普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昭和な」百物語<その52>近衛別邸・荻外荘、太田黒庭園

2019-05-21 19:35:06 | 東京「昔むかしの」百物語
近衛文麿と言えば、太平洋戦争前の昭和10年代に都合3度も組閣した首班。名前の通り天皇家に連なる貴族の出であった。

首班としての評価は、腰抜け呼ばわりで散々だが、戦前の軍部主導の政治環境下では、よくやった方だと評価する向きもある。

危うく太平洋戦争の開戦内閣の首班になるところだったが、その負の評価は東条英機が負うことになった。

その近衛の別荘・荻外荘が、荻窪にあった。近衛はここで日独伊三国同盟の策を練ったりもしている。また戦後にA級戦犯の汚名を着せられ終戦の年の12月には、この別荘で服毒自殺を遂げた。

ボクの住んでいた荻窪団地はこの荻外荘から5分程の所で、家からはうっそうとした荻外荘の森を抜ける坂道があり、良く通った。

ボクは20歳には家を出たが、あの道は今でも周囲の空気感を思い出すほど懐かしい。しかしそれから10年ほど経った頃には、荻外荘の樹齢を経た木々は切り倒され、素気もない駐車場に変貌していた。なにか心をがさついた風が吹き抜けたのを覚えている。

そこから歩いて5分もしないところに、日本で最初の音楽評論家と言われた太田黒元雄子爵(だったと思う)の別邸もあった。直角に折れ曲がる道の角に、どこだか忘れたが有名企業の社員寮があり、その尞と境を接して太田黒の別邸はあった。

ボクの知る限り昭和45年頃には、屋敷の庭に入ることができたと思う。ボクは庭の佇まいが好きで、良く遊びに行った。

公園になったのが何時か知らないが、ボクが通っていた頃は、ただの一人も訪れる人の姿を見ることなどなかった。

勾配の途中には東屋があり、中をのぞくとアップライトのピアノが置かれていた記憶がある。

昭和時代の荻窪には、妙な空気が漂っていた。なにか文教的で、上流階級然とした空気。

それを打ち壊したのは、多分ボクが住んでいた荻窪団地の住人などの新参住民だったのだろう。

平成の頃には、高齢社会を髣髴させる年老いた上品な方々の姿が目立つ街になっていた。

それでも子どもから青年時代を過ごした荻窪は、ボクの故郷ではある。

ただ、生まれ故郷の松江同様、荻窪にももはやボクの家族の残滓もない。

東京「昭和な」百物語<その51>歌舞伎町

2019-02-25 08:58:49 | 東京「昔むかしの」百物語
やくざが仕切っている一角。

そういう認識が、一般的なのは今も変わらない。

ただ、仕切っているやくざの質が違う。昭和の頃は、日本のやくざ、それが中華系に変貌し、いつの間にやら、韓国系にとって変わられた。

国際化しているのだ。

昭和のやくざには、まだ任侠という言葉がついて回ったが、どんどんとドラスティックになり、昭和の情緒的な雰囲気は完全に駆逐された。

地回り中のチンピラに、酔った勢いでちょっかいを出し、歌舞伎町中を走り回って逃げたことがある。逃げ切ったが、酔いは回った。

さすがに怒らせるとまずかった。

だが、それでもまだ、やくざと一般人との間には暗黙の了解があり、手を出されることは、少なかった。

いまのような、本当にヤバイという雰囲気はなかった。

多くの飲み屋が、潰れもせずに生き永らえていた。

この、生き永らえていた感こそ、昭和なのではあるまいか。

最近の歌舞伎町に足を踏み入れた時、そんな気がした。

どんどんと、新陳代謝が進み、暫く無沙汰すればもう違う町感が漂う。

ボクにとっては、昭和的な歌舞伎町が、恋しくはある。

それはまさに、日本のやくざの仕切りだったからこその雰囲気だったのかもしれない。

東京「昭和な」百物語<その50>東京都美術館

2019-02-11 23:16:01 | 東京「昔むかしの」百物語
モノの弾みということが、昭和にはあった。

自分の思いとは全く別の、選択肢というのではなく、突然思いもしなかった道が目の前に立ち現れる感じが、言葉としては一番近いかもしれない。

あれは昭和50年頃だった記憶がある。

東京都美術館という、非常に長い歴史を持った日本で最初の公立美術館だった東京府美術館が、昭和18年に東京が都制へとシフトし府から都に変わり、昭和43年には新館建設の準備委員会が立ち上がり、昭和50年に新しい美術館として3つの機能を掲げ生まれ変わった。
三つの機能とは、

(1)美術館が主体性をもって企画展を進め、現代美術の秀作を収集し、常設展示を充実させる「常設・企画機能」
(2)公募団体の要請に応えられる規模と設備を整え、作家の技量を発揮できる場とする「新作発表機能」
(3)都民の文化活動を促進するために、美術研究、創作活動、美術普及の場を提供する「文化活動機能」

この三つだった。

おそらくこの3番目に関してなにかできそうだと思ってくれたのだろう、当時のボクの創作活動を知る知人が一緒に講堂の杮落しのイベントをやらないかと声を掛けてくれた。

それが誰だったのか、ハッキリとは覚えていないが、ボクは舞台監督的な立ち位置で協力したと思う。主体は武蔵野美術大学の卒業生だったかもしれない。

天下の東京都美術館のイベントを、どこの馬の骨ともわからない一介の自称クリエイターレベルの人間に任せるというのは、尋常ではない。

その当時、落語家からパントマイマーに転身した「好ちゃん(その後、残念ながら30代の若さでガンでこの世を去った)」をステージに引っ張り出し、舞台転換を自力でやりながらイーゼルに置かれたキャンバスの絵を、次々に複数枚、複数人で完成させていくというようなイベントもやった。

こんなことは、今の時代には絶対ありえないことなのだと思う。

イベントそのものの観客動員は芳しくなかったが、その経験は大きな影響をボクに与えた。

そこに座すべき位置を据え、その後に繋げていれば、僕の人生も変わったものになっていたことだろう。ボクはそうしなかった。

こんなことは昭和には当たり前に起きていた。自分の身をどこに置き、連れていくかによっては、思いもしない世界への扉が開かれた。

そういう意味では、なにか社会という規範にがんじがらめにされ、社会の成り立ちも合理性やらデジタル的な計算と、外れることの許されないマニュアルでできているような平成以降の世の中では、絶対に起きそうもない人間の可能性が感じられる時代だったことは確かだ。



東京「昭和な」百物語<その48>映画館

2018-12-29 15:50:21 | 東京「昔むかしの」百物語
60年も前の話。時まさに昭和の昭和たる奇跡のような時期。
映画はボクらのこの上ない娯楽だった。
テレビもまだまだ普及しておらず、雑誌の類いは男の子には「少年」「冒険王」「少年画報」、女の子には「少女」「りぼん」といった程度しかなく、少年マガジン、サンデー、キング、ましてやジャンプなどといった週刊誌など、まだ影も形もなかった。
少し年行きになると、貸本屋に足を運んだ。もっと子供の頃は紙芝居だった。
そんな中、映画は別格の娯楽だった。待ち時間の間、おじさんやお姉さんが首から飲み物やお菓子を積めた平箱を下げて、「え~、おせんにキャラメルはいかが?」と通路を練り歩く。客席に陣取ったオヤジたちは煙草を咥えながら「おい、姉ちゃんこっちだこっち」と呼ばわる。終いにはこっちが先だ、いやこっちと争いまで起きる始末。

でかすぎる予鈴が鳴っていよいよ映画の始まりだが、煙草の煙が絶えることはなく、煙幕でもかかったような館内だ。

子供心に東宝のSF物は心踊った。

「ゴジラ」「ラドン」「モスラ」などの怪獣もの、「地球防衛軍」「妖星ゴラス」なんてのも、お気に入りだった。

東映のチャンバラ物はもちろん、松竹の文芸物も、日活の活劇、中途半端な大映作品も観に行った。さすがに新東宝は、子供には刺激が強かった。

ただ、当時の日本人は、映画を観て拍手をしたり騒いだりすることはなかった。皆静かに「鑑賞」していた。

映画を観る一時を、大事な時間だと、皆思っていたに違いない。

東京「昭和な」百物語<その49>荻窪・大塚家具

2018-12-19 13:25:01 | 東京「昔むかしの」百物語
荻窪には10歳から、およそ30歳まで、少しの出入りはあったが住んでいた。

家族と住んでいた荻窪団地を出て、彼女と阿佐ヶ谷に住んだ。20歳の時だ。

阿佐ヶ谷駅から歩いて10分ほどのオンボロアパートだった。4畳半と6畳二間の、風呂なし共同トイレの、恐ろしく昭和な2階建てアパートの2階に住んだ。

ここでは嫌な霊体験をするが、詳しくは書かない。この時期が最も肌の粟立つ体験をした時期だ。21歳。

それから新宿の富久町に転居し、彼女の実家が荻窪に建てたマンションの2階に住んだ。

やがて彼女と別れ、荻窪の北側、天沼という地域に住んだ。この時で23歳。

ここでは、2階から洗濯の水が溢れ、ボクの部屋に降り注ぐという一大イベントがあり、大家の好意で、近くのアパートに移った。ここは裏が幼稚園で、朝は早くから叩き起こされた。

この頃が24~5歳。

そうこうするうち新しい彼女もでき、また別れといった経験を経て、川南という地域に住んだ。ここも荻窪だ。ここには27歳くらいまで住んだか。

そして荻窪駅から徒歩3分のマンションに居を移した。

どこも荻窪の近辺で、まるで家族の住む荻窪団地の周囲をめぐっているだけといった感もあった。実際どこのアパートにも風呂はなく(新宿の一軒家、彼女のマンション、徒歩3分のマンションには立派な風呂があったが)実家の風呂にお世話になった。それ以外は銭湯だった。まさに昭和フォークの名曲、かぐや姫の「神田川」の世界だった。

そんな頃、数年前にお家騒動でメディアを賑わした大塚家具が荻窪にできた。その大塚家具が入っていたビルの最上階には、今でもあまり見かけない室内プールがあった。マンションの上層階にプールがあったのだ。

いま考えれば、スポーツジム的なものの一環なのかなとも思うが、そうではなく、単体でプ―ルを営業していたような気がする。それでも、なかなかハイソな印象を、荻窪という町に与えていた。

ここには、良く泳ぎに行った。なんとなく、良い感じがしたのだ。そんなこともあって、2階のワンフロアを占有していた大塚家具もよくのぞいた。

なにかハイソなイメージで、行く度に場違いな印象を持ったものだが、家具自体は一見して質も良く、確かベッドを買った記憶がある。

思うに荻窪という町は、落ち着きと涼しげな印象を与えてくれた。涼しげというのは、空気感の話だ。

正直、今でも荻窪に住みたいと思う。ただ大塚家具ではないが、町にも栄枯盛衰はある。荻窪はずいぶん前から年よりの町になっている。

そういう意味ではボクには丁度いいのだ。

ただ懐かしいさまざまのものは、すでにない。もちろん大塚家具も、ない。


東京「昭和な」百物語<その47>思い出す、古茶

2018-11-20 00:49:17 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクは新宿で飲むのが好きだった、澁谷でも池袋でもなく、新宿。もちろん六本木でもない。

1970年前後の話。昭和45年前後のことだ。

なぜなら、新宿にこそ当時の生命力のほぼすべてが集約されていたからだ。

学生運動の負のパワーも、成り上がろうとする若者のパワーも、すべてが新宿で混沌としていたのだ。

ボクのフェイバリット・プレイスは、何と言っても新宿のゴールデン街だった。

このエリアには、まっとうな人間なんぞいなかった。本人は自分は十分にまっとうだと思っているのだが、ほとんどがそうではなかった。統合性失調気味の奴、学習障害の奴……要は自分を理解し切れずにいる子供じみたやつがうじゃうじゃしていた。斯くいうボクもその一人だったろう。

その当時ボクはすでに結婚していた(後に戸籍はきれいなままだったということが判明したが、その理由をボクはいまだに理解していない)。20歳で同じ高校の一年後輩の女性と結婚した。

同じ演劇部だった。

実は、高校で彼女を知ったわけではない。小学校時代には、同じ人形劇部に所属し、その当時から彼女に好意を持ったいた。

中学時代も、ことさらに部活動としてはなかったが同じように演劇を志し、同じように活動をしていた。

そして、演劇コンクールのトップを獲った高校に進学したが、彼女もまた同じ高校にやってきた。

自分の書いた戯曲で東京都の高校演劇コンクールで2位を獲得したが、全国大会には出られなかった。その「現代の戦い」という、シュールな印象を与える戯曲は彼女のために書いたものだった。

そして、彼女と新宿・厚生年金会館裏、富久町の一軒家でしばらく暮らした。そこには室田という役者が同居していた。後に伊武雅刀と改名して、活躍した(と言うより、今も活躍している)。

なぜそこに住んだのかと言えば、ゴールデン街に近いからだった。

ゴールデン街からは外れるが、古茶という飲み屋があった。おばちゃんが一人で経営していた。造りからして青線時代の名残りをそのまま引きずる店だった。一階はカウンターだけで、急な階段を上がった二階は4畳半くらいのスペースで、そこで演劇仲間がひしめき合って酒を飲んだ。飲み過ぎて、二階からおばちゃんに嘔吐を浴びせたこともあった。

それでもおばちゃんは許してくれた。

古茶はおばちゃんの後、役者の外波山文明が引き継いだようだ。その頃のボクは、雑誌の編集者として活動していて、ほとんど足を向けることがなかった。

だが古茶はボクの精神の原点と言ってもよかった。なぜなら、良し悪しは別にして、新宿というサブカルチャーの坩堝の、さらにディープな部分を教えてくれたから。

平成が終わる。

ボクの若い頃には、良く「明治は遠くなりにけり」という言葉を聞いた。

いま「昭和は遠くなりにけり」と言っておこう。だが、この言葉は明治もそうだが昭和もまた、良き時代だったという意味合いを持った言葉なのだ。遠くなることを懐かしいんでいるわけではない。

生きるという意味では、本当に適当な時代だった。ものを考えるのに最適な、得るものも失うものも大枚な、本当に人が生きていて生きやすい、時代だったのだ。

東京「昭和な」百物語<その46>広告の形

2018-09-29 01:32:13 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和30年代。正確な年代は覚えていないが、ボクが上板橋に住んでいた頃だから昭和33年前後のことだと思う。

良く青空をバックに結構な低空飛行で複葉機やセスナ機が飛んだ。それらの飛行機は、ビラをまき散らして飛んだ。

今で言えば、B6サイズくらいの色付きのざら紙に、デパートや大きな商店の宣伝が印刷されていた。映画の宣伝もあったかな、印刷された内容の記憶ははっきりしない。ひょっとすると、選挙の広報などもあったかもしれない。

そう、それは新聞などを購読できない、戦後の貧しい日本国民に対するとても手っ取り早い広告だった。

空から舞い落ちるビラは、それを見つけた子どもたちの好奇心を大いにくすぐり、誰もが追いつくわけもないのに機影を走って追った。だが、滅多にビラを手にできることはなかった。

空を飛ぶ飛行機は、低空飛行とは言え案外遠くを飛んでいたのだ。

この広告方法は、戦中の伝単の影響だったろう。伝単とは制空権を握った敵国の航空機が戦況の真実(とは限らず、デマも含めて)を知らせる目的で、上空から無差別的にビラをまいたことを意味した。

戦後、その方法論は平和な民間の利用へとシフトしたわけだ。

だが、このビラ撒きは30年代の後半には廃れた。ビラはゴミになり、低空飛行は事故に結びつくという認識が主流になったのだろう。建築物の高層化もその理由のひとつだったに違いない。

派手な割には費用対効果が低かったということもあったろう。

ネツト曳行というものもあった。宣伝文句を書き付けたネット状の横断幕をひらひらとさせながら飛んだ。こちらもビラ撒きと同じ時期に姿を消した。

同じ頃、デパートなどの屋上から大きなバルーンが揚げられていた。そのバルーンと屋上などをつなぐ綱の部分には、デパートの催事などを大書した幕が貼られていた。アドバルーンと呼ばれていた。飛行機によるネット曳航を固定したようなもので、おそらくネット曳航より費用対効果ははるかに高かったろう。

まだ見通しの良かった昭和40年代までは、多くのデパートの屋上から空に向かって揚がっていたと思う。

広告の歴史の中でアドバルーンは、おそらく効果的なものの一つと考えられていたのではないだろうか。ただ、どんどんと高層化していく町ではその存在意義は薄れる一方でもあったろう。

昭和47年頃、知り合いから思いもよらないアルバイトを勧められた。彼が主導してやり始めたまったく画期的な媒体による宣伝広告の作成だった。

それは巨大な飛行船のボディに広告を描く仕事。描くと言ってもおそらくシール様のものを貼り付ける作業だったのだろう。彼はそれで一時財を成したと記憶している。飛行船による宣伝広告の草分け的な存在だったのだろう。

ただ、ボクはやらなかった。芝居で忙しかった。

それにしても!

よく考えてみれば、飛行船での宣伝は、アドバルーンと飛行機のビラ撒きを合わせたようなものではないか。なにか時代のつながりを感じさせるものではあった。

戦後の昭和という時代は良くも悪くも、まだ戦争を引き摺ったまま新しいものに飛びつく、そんな時代だった。


東京「昭和な」百物語<その45>飲み屋・ツケ

2018-09-26 23:49:48 | 東京「昔むかしの」百物語
いまは、飲み屋さんのほとんどは、チェーン店である。

もちろん個人経営の飲み屋さんもあるのだが、昭和の飲み屋さんはほとんどが個人経営だった。

マニュアル化された営業形態の店など、知り得る限り「養老の滝」くらいだった。

チェーン店の特徴は、マニュアルに従ってとても分かりやすい会計システムであること、ほとんどが廉価であること、その代わり店と客との距離は決して近くはないこと。

昭和の飲み屋は、決して安くはなかったが人と人との距離は近かった。酒を飲むと言うよりは、誰かと会いに、話しに出向いたという言い方が正しい。

ボクにも新宿、荻窪、阿佐ヶ谷近辺に行きつけの店が何軒かあった。

そして今では信じられないことだろうが、ツケが利いた。

ツケという言葉自体いまの若い人はわからないのではないかと思うのだが、店で飲んだその日の料金は支払わず、後日まとめて支払う形を「ツケ」といった。つまり、よく行く店、店側としては、よく来る客にしかツケはできない、させないということ。

ツケというのは、帳面に「書き付けておいて」という意味(歌舞伎が語源という話もあるが、考えすぎにも思える)で、その日に手元が不如意でも、とりあえず店への支払いをせずに、店が書きつけておいた金額の総額を、月末の給料日辺りにまとめて払うのだ。

それは、お互い相手を信頼することで成り立つ支払いのシステムということでもあろうか。

店は客が支払いすることを信頼し、客も店による支払金額の水増しなどがないことを信じて、支払うわけだ。

飲み屋は人を見てツケを許し、客は店に通うことを約束する。

ただ形だけを見れば、いまのクレジット払いと同じようなものかもしれない。だが、ツケにはすでに書いたように、人と人の間を取り持つ情け、思い、信頼のようなものが存在していた。

それこそ、昭和までのアナログ人間の特性だったと言っていいかもしれない。

平成(今となっては、平成も過去となる最後の時を過ごしているのだが)という、人間関係すらデジタル化した時代には、まったくそぐわない習俗だったというべきか。

ツケを通じた人と人の関りは濃密であり、悪くすれば犯罪を助長する側面もあった。

それでも、ボクなどは今でもツケが利く店はないものかと探しているくらい、心が動く言葉なのだ、ツケという言葉は。




東京「昭和な」百物語<その44>公団住宅

2018-07-07 01:27:27 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクが小学校3年生の冬、それまで暮らしていた上板橋から荻窪へと移り住んだ。

荻窪の公団住宅に引っ越したのだ。

昭和33年の冬だったと記憶している。朝、それまで暮らしていた上板橋のハモニカ長屋を出て、越境入学をして通っていた文京区の窪町小学校へ出向き、同級生に別れを告げ、帰りは荻窪へと向かった。

昭和30年代にできた公団住宅は、間取りはほぼどこも同じようなもので、6畳と4畳半の畳の部屋に4畳半程度のキッチン、それにサービスルームのような3畳くらいの部屋がある3k、あるいは3畳のない2k、そんな間取りだった。もちろん狭い。

それでも親子4人であれば、充分に生活できた。

しかも、公団住宅はある種の文化圏を作るほどにインテリ、ホワイトカラーが集まった。言ってみれば時代の最先端を行く住環境エリアだったのだ。

各家庭に電話が入った。簡単にいえば内線電話だ。当初は電話の交換手が常駐していた。荻窪公団住宅の電話番号は一つで、そこから各部屋に割り振られた部屋番の電話につなぐシステム。

これも瞬く間に個別の電話にとって代わられた。当初はダイヤルもない黒電話だったが、数年で個人所有のダイヤル式黒電話になった。

荻窪団地は荻窪駅から歩けば15分はかかる距離にあった。800世帯3000人近い居住エリアからの要請を受け、地域のバス運行会社・関東バスは新路線を作らざるを得なかった。当初はしぶしぶだったが、やがて地域で唯一の黒字路線は荻窪駅~荻窪団地路線だけになった。

いまから考えれば、狭いは不便だはで「ありえない!」ということになるのだろうが、そこはステイタスすら生むほどの住環境だった。

もっと言えば、次に持ち家を手に入れるための勢いのあるステップ台として、公団住宅に住んでいた人が多かった。

公団住宅の近隣にはスーパーのような店舗や、魚屋、八百屋、肉屋、クリーニング店、蕎麦屋、ラーメン屋、床屋に病院と、そこそこにそのエリアの中で過不足なく生活できる環境も整っていった。

だが、公団住宅はやがて、ステップ台として住まっていた人々が思惑通りに持ち家を手にし離れていくと、ある種、負の空気が漂い始める。まるで次のステップに生き損ねた、負け組の住まうエリアの様になっていくのだ。

世間的にも負のイメージが浸透していく。高齢化も進んでいく。

隆盛を極めたのは、ほんの10年程度だったろう。

親子4人が喜んで充分に暮らせたスペースは、まるでウサギ小屋のように狭い劣悪な住環境のように言われるようになる。

確かに、狭い住スペースだったが、人間関係は濃密だった。もちろん没交渉を決め込むなど様々な人が居はしたが、基本は縦横斜めの人間関係が成立していた。

だがそれとても、前述の通り10年から15年程度で下火になっていく。

高齢化が始まり、建設されて30年も経った昭和の終わり頃には、あちこちの部屋から居住者が立ち去り、そのまま歯抜けのように人気(ひとけ)のない部屋が増え、歩くこともおぼつかない高齢者が、エレベータもない階段を必死で上り下りする姿が見られるようになった。人間関係云々どころの騒ぎではない。

周辺の商店も疲弊し始め、閉店する店が続く。

昭和30年代に建てられた公団住宅の末路は、どこも同じようなものだったろう。もうほとんどがモダンな装いを施され、建て替えられているはずだ。一部屋の広さもボクの住まっていた頃の4、5倍はあるだろう。

ボクは10年ほどで家を出た。総和44年には独り暮らし(本当は二人暮らし!)を始めた。

それでも、荻窪の公団住宅は、ある意味ボクの故郷に違いない。帰る場所はどこにもないけれど。

東京「昭和な」百物語<その43>「VAN」ブランド

2018-07-05 01:19:26 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和のブランドって、なんだったろうか?

真っ先に思い浮かぶのは、メンズの「JUN」と「VAN」だ。

ことに「VAN」は、昭和30年代からメンズファッションの地平を切り開き、アメリカ東海岸のアイビーリーガー(東京六大学みたいなもので、8つの私立大学のスポーツ連盟のようなもの)ファッションを提唱して、一大ブームを巻き起こした。

以前にもどこかで書いたが、銀座のみゆき通りにたむろしたみゆき族は、「VAN」や「JUN」の濃い目のセピアカラー(黄銅色と言った方が良いかもしれない)の紙袋を小脇に抱え、ローファーにコッパンといういでたちでうろつきまわっていた。

みゆき族は、ちょうど東京オリンピックの前頃に全盛を極め、警察が風紀粛清の旗印でみゆき族を補導したなどというバカげた逸話も残っている。ボクもみゆき通りには中坊の分際で時々足を運んだ。タイミングが合っていたら、確実に補導されただろう、と思う。紙袋を持ってただ歩きまわる少年が、どんな程度に風紀を紊乱させたのか、知りたいものだが、時代が時代だったと言うしかない。

「VAN」の創業者・石津謙介さんとは、だいぶ後になってご自宅でお話を伺う機会があった。

原宿だったか青山だったかの、それこそアイビーの葉に覆われた瀟洒な一軒家だった。

2000年に他界されたが、お話を伺ったのはその数年前、「VAN」は78年に倒産していたが、日本のメンズファッションに対する思いは強く、再建(「VAN」ブランドの、と言うのではなく、メンズファッションそのもの)に対して意気軒高であったと記憶する。

そして、これもどこかで書いたがジーンズの「LEE」。原宿の表参道交差点に掲げられた「LEE」の看板は、長い間原宿のシンボルであり、ボクのようなファッションにはからきし疎い者にとっても強烈なシンボルだった。

実は、昭和40年代から50年代にかけて、日本の若者ファッションは大いに様変わりする。

そのバックグラウンドは「フリー(自由)」という概念だった。髪の長さはナチュラルに長くすることもありで、もちろん五厘刈りも、パンチパーマも、オールバックも、坊主も七三分けもありという時代だった。若者の気分が「はみ出し」始めた頃だったのだ。人と違うことをする方がカッコいい時代が到来したのだ。

そうした「自由」の受け皿の一つが、ファッションでは「VAN」や「JUN」だったのだ。

その頃人気の喜劇役者に伴淳三郎という方がいた。

この方の通称は「バンジュン」と言った。

ボクの頭の中で「VAN「JUN」という最先端のファッションブランドが、喜劇役者「バンジュン」となぜか切り離せなかったが、同じような気分だった人もきっといたはずだと、確信している。
 

東京「昭和な」百物語<その42>煙草

2018-06-21 14:01:52 | 東京「昔むかしの」百物語
60歳になるまで、20歳頃から40年以上煙草を吸っていた。

吸い始めた当時、芝居にどっぷり浸かっていたボクは、いつの間にか缶入り、しかも両切りのピースを日に二缶、都合100本を毎日吸っていた。

体に良いか悪いかは問題にもならず、ただただ吸っていた。

パイプも吸った。海泡石(メシャムとも言ったかな)の彫刻モノは、お値段も張るけれど何か特別感があってよく口にした。自分で彫ったりもした。葉巻も吸った(正確には吸わずに、くゆらせる)。

そのうち朝の歯磨き時に、吐き気がするようになった。「おぇっ」てなもんだ。煙草を吸い始めて12,3年経った頃だった。さすがにその頃にはピースはヘビーで、ハイライトに変わっていたが、本数は変わらなかった。日に100本。

吐き気がいやで、銘柄は忘れたが少し軽いものに変え、やっぱり100本。

そうこうするうちに、銘柄はさらに軽いものに変わり、本数も日に二箱程度(それでも40本)に減っていった。

煙草はどこでも吸えた。映画館だろうが電車の中だろうが、病院でも吸えた。吸い殻は歩きながら道の端に捨て、踏み消した。

「地球は巨大な灰皿である」

と言うのは、僕が若い頃にこっそり作った標語。今どきこんなことを言ったら、嫌煙家に訴えられるだろう。当時だって公言できる類のものではないのだが……。

寝たばこも普通だった。枕元には好きな灰皿が置いてあった。

そんな煙草習慣が変化したのは、健康上煙草は最悪のもの、という概念が一般化した昭和60年を過ぎたあたりからだろうか。受動喫煙などという言葉が、そろそろ姿を現しはじめの頃。

ボク自身が特段に気を使ったわけではないのだが、環境が変化していった。

そして止めは子どもの誕生だ。煙草を止めはしなかったが、日に20本程度と、本数が劇的に減った。

昭和の最後の頃(息子の誕生は昭和59年)だった。

やがて平成に入ると、パブリックスペースでの喫煙は、何か後ろめたい行為となり、周囲に気を使いながら吸うということになり、プライベートな家や車と言った空間でも、気を使わなければならないようになった。

煙草を吸うという行為は、中毒性、依存性があると一般的には信じられていて、その呪縛に知らず知らず囚われていたわけだが、60歳になった時に、突然、煙草を吸うということそのものが、ただただ面倒くさくなった。

タスポだったかタポスだったか、煙草を吸える年齢だという証明証のようなものがなければ、煙草は自販機でも買えなくなった。好きな時に吸えない、まるで管理されているような気分になり、60歳の冬だったか「面倒くさい!」と一言叫んで、ボクは煙草をやめた。

それ以来、ただの一度も吸いたいと思ったことはない。禁断症状なんぞも、一度も出ない。

中毒性も依存性も、ただの思い込み、思い込まされだったのだと、ボクは確信している。

煙草は、昭和の国家管理の専売物から、昭和60年になり私企業化され、平成へと手渡された。そのことがだんだんと煙草への規制が強化されたことの根本的な理由だ。

専売物の頃は、国庫を潤わすアイテムの一つだった煙草は、吸わせるためにはなんでもありだったというだけの話だ。

その道筋の中で、煙草の中毒性も依存性も、ことさらに強調されて逆ホメオパシー的なことになっていたのだろうと思う。

だからボクは、しょうもない「面倒くさい」という理由で、煙草を止められたのだ。

そう確信している。




東京「昭和な」百物語<その41>切符

2018-06-19 02:06:18 | 東京「昔むかしの」百物語
切符というものがあった。

もっとも典型的な切符は、国電の乗車券だった。丈夫な厚紙でできた切符に、各駅の改札口で切符を切る専門の駅員が待機し、ハサミを入れる。

ハサミと言っても、いまの髪切り鋏やキッチン鋏のようなモノではなく、どちらかと言えば工具の小型ペンチに近い形状で、切符の一部を型抜きするようにカットした。

駅員はそれぞれのリズムに合わせて、ハサミをカチカチと軽快に鳴らしながら入場者の切符を切っていく。

と同時に、退場者の切符を目視で確認し、正当な切符かどうかを瞬時に判断するという、名人芸の持ち主ばかりだった。

電車の乗車券ばかりでなく、切符はいたるところに存在した。映画館、遊園地、食堂、観光地、名所旧跡、動・植物園……。

切符は、万能だった。

今のような改札システムは、オムロンという体温計なんぞを作っている会社が、昭和40年代には作り上げていたそうだ。

正直、余計なことを……と思ったりもした。人が介在しない何事も、いずれ破綻するとボクは思っているから 。

だが、昭和は遠くなりにけり、だ。

AIという化け物じみた存在が何事かを支配する時代は、すぐそこまで来ている。

切符は、ひょっとすると、アナログの世界を思い出させる最後のアイテムだったのかもしれない。


東京「昭和な」百物語<その40>喫茶店文化

2018-05-30 22:17:30 | 東京「昔むかしの」百物語
新宿に「TOPS」という喫茶店があった。今でも同じ場所にあるが、昭和の「TOPS」とはまるで違う。仕事の打ち合わせには静かで、コーヒーも旨く、まったく重宝な雰囲気と最高の立地条件を持っていた。

ボクの仕事はことさらにそうだったが、仕事の打ち合わせはほぼ100%事務所近くの喫茶店で行った。事務所近くの喫茶店は、応接室みたいなものだった。その喫茶店代は会社持ちだった。

それが良いか悪いかは時代背景によるところが大きいから、ここでは問題にしない。

会社の応接室代わりの喫茶店の多くは、個人経営のちょっと雰囲気のある喫茶店と相場は決まっていた。

喫茶店主がママの場合は、概ね何も言わなくてもいつも頼むコーヒーが登場した。

マスターの場合は、こちらから「いつもの」とオーダーしたものだ。

繁華街にあった昭和の喫茶店というのは、「ジャズ」「ロック」「クラシック」「歌声」「名曲」という音楽系、「同伴」「美人」「純」などの風俗系(?)などなど、最近の家系ラーメンみたいな系列があった。昭和の最後の頃には「ノーパン喫茶」なるものまで生まれた。

喫茶店はスペースとアトモスフェアを提供する業態だった。

もちろん前述の通り、個人経営の旨いコーヒーを飲ませる雰囲気の良い喫茶店もあったが、多くはなにかを連想させる名前が付けられていた。例えば「田園」「ウィーン」など。

喫茶店にコーヒーという飲み物そのものの価値を付加した最初は、東京では「POEM」じゃなかったかなと思う。阿佐ヶ谷にあったと記憶している。駅北口を降りて、高架下のゴールド街に沿って高円寺方面に行った直ぐ角にあった。

昭和40年代前半頃だったかな。

「POEM」が先鞭をつけた「おいしいコーヒー文化」が、その後の「ドトール」などの先駆けになったと思う。

ただ一つ、「POEM」の登場によって、喫茶店のアイデンティティがコーヒーがうまいか高級か、産地がどこかといった価値にシフトし、良い雰囲気のスペースでそこはかとなくゆったり時間を過ごすという価値は、失われていったように思う。

タイトルに「喫茶店文化」と書いたが、チェーン展開する今のコーヒーショップは、喫茶店ではもちろんない。ハッキリと、ママやマスターの姿はない。そこに彼らの作り出すアトモスフェアは存在しない。ただのコーヒーショップだ。

冒頭に新宿の「TOPS」を取り上げたが、昭和と平成のその際立った姿の差がハッキリとしている、数少ない現存する喫茶店のような気がするのだ。

東京「昭和な」百物語<その39>吉祥寺

2018-05-15 23:30:07 | 東京「昔むかしの」百物語
1961年、小学6年生の頃。荻窪に住んでいたボクは、なぜか友達と二人、高井戸まで家庭教師の下に通った。進学塾のようなものはまだなかった。小学校の教諭がアルバイトで家庭教師をしていた。

二人で荻窪から高井戸まで歩いて通った。

家庭教師の下に通ったからと言って、特段に中学受験をするわけでもなかった。二人とも区立中学に進学した。

通った先は、井の頭線の高井戸駅に近く、時々はそのまま井の頭線に乗り吉祥寺まで遊びに行った。水道道路と言われた吉祥寺まで続く幹線道路を歩いても行った。

なんとはなしに憧れのようなものがあった。

当時の吉祥寺は、北口にはサンロードが既にあり、まるで戦後の闇市のようなハモニカ横丁があった。上野のアメ横を、もう少しディープにしたような場所だった。確か伊勢丹もあったような気がする。

南口には前進座があり、井の頭公園(当時はなにやら酔っ払いだらけで胡散臭く感じていたが立ち飲みの伊勢屋もすでにあった)、井の頭動物園もあった。

どこに行くということもなく、井の頭公園を一周したり、西荻経由で歩いて帰ったりもした。

なにか散漫としているのだが、刺激的な印象があった。

新宿や澁谷、池袋などといった繁華街ではないのだが、なにか荻窪などとは違った大きな町然としていた記憶がある。デパートがあったせいかもしれない。

後に東京には珍しい近鉄百貨店ができた。プロ野球の近鉄バッファローズ・ファンだったボクは、それだけでも嬉しく、吉祥寺にはその後もよく遊びに行った。

デパートは近鉄、伊勢丹、丸井、東急と繁華街にはないラインナップだった。

吉祥寺好きは今でも続いている。

ただし大抵の場合、子どもの頃には胡散臭く感じていた、酔っ払いと化しているのだが。