族内で、友人同士で、また同僚と、サラリーマンや学生、主婦などあらゆる社会生活者の手が届く、はたまた少しは小遣い稼ぎになる遊びだった。

どこの町にも、必ず雀荘というものがあった。そこには「プロ」の雀士がいたりもしたが、普通は仲間同士4人で連れだって、少しの悪徳を感じながら少しだけお金をかけて、妙なテンションで遊んでいた。

何時の頃から、廃れたのだろう。もはやどこの町にも雀荘など見当たらない。昭和の頃は本当にどこにでも雀荘はあった。

ほとんどの週刊誌や雑誌には、麻雀のページというものがあり、有名な雀士、強いと言われた著名人、作家(麻雀専門の小説家も存在した)などがフィーチャーされて、毎号麻雀の試合を再録するなど大いに盛り上がっていた。

ボクも麻雀は好きだった。役者仲間と徹夜で麻雀に興じることもしばしばだった。強い奴は強かった。カモになる奴はいつも決まっていたが、たまにバカ勝ちすることもあり、止められなかった。勝った奴のおごりでそのまま飲みに行ったりもした。僕は強くもなく弱くもなく、統べれば±トントンといった成績だった。

1970年代に雑誌の記者だった頃は、ほぼ毎日会社帰りに麻雀をうっていた(麻雀は“うつ”というのだ)。時にはそこに名人と呼ばれるような作家や、編集部の上司なども参加したが、麻雀の時だけはイーブンで、皆真剣そのものだった。編集部が新宿の歌舞伎町のはずれにあった時代は、それこそ毎日4人の面子を揃える算段が仕事終わりの“仕事”だった。

賭け事と言えば賭け事なのだが、ゲームとしても破格に面白いものだった。最近ではどこの家庭でも麻雀などやりはしないのだろうが、我が家は正月などに家族で遊ぶ。

もちろん賭けたりはしない。純粋にゲームとして遊んでいる。遊べば遊ぶだけ、おもしろさが分かってくる。ただし賭けないと、役作りに走り負けることに抵抗がなくなる。それは麻雀というものの性質からして、どうなのかなとも思う。やはり、勝ち負けにこだわってこそという気もする。

だからといって今の世の中、賭け麻雀は厳に禁止。




東京「昔むかしの」百物語<閑話休題:小説>

2020-01-15 01:08:10 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの子どもの頃、小学校の図書館は宝の山のようだった。

キラキラとたくさんの宝石のように、たくさんの作者の作品が所狭しと並んでいた。

小学校の低学年の頃に、ボクが読んだ本はくそ生意気なようだが、明治、大正期の文豪の作品だった。夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、樋口一葉、尾崎紅葉……父親の口から出てくる作家の作品を、探しては読んでいた。

読んだのは良いのだが、作品名は記憶していても、内容はうろ覚えという作品が少なくない。いつかまた少し大人になったら読み直そうと思っていたのは確かだが、実行できたのは数えるほどの作品だけだ。

特に芥川龍之介の作品が好きだった。なにか胸の奥底にぞわぞわとする別の生き物が巣食った感じの読後感が好きだった。

少し大人になっても、昭和、それも戦後の作家作品にはとんと興味がわかなかった。結局、明治、大正、昭和初期の作家の作品が、ボクの枕元に並んだ。

青春期に最も読んだのは、昭和初期のいわゆる「新青年」の作家群だった。小栗虫太郎、夢野久作、海野十三、国枝史郎……あの作家たちの博識と博学に圧倒されながら自分の抱える世界とは全く異なる異世界に心を遊ばせていた。


昔は布団に入り、お気に入りの灰皿を用意して煙草をくゆらせながら、これまたお気に入りの小さな手元の灯りで本を読むのが、普通のことであって至上の快楽だった。一晩を明かしてしまうこともよくあった。煙草が一箱なくなっていたこともある。小説はそれほど面白く、夢中にさせてくれるものだったのだ。

戦後昭和の時代、多くの作家が優れた作品を残しているのだが、ボクが明治、大正、昭和初期の作家作品を愛でたようには、平成、令和の青年は昭和の作家作品を読んではいないだろう。

なにか、昭和の頃にボクも感じた(きっと多くの青年も感じていただろう)明治、大正期の作家への憧憬、畏敬というたぐいの思いは、今の青年にはないのだろうと思う。

断っておくが、それは決して悪いことでも間違ったことでもない。文学、小説というものに対するアプローチの仕方、あるいは文学、小説そのものの在りようそのものが、ボクの時代とは全く異なっているだけのことだ。

それはレコード盤をストックし大事に音楽を聴いたボクの青春時代の音楽の聴き方と、音源をダウンロードし、自分のスマホで無数の音楽を好きなように何度でも聞ける環境での音楽の聴き方とが、まるで異なるように、次々と現れては通り過ぎていく一過性のものになっている現代の文学へのアプローチは、違って当たり前なのだ。

そうは言っても、ボクには現代の小説作品を読めない。温める暇もなく次々と現れる作品を消化できるほど、胃は丈夫でないのだ。

だから結局、まるでループミュージックを聴くように、ボクはお気に入りの作品を何度でも繰り返し読むことになっている。

今ボクの手元にあるのは、「トールキンの小品集」だったりする。読むのはもう7度目くらいか。1970年代に海外SF小説に巡り合って、日本の作家から離れてしまったボクは、今では海外作品ばかり読んでいる。

なぜなら、日常を全く感じないで済むからね。

頭の中で色々なことがぐるぐるとめぐり、言葉がまとまらない。また次の機会に続きを書くことにする。今日はここで、お開きに。

1カ月のご無沙汰です。10月29日の話を少し

2019-11-20 12:38:22 | 東京「昔むかしの」百物語
10月29日、P-MODELの“兄さん”YOU1兄さんと久しぶりに飲みました。

生井ツアーと称して、カメラマンの生井秀樹氏宅に何人かで集まり、あーだのこーだの話をする集まりです。

生井氏は、P-MODELのセカンドアルバムのジャケットを撮影し、以降平沢進=P-MODELとなってからはずっとカバー写真などを撮り続けていますが、ボクがロッキンF時代にP-MODELと出会い、誌面に掲載するたびに写真は生井氏に依頼していました。

YOU1兄さん、生井氏、ボクはその時からの付き合いで、途中疎遠な時期もありましたが、晴れてこの何年かは、毎年生井ツアーで飲んでいるわけです。

その時の写真をアップしようと思っていたのですが、写真を撮ったスマホが水没し、データを失ってしまいました。

(データ復活! 画像アップ!)


なんと言うことでしょう!

今回は、P-MODEL初期メンバーであるキーボードのM田中が参加してくれました。およそ40年振りの再会でした。とはいえ、あまり違和感のないのがこのあたりの人間関係、ということでしょうか、あーだのこーだの、良い感じでしゃべりました。

YOU1兄さん、ボクの奥さん、生井さんの知人でWEBなどのデザインを手掛ける大西さん、生井さんに、M田中が参加、大いに盛り上がりました。

再び申し上げれば、11月半ばにスマホを水没させ、救い出すことができず、写真を載せられないのが、なんとも残念です(載ってるやん)。もしデータ復活ということにでもなれば、改めて写真を掲載します(しとるやん)。

あーあ、その他のデータも、もちろん失われております(これは、やむなし)。

ココ、さよなら

2019-10-20 21:48:07 | 東京「昔むかしの」百物語
FBでは、その日の内に報告させてもらいましたが、ボクの最愛の次女、16歳のミニチュアダックス ココ(本名はココア)が、猛威をふるった台風19号上陸真っ最中の12日深夜3時に、永眠しました。

在りし日のココです


彼女はこの三年の間、毎日自分の生命と向き合い生きて来ました。乳腺が腫れ腫瘍化したことから始まり、下腹部に巨大な腫瘍ができ、手術する事、三度。10 月に入り再び腫瘍が腫れ始めましたが、これまでの様子とことなり、比較的元気で食欲も旺盛、何か病院には行かないよと、アピールしているようでした。

そして、台風19号の迫るなか、12 日の3時頃、永眠しました。

家族で枕経をあげ送りました。

ボクは、このブログでもFB でもほとんど彼女には触れずに来ました。その理由はありますが、ここでは書きません。ただ、大事だったというだけです。

1歳の時に歩けなくなりましたが、自力で歩けるようになり、散歩は調子の良い時に限りと、本当の座敷犬でした。

実は、まだ部屋に彼女はいるようです。歩く音や水を飲む音が時々聞こえるような気がします。

16年、ありがとう。もう、さよならだね。本当に、ありがとう。

19号台風=ハギビス 要注意!

2019-10-11 13:28:03 | 東京「昔むかしの」百物語
19号台風=ハギビス、尋常ではない台風のようです。皆さんお気をつけください。

ボクの住む立川は、ほぼ高低さの無い土地(南の地域は別ですが)で、自転車を大いに乗りこなせる地域。だから土砂崩れの類いは無いので安心だが、近くに残堀川という水無川があり、おそらく今回の台風では、氾濫するだろう。

ベランダはどうした加減か南や東向きではないので、おそらくガラスは無事だろう。

停電はまず起こるものとして用意してある。手動式のライトやろうそくなど。

キャンプ用品が幾らかあるので、そこそこに対応はできる。

水は備蓄がある。

食べ物は、できることなら今日のうちに調理をしておこうと思う。冷たくなっても食べられるもの。たこ焼き、良いかも。

風呂には水をはっておく。断水.停電対策だ。

コンロはある。煮炊きはできそうだ。

たった1日のことなのに、疲れるほど考える。

とにもかくにも、ワクワクするような台風でないことは確かのようだ。

皆さん、心して対処されんことを!

38.5度

2019-09-23 12:25:47 | 東京「昔むかしの」百物語
先週の三連休は、40度近い熱で、臥せっておりましたが、今週は38.5度の三連休でした。

しかし! 土曜日は奥さんと上野で飲み歩き。昨日はG3(じーさんと読む)会合で、大久保で飲み倒し、今日は臨時の仕事で小石川。

熱などどこ吹く風、ですね。

40度を間近で経験していると、38.5度はなんと言うこともないわけです。

あまり皆さんにはお勧めしませんが……。

台風の余波でしょうか、風が強い。

先週の熱で体重が3kg減となり、62kgとなりました。

飛ばされぬよう、用心して外に出ることにします。


東京「昔むかしの」百物語<その58>高尾山

2019-09-10 01:22:06 | 東京「昔むかしの」百物語
小学校の高学年、中学・高校時代、よく高尾山に登った。

昭和40年前後からの10年間ほどだったか。当時は登山道などまったく整備などされていなかった。なんと言っても修験道の霊場という認識のされ方の方が強かったと記憶する。

真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺の寺域ということは、子どもの頃から理解していた。

登山道らしき道は一応あるにはあったが、険しい山肌に繁る灌木につかまりながら、人ひとり通るのがやっとといった急なのぼり道でひたすら頂上を目指した。大人なぞいなかった。仲の良い友達と、半ばトム・ソーヤ―やハックルベリー・フィンの冒険のような気分で登っていた。

標高は599mと意外に低いのだが、修験道の山らしくそこそこに険しくボクの少年の頃は充分に楽しめるワンダーランドだったのだ。

ボクの登山コース、下山コースはほぼ毎回決まっていた。

まずリフト(と言っても今のようにスキー場にあるような腰掛式ではなく、足元が動くタイプだったと記憶する。乗ったことがないので横目で見た印象しか残っていない)を右手に見ながら斜面を登る。

そしてほとんど山肌を縫うような、人ひとりがやっと歩けるような道を登るのだ。結構な時間を費やして、ようやく少し広い寺の参道らしき道に出る。そこは当然薬王院のそれとわかる敷地内。

ところがここがなかなかの道で、全長40㎝、直径2㎝はありそうな巨大ミミズが、行く手を阻むのだ。もそもそと蠢く巨大ミミズを避けながら登り続けると、やがてその辺の都会の公園ほどもない頂上にたどり着く。

そこで持参した水筒の水でのどを潤し、握り飯などをぱくつく。それだけで十分楽しかった。

帰りは必ず相模湖を目指して下山した。川のせせらぎを見ながら降りる道が好きだったからだ。

2018年の秋、奥さんと60年振りの高尾山登山。ただし途中のビアホールで一杯やろうという、いかにもな登山理由で、もちろん歩くことなどなく、のぼりはリフト,下りはロープウェイでの往復。

それでも子どもの頃の、わくわくどきどきを思い出した。

なにも整備などされない生のままの山歩きができたのは、それこそ昭和までだったかもしれない。平成に入る頃には「あれをしたらアブナイ」「安全でなければ無理」「子どもだけでそんな危険な⁉」という空気になったから。

いま思い出しても、なかなかの冒険だった気がする。


東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その57>ホテル・ニュ―ジャパン

2019-09-04 02:03:51 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和57年2月8日未明、午前3時30分頃、地下鉄赤坂駅の正面に建つホテル・ニュージャパンから出火、およそ9時間燃え続け死者33名を出した。
出火原因は、宿泊客の酔った上での寝たばこ。赤坂の一等地にある当時有数の国際ホテルでもあったことから、死者の内13人が台湾国籍の中国人であり、11人が日本人、8人が韓国人だった。アメリカ人とイギリス人各1名も犠牲になった。

窓枠にしがみつく人、熱さに耐えかね飛び降りる人、そんな光景をテレビカメラが捉えていた。そして茶の間に流された。

このホテル火災が後々まで記憶されることになった理由の一つは、社長兼オーナーの横井英樹の傲岸不遜な態度が連日テレビで報道されていたからに他ならない。経費削減を理由に消防当局からの防火、安全・災害対策への指導を無視し、防災設備の稼働不備なども見て見ぬふりをしていたことなどが、次々と報道された。

なんにしても大惨事だった。

ボクが印刷会社系の出版部に勤めていた昭和50年頃、当時在籍していた雑誌「週刊時代」に、一世を風靡した「月光仮面」の原作者であり、当時人気の高かったテレビアニメ「日本昔し話」のプロデューサー的な存在であった川内康範先生が編集長としてこられた。

当時編集部は飯田橋と九段下の間にあったが、川内先生は編集部に顔を出されることはほとんどなく、定宿にされていたホテル・ニュージャパンの2階が、第二編集室のようになっていた。よくお邪魔をした。というより、良く呼ばれていった。

川内先生は韓国ロビーイストであったが、そのロビー活動の舞台となったのはホテル・ニュージャパンだった。

だから、ホテル・ニュージャパンのことはよく覚えていたのだ。入り口から入るとロビーが広がり、奥に各階に向かうエレベーターが何基かあった。

記憶では廊下は狭く、ホテルの構えとしては部屋が密集しているような印象を受けた。ホテルというよりは、アパートメントの部屋の入口を彷彿とさせるような各部屋の配置だった。

だから、ニュージャパン火災で多くの死者が出たという報を聞いた時、「あぁ、確かにな」と頷いた。

大きな被害を出したホテル火災は、ニュー・ジャパン火災以降起きていないと記憶する。

これほど記憶に残る現場に一時ではあるけれど、日常的に出入りしていたことが、なにか不思議な感じだ。

 以前に母の思い出の一つとして「2・26事件」に触れたことがあったが、このホテル・ニュージャパンは「2・26事件」に連座した将校が足を向けた料亭「幸楽」の跡地と、最近知った。そして元々のオーナーは鳩山一族と知って、色々な意味でなお驚いた。

ホテル・ニュージャパンは跡形もない。だが火災後10年以上は、まるで負の記念碑のように放置されていたのではなかったか。

だが、ボクの記憶の中では明瞭に輪郭をとどめている。

なぜ今頃こんな話を? と思われる方も多いでしょうが、過日の京都アニメーションの放火殺人の事件で亡くなられた方の数を報道で知り、かつて同じ数の方が亡くなられた火災があったような記憶をたどり、ここにたどり着きました。京都アニメーションの火災では、後にもうお一方亡くなられています。
合わせて、皆さんのご冥福をお祈り致します。

東京「昭和な」百物語<その56>喫茶店文化

2019-07-31 15:55:48 | 東京「昔むかしの」百物語
荻窪の喫茶店・邪宗門。

狭くて急な階段を上り切ったところに、崩れそうな2階席。細長いスぺースに一人か二人が座ればそれでおしまいという感じのテーブル席が3、4席。1階はカウンター席だったような記憶があるが、本当のところは覚えていない。なにせ僕がよく行ったのは。もう50年前のことだから。

だが、いまでもしっかりと覚えている。当時の青少年にとっては、店の名前に相当のインパクトがあったのだ。

荻窪の北口を右手に進んだ横丁の一角にあった。もちろん北原白秋の名著・詩集「邪宗門」から取ったのだろう(よもや高橋和巳の「邪宗門」ではあるまいが……)。

今どきはそれがどうしたといったところだろうが、昭和の時代には店を訪れる客の多くは、ある種の知的優越感とでもいうものを懐にして通ったはずだ。文庫本の白秋詩集を携えていても、馬鹿にされることなどはなかったはずだ。

調べ直してみて驚いた。あのいつ潰れてもおかしくないような喫茶店が、今では全国に6店舗も構えているのだそうだ。そしてなおさら驚いたのが、荻窪発祥ではなく国立にあったお店の分店だったということ。知らなかった。

それにしてもいつの間に全国展開していたのだろう。遠くは富山に下田、小田原、石打高原、そして世田谷に「邪宗門」はあるのだそうだ。

「邪宗門」のような雰囲気をもった喫茶店は、今から30年ほど前に(つまり昭和の内に)絶滅したと思っていた。ようは喫茶店文化が一気に廃れたと思っていた。

「邪宗門」に対して抱くイメージに近い店は、ボクの知る限りでも他にも何店かあった。

この物語でもいくつか紹介した記憶があるが、中野にあった「クラシック」(何年か前に潰れてしまったそうな)、同じ荻窪の「ミニヨン」、神保町の「さぼうる」、新橋(銀座?)の「ランブル」なんてところはよく出向いた。みんなまだ健在だ。新宿の中央通りにあった「凮月堂」、「ウィーン」。「ぼろん亭」(ここでボクはアルバイトをさせてもらっていた。ママは円谷プロに縁のある方だった)。こちらはもうない。

いずれにせよ、それぞれに喫茶店文化を創り上げているお店だった。

喫茶店がそこに集う人々を選び(店の雰囲気がフィルターになっていたという意味)、集う人々が店のイメージを上積みするようにまた作り上げていく。そういう連鎖が起きた店が良い店だった。

要は人の息吹があることが大事だった。ママや手伝いのお姉さんに惚れて通ってみたり、客同士が趣味や趣向でつながってみたりしたのだ。ボクはアルバイトをしていた「ボロン亭」で、客として来ていた雑誌メディアの関係者にスカウトされて、出版業界に携わるようになり、物を書く仕事を今日まで続けている。

そのアナログ的雰囲気こそが昭和だった。

喫茶店経営が儲かる業態であると、巷の週刊誌や経済誌がほめそやし始め、豆の産地がどうした、コーヒーの落とし方がどうした、やれうちの店は水から落とすぞなどと、喫茶店経営にまったく別のアプローチが始まり、喫茶店文化は消えたとボクは思っている。

経営、儲けといったドラスティックな側面が前面に出てきたわけだ。それが平成という時代の始まりだった。

東京「昭和な」百物語<その55>ファッション、劇的な変化

2019-07-01 23:53:31 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和という時代に、少しは大人びた時を過ごした人ならば覚えていると思いますが、ファッションは決まっていましたよね?

サラリーマンのファッション、OL(ビジネスガールなんていわれた時期もありましたが、それは売春婦のことだとわかり、オフィスレディという言い方が主流になりました)のファッション、学者のスタイル、銀座のママのファッション、要は、一目で何をしている人か分かったのが昭和のファッション。

昭和50年頃までは、それこそその人の風体を見れば、なにを生業としているか一目でわかりました。

最近よく出てくる「反社会的な」皆さんも、見るからに「反社会的な」格好をしていました。

学生は学生服と相場は決まっていて、少し洒落てブレザー、とはいきませんでした。

女性はパンツスタイルすらあまり見かけず、ほぼ全員がふくらはぎくらいの長さのスカートでした。女子学生はことにそうでした。

サラリーマンは「ドブネズミ色」のスーツ、と相場は決まっていました。

昭和40年頃から変化の兆しが表れますが、それが表立った大きな社会的流れになるのに10年はかかりました。

ファッションに多様性が生まれたのは、時折触れる団塊の世代がそこそこに自己主張を始めたことがきっかけでした。

海外からの、カウンターカルチャーと言われるような、新しい思考法に基づいた発想から生まれるファッションを、いち早く受け入れたのは、もちろん団塊の世代でした。

それ以前は前世代の批判的なまなざしや直截な言葉で、ややもすれば自分の意見を封じ込める傾向がありましたが、団塊の世代は、自己主張を止めませんでした。

もちろん、体制というよりは前世代の意向をそのまま保守的に踏襲するグループもいましたが、彼らですら政治的な側面を抜き去った形としてのファッションには、そこそこに迎合していました。

男性ファッションにとっての変異点は、ビートルズ、女性ファッションの変異点は、ツイッギーだと、ボクは思っています。

いずれも1960年代中後半に日本の若者に多大な影響を与えました。その影響が満遍なく時代を覆いつくしたのが、昭和50年前後ということです。

誰も驚かなくなったし、批判すらされなくなりましたから。

それにしても、確かにファッションの劇的な変化が昭和という時代にありましたが、それ以降の凄まじい変化、なんでもありの今のような時代が来るとは、まったく想像の埒外でした。

だって、男どもの髪は長くても黒かったし、女性陣にもまるで下着としか思えないストリートガールのようなファッションはなかったものなぁ……。


東京「昭和な」百物語<その53>留置場

2019-06-19 02:52:06 | 東京「昔むかしの」百物語
暴力行為の現行犯とやらで、逮捕・拘留された。1978年だか79年だかのことだから、昭和53か54年の、まだロッキンFの編集者だった頃のこと。

荻窪の駅前でサラリーマン風の男が、年寄に馬乗りになり殴りかかっている場面に遭遇した。なぜそういうシチュエーションになったのか分からぬまま、とにかくサラリーマン風の男の「殴る」という行為を止めさせようと、彼の腕を押さえつけた。

ボクのその行為が気に入らなかったのか、今度はボクに突っかかってきた。で、止むを得ず相手をしようかと身構えた矢先に、近くの駅前交番から巡査が2名やってきて、ボクとそのサラリーマンは交番に連れて行かれた。

ボクはそのサラリーマンの腕を抑えただけで、むしろ突っかかってこられた時に喉のあたりをつかまれ、痛みすら覚えていた。

ところが、サラリーマンには二人の連れがあった。その二人と3人で、まるでボクが連中に先に手を出したかのようなことを言い出した。

それはないだろうと、殴られていた爺さんを探したが、どこかにトンズラしてしまったようで姿はない。結局、ボクが悪者にされた。

そのサラリーマンと仲間は、ボクを告訴した。どんなつもりだったのか?

そこで、耳を疑う発言を巡査がした。

「こういう場合、見て見ぬふりをした方が良いんですよ」

そう言った巡査の後ろの壁に、「許すな暴力! 云々」と書かれた啓発ポスターが貼ってあったのを、今でも忘れない。

結局ボクは荻窪警察署の留置場に2泊3日する羽目になった。その間ボクは何番だったか忘れたが「○○番」という、聞きなれない呼ばれ方をされることになった。

爺さんを殴っていたサラリーマンも2泊3日したようだが、ボクとしてはどうにも釈然としない。納得もできない。で、取り調べには応じたが、ボクが暴力をふるったということに関しては頑なに否定した。留置場で出る食事にも、一切手を付けなかった。房の中ではずっと座禅を組んでいた。

荻窪警察署の取調官は、オリジナルの調書をサクサクと作成し、ボクに認めろと迫るがボクは認めなかった。

すると「何時までも帰れないぞ」と、テレビドラマにでも出てきそうなセリフを吐く。

ボクはそこそこに長髪だった。そして黒いジャンパーを着ていた。それは革ジャンなどではなく、レコード会社が宣材で作った黒い薄手の生地で背中にアーティスト名が白抜き文字で書かれた、一見して宣材とわかる代物だったが、警官はあくまで「革ジャン」でなければならないと言うのだ。

調書にはボクの風体が書かれていたのだが「革ジャンを着た活動家風の男」としてあった。

もうその一点で調書そのものを否定した。はじめの頃はボクをどうにかして拘留しておこうという警察の意志がありありとしていた。だが、話をしていくうちに、風向きが変わった。どうやら、もう一人の逮捕者・サラリーマン風の男の言い分が、二転三転したらしい。早く帰りたい一心で、ボクへの敵意もなにもどうでもよくなったのだろう。ボクの言い分の方が間違いないという流れになったようだ。それに加えて、ロック雑誌の編集者というボクの素性も納得し始めた。

取調官は、終いには「お願いだから認めてくれ」と言う。一度作った調書は、変えられないということらしかった。

ふざけるなとは思ったが、結局、腰縄に手錠を掛けられ護送車で地検に送られ、不本意だが「罪状」を認め、ボクは「晴れて」釈放された。

父親が荻窪警察まで迎えに来てくれたが、ボクを担当した取調官に「意志の強い青年」と評価されたことを告げられた。2泊3日も人の時間を奪って、なにを今さらと思った。

そしてボクを告訴したサラリーマン三人組は、当寺羽振りの良かったスーパー「ダ●エー」の社員だと教えられた。なぜそんなことを教えてくれたのか? 本来言うべきでもない、どうでも良い話ではないか。

おかげでボクには「歴」が一つ着いた。だがそれも、それほど嫌なものでもなかった。

昭和という時代は、アウトサイダーがかっこ良さげに見えた時代で、放っておいてもさしたる妨げにもならない、そんな価値観が普通にあったのだった。












東京「昭和な」百物語<その54>長髪文化

2019-06-14 09:55:45 | 東京「昔むかしの」百物語
髪は長かった。


1975年頃のボク

もちろんビートルズやストーンズなど、欧米のミュージシャン達の影響はあったが、それよりも「なぜ長髪にするのか?」と言う理由が肝心だった。

今考えれば、本当に面倒な意識構造を持っていた。だがそれは自分自身のアイデンティティを発見することと同義であり、その作業を抜きにした自分はあり得なかった。

ボクにとって昭和とは、そんな時代だった。

ただ、その理由はそう大したものではなかった。

曰く「自分の納得できない枠組みを形作る社会への、反抗」
「社会的枠組みの中での、自己主張」「ヒッピー的ナチュラリズム」……。

なにより「もてるかもしれない」と言う幻想。中には、「床屋に行かずに済む」と言う切実な理由もあった。金がなかったのだよ。

だが、そうした訳のわからない理由であるにせよ、ものを考えるというきっかけの一つではあった。

よく学生運動と長髪を結びつけることもあったが、それは、床屋に行かないというだけの結果で、体制への反抗、的な意識とは一線を画していたように、ボクは思う。

髪の長い奴は「左翼」、短い奴は「右翼」的な短絡的判断も、横行していた。

ボクは髪が長かった。時にはインディアンの如く三つ編みにしてあるいたりもした。それは端から見れば、バカ野郎のファッションと思われただけだ。

昭和の日々の中では、長髪というカテゴリーが誕生し、その後の若者文化の中で、ヘアファッションの一つのチョイスとして定着した。

長髪の誕生そのものは、結構ハードな哲学的背景もあったが、それは昭和という時代での話。

ただ、ボクには今でも長髪に対する抵抗感は、皆無だ。