普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

蚊帳

2014-07-23 23:10:08 | 東京「昔むかしの」百物語
夏。

クーラーなんぞは、使わなかった。というより、そいつはぜいたく品で、金持ちしか家に設置できなかっただけの話。

使わないというのは負け惜しみみたいなもんで、使えなかっただけ。

だから朝は、汗だくで目覚めるわけだ。扇風機はどこの家にも一台はあったが、扇風機をつけっぱなしにして風にあたりながら寝ると、心臓麻痺で死ぬと恐れられていたから、扇風機すらつけて寝なかった

扇風機のない昭和30年代までは、本当に蚊帳を吊って寝ていた。

まあ、見様によっちゃ、お姫様のベッドに掛かる天蓋みたいなものだ。

なぜか緑色で、部屋の四隅に打ち込んだフックに蚊帳の四隅の輪っかをひっかけてセッティング。蚊の侵入を防いだ。ほとんどの場合、セッティングしている間に蚊の野郎は蚊帳の内側に侵入していたけどね。

この蚊帳という奴、蚊取り線香(概ね豚の形をしていた)と大体セットだった。

この蚊取り線香、蚊帳の外にセッティングするのか、内側にセッティングするのか? 悩ましいところではあった。

子供のいる家庭では、寝苦しい夜にはおふくろさんが団扇で子供たちに風を送り、ほんの少しだけ風の恩恵に浴して子供たちは寝ることができた。

蚊帳というのは網状の天蓋なわけで、外気の移動、つまり風を感じる状態でないと、機能としてうまく使っているとはいえない。おふくろさんの団扇もありだけれど、本当のところ自然の風を感じる方が良いわけだ。

それが、何を意味するかと言えば、縁側の障子やガラス戸なんぞは閉めない、そういう環境で使うモノだということ。要はそれくらい不用心でも特段になにごとかがおこるような社会環境ではなかったということになるな。

横道にそれた。

朝、蚊取り線香はとうの昔に灰になっていて、うまくすれば渦巻の灰が出来上がっていた。

そして、男の子はランニングシャツ、女の子はシュミーズで、井戸端に出向く。固形の石鹸で顔を洗い、歯磨き粉(粉状なのだよ)で歯を磨く。そして、おふくさんの作る味噌汁と、ご飯(文化釜で炊くのだよ!)、贅沢な場合には焼き魚(目刺程度だけどね)、漬物、焼き海苔なんぞで朝ごはん。

飯を食った後は、夏休み中であれば、ラジオ体操をしに最寄りの小学校に出かけたもの。

………なんだか、涙が出てきたな。まだいくらでも書ける。続きは明日。

<続く>


おわいやさん。

2013-12-02 00:29:58 | 東京「昔むかしの」百物語
突然思い出した言葉。「おわいやさん」。おそらく差別用語になっているんだろうな。

ボクは以前にも書いたが、東上線の上板橋に住んでいた。記憶の中ではかなり長い時間を過ごしたと思っているが、実際は4年弱くらいだろう。

昭和33年に荻窪に転居したが、上板橋で幼稚園に通っていた記憶があるから昭和30年から33年までの間住んでいたと思う。

近所のお大尽の家(小宮家といった。おそらく近在の旧名主か)の御嬢さんと仲良くしてもらい、その家に入れるのは近所ではボクだけだった。

大きなまるで神社のような作りの家で、離れにはボクと仲良しだった御嬢さんの母親が、まるで隔離されるように住んでいた。のちに気付いたが、おそらく結核を病んでいたのだろう。きれいな人だった。

そんなお大尽の家にも、ハモニカ長屋のボクの住まいにも、定期的に「おわいやさん」が訪れてきた。

簡単に言えば牛にひかせた大八車にたくさんの桶を積んで、便所の汚物を回収しにくる今でいえばリサイクラーだった。

ボクは特段に差別的な意味もなく職業として「おわいやさん」と呼んでいたが、漢字で書けば「汚穢屋」となり、はっきりと差別的な職制であったことがわかる。

仲の良いおじさんもいた。その人は時々「骨なし皮なしとっちんぶらり、ってなんだ?」などと頓智を出してくれるのだが、回答は決まって「うんこだよ!」と、品のないモノだった。だがボクらはいつも笑って聞いていた記憶がある。

「おわいやさん」が来ると、お大尽の家では、お手伝いさんが汚らしいものを扱うように対応していたのを記憶している。その代り、終わるといつも何かを渡していた。きっとチップか何かだったんだろうな。

色々なことを思い出すが、「おわいやさん」が帰った跡は、すぐわかった。なにしろ牛のうんちがこぼれていたから。

なんだか昨日のことのように思い出してしまった。

















荻窪駅付近

2012-03-03 13:35:30 | 東京「昔むかしの」百物語
 小学3年の冬休みに、上板橋から荻窪に移り住んだ。
 昭和33年頃の荻窪は、まだまだ住宅街として成立するほどのものではなかった。むしろ今の軽井沢的な、避暑地然とした佇まいだったような記憶がある。
 もちろん駅周辺には商店街もあれば、飲み屋もあった。だが、どこか普通の町という感じではなかった。

 当時の中央線は、まだローカル線の域を超えず、まだ通勤電車という趣はなかった。今は「高尾行」というが、当時は「浅川行」だった。どこかの区間は単線だったような記憶もあるが、間違いかもしれない。
 ボクが引っ越した頃には、まだ荻窪に丸ノ内線は乗り入れていなかったが、それから4年ほどで丸ノ内線が全線開通、荻窪は新宿や銀座に出かける恰好のターミナル駅になっていた。この頃から、中央線は通勤路線に変貌し始めていた。

 荻窪駅南口駅前は、ある不動産屋が駅前の再開発に応ぜず立ち退きを拒否、つい10年ほど前まで昔と変わらない雰囲気を醸し出していた。
 
 昭和33年当時、南口を出て駅から5分ほど歩いたところにはスケートリンクがあった。それもローラースケートリンク。リンク自体の営業をしていたかどうかは記憶にないが、そこにはクラブハウスもあり、中央軒という美味しいレストランまで併設されていた。
 ボクは中央軒が大好きで、本当にハンバーグをよく食べた。デミグラスソースの美味さは半端なかった。なにを食べても美味しかった。そこそこ大人になってからの一時、本当に毎日のように食べに行って、あっという間に10㎏太り、少々足が遠のいた。
 その後、場所を移動して営業していたが、いまではもうない。もう一度あのデミソースを味わいたい。
 そこへいくまでの途中には、ピンク映画の常設館まであった。

 要するに、避暑地っぽかったのだ。それもそのはずで、戦前から近衛家の別荘「荻外荘」(てきがいそう)があり、今は公園になっている音楽評論の草分け・大田黒元雄の別宅などがあった。ボクの住んでいた近くには、角川書店の角川一族の居宅もあった。
 やれ「せんべい屋」の社長のお妾サンが住んでる家だの、ヤクザだったか右翼だったかの大物の別邸などが散在していた。
 荻窪から阿佐ヶ谷にかけての一帯は、作家の井伏鱒二などが住まい「文人村」とも呼ばれていた。
 早い話が、ちょっと文化の香りの漂う町であったのだ。北口の喫茶店「邪宗門」、中古レコード店「月光社」、南口の名曲喫茶「ミニヨン」……そうそう、ライブハウスの草分け「ロフト」も、荻窪の南口から始まったはずだ。ロフトの名物、若かりし頃の平野社長がコーヒーを落としたり酒をついでくれたりしたものだ。
 一番記憶にあるライブは矢野顕子のライブかな。

 荻窪での記憶は色々ある。青春のベースになったのがこの町だったから。
 数年前までお世話になっていた音楽ショップ「新星堂」も、1974年頃から本社機能は荻窪にある。店舗はもっと前から今の本社敷地にあった記憶があるが、間違いかもしれない。

 一時期荻窪はラーメンのうまい町として全国に知られたが、舌の肥えた文化人が多かったのは確かで、中央軒にも触れたが、荻窪に住まっていた頃に食に関して不足を感じたことは一度もない。
 ことにラーメンは、やはり抜きん出ていて、春木屋、丸福、丸信はベスト3だった。ボクは切れのある魚介系出汁の丸信がことの他好きだった。
 南口からちょっと外れたところには、「三ちゃん」という名物の焼きそば(そばではなくヴィジュアルはうどん)がうまい店があり、今でもあるようで、時々無性に行きたくなる。それこそ毎日のようにあっさりした細麺の中華そばか焼きそばを食べていた。

 中でも忘れられないのが、非常にしょうもないことだが、北口の阿佐ヶ谷よりにあったパチンコ屋。中央線から店が見えるのだが、昼間の看板は「パチンコカモメ」と読めるのだが夜蛍光管に光が入ると「パ」と「カ」が切れていて読めず、口には出しにくい店名となっていた。それは、ボクが中学生から高校生になってもそのままだった。本当にかなり長い間放置されたままだった。お蔭で少年だったボクと仲間の笑いと話題のネタは尽きなかった。
 
 荻窪は、ボクにとっては三分の一程度ではあるが、明らかに人生の原点になっている。

誰もが生きていた

2012-02-24 08:47:10 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和45年。1970年。70年安保闘争の敗北が決まり学生も労働者も、気落ちしていた。中には、もはやこの国で生きる価値なしと、ドロップアウトしたまま、身を隠すものまであらわれた。

世界が音を立てて崩れたように感じたのは、ボクだけではなかったろう。

その瞬間から、次のプロセスに移るまで、際限もない時が過ぎたような気がした。たった5~6年のことだったのだが。

活動家の多くは、それぞれの場を模索し生きるための転身を図った。だがそうはいかない連中も多かった。
そんな連中の行き先は、フリーという名の潜在失業者。物書きやカメラマンは絶好の仕事だった。

と、懐かし話を書いていたら、南相馬市で高濃度セシウム汚染が認められる黒い物質が見つかったとのこと。

 具体的にそれがなんなのか情報がないが、安全な物質であるわけもなく、関東圏で発見される可能性も高い。

正直、70年代に日本国内での放射能汚染は、核戦争によるもの以外には考えつかなかった。

まだまだ核に対しては被爆国の国民としての強いアレルギーがあった時代で、一般の生活者レベルでさえ原子力空母の寄港にすら「大きな抵抗感」を抱えていた。
人々は、お笑い番組よりは、まともにニュースや情報に向き合っていたような気がする。

この問題は、日本国にとって大きな瑕疵となりそうな気がする。

思い出したこと。初めて食べた中華そば。

2012-01-24 00:17:04 | 東京「昔むかしの」百物語
 ボクが初めて食べた中華そばは、上板橋の自宅アパート目の前にあった、鄙びた中華料理屋の「支那そば」だった。昭和30年頃のことだった。ボクはまだ小学校に入る前。店の名前は残念ながら覚えていない。

 上板橋のアパートは、東武東上線上板橋駅から、上板橋東映のあった商店街を抜けて川越街道を渡り、路を入ったすぐ右手にあった。
 典型的なハモニカ長屋で、暗く狭い中央通路の両脇に、6畳と4.5畳の部屋が幾つも連なっていた。廊下の電気は裸電球、トイレは共同。水はポンプ式の井戸だった。

 そこに引っ越した当初、川越街道を牛が引く大八車が行き来していた。馬も荷車を引いていた記憶がある。

 その鄙びた中華料理屋の出す支那そばは、決して奇をてらったモノではなく、本当にオーソドックスで透明な醤油ベースのスープに縮れ麺、ナルト、ほうれん草、周りの赤いチャーシュー、支那チクが行儀良く乗っていた。美味しかった。

 昭和33年になると、インスタントラーメンの先駆けといえる、日清のチキンラーメンが発売され、店に行かなくなった。それはチキンラーメンが美味しかったからだ。
 ただボクの記憶には、チキンラーメン以前に、インスタントラーメンの前段階とでもいえるような、棒ラーメンが発売されていたような気がするのだが……。
 
 チキンラーメンは一袋35円だったが、鄙びた中華料理屋のラーメンは45円だった。当時、インスタントラーメンを食べ続けると、胃に穴が開くと、まことしやかなデマが流れていたのも思い出した。誰がどのような意図を持って流したデマなのか、いまとなっては知る由もないが、ノーマルに考えれば、支那そば屋が流したと考えるのが普通だろうか。

 ボクが6歳から10歳にかけての間上板橋に住んでいた。その最後の1年くらいで、鄙びた支那そば屋はなくなった気がする。

 本当は、あの支那そばをもう一度食べてみたい。
 それと、近くのお大尽「小宮家」の令嬢だった、由紀子姫に会ってみたい。なぜか貧乏人のボクと彼女は仲が良く、近所のガキの中では、ボクだけが小宮家に出入り自由だった。なんだかいろいろなことを思い出してきたぞ……。!!!

ボクの体の三分の一は、立ち食い蕎麦でできている

2012-01-21 22:36:34 | 東京「昔むかしの」百物語
 テレビを見ていたら、「嵐にしやがれ」で映画監督の大根 仁氏が、嵐の桜井くんに立ち食い蕎麦の極意を伝授していた。

 ボクもすでに高校生の頃から立ち食い蕎麦を食べていた。たぶん、立ち食い蕎麦としては草分けの店だっただろう。高校時代は中央線の荻窪に住んでいた。南口駅前のパチンコ屋の隣に名前は「富士そば」だったか正確な記憶はないのだが、立ち食い蕎麦屋ができた。初めて食べたときに「気楽になんとうまいものか!」と思った。それから病み付きになったというわけ。

 とにかく好きで、毎日食べてもなんの痛痒も感じないほど。さすがに三食とも立ち食い蕎麦というのはキツイかもしれないが、高校時代からだから、かれこれ45年ほど食べ続けていることになる。
 これまでにいったい何食くらい食べているのだろう?

 十何年か前に、「サラリーマンの体のほとんどは、マックでできている」と言う言葉があったが、はっきり言って、ボクの体の三分の一は立ち食い蕎麦でできている。

 ボクの中には立ち食い蕎麦にも流行があって、荻窪駅前の店がなくなるまではそこがベースで、新宿に行けば「梅もと」というように、先々で行きつけの店があった。だが、いまではかつて食べた店はほぼなくなっている。渋谷に好きな店があったが駅前の再開発で、なくなった。

 最近も時々食べる。「小諸」か「ゆでたろう」が最近の流行。

 前にも書いたかもしれないが、浅草橋に行けば出向く店がある。「笠置そば」という幟が立っていて、店自体は串揚げ屋の提灯が下がり、看板には「立ち飲み屋 ろくでなし」とある。どれを目指していけば良いのか……と思いながら、立ち食いそばを食らう。駅のすぐそばのガード下にある。頼んでからてんぷらなどは揚げてくれる。蕎麦も良い。
 いまは、そこが一番の店かな。ただ、浅草橋にあまり行かないのが、残念。

 今度家で蕎麦を打ってみようかと思っている。ただ、ボクは蕎麦が好きというわけではなく、立ち食い蕎麦が好きなだけなのだけどね。

 だが、もっと好きなものがあって、それはラーメン、中華蕎麦。この話は近々に。

「ALWAYS三丁目の夕日'64」 第三弾!

2012-01-20 14:44:59 | 東京「昔むかしの」百物語
 「ALWAYS三丁目の夕日'64」の公開が明日に迫った。テレビの芸能コーナーには、出演者の堀北真希ちゃんや、小雪さんなどが入れ替わり出演して、公開ムードを盛り上げている。

 今回は「東京オリンピック」の開催された「'64」年が舞台だそうで、ボクら程の年配者は、青春まっただ中で、映画とは無関係にその時代を思い出すだけで、意外にも身体が熱くなったりする。

 '64年、ボクは15歳。中学3年だった。この年は新幹線の開業した年でもあったが、ボクらの修学旅行(to 京都)は、まだ品川発の修学旅行専用列車「日の出」号だった。

 東京オリンピックで忘れられないのは「東洋の魔女」「裸足のアベベ」、そして重量挙げの「三宅義信」と「ジャボチンスキー」だろうか?

 同じ年、ベトナム戦争は激化の端緒を踏んだ。歴史上最大規模のM9.2というアラスカ地震が発生したのもこの年。

 思えば青春のバイブルのようだった「平凡パンチ」が創刊されたのも確かこの年だった。

 良い時代といえば良い時代だった。明日があった。未来を語ることができた。
 貧しくはあったが閉塞感はなかった。戦後、すべてを失ってゼロから出発した日本国民にとって、わずか19年でオリンピックを開催したことの誇りと自信は、未来への大きなバネになった。それは中坊のボクでも感じた。

 いまの若者は、自分の生きた時代に何かを感じ、思い出したい記憶、思い出して高揚するような記憶を持てるのだろうか? おそらくボクらのような、共通の記憶、同じ価値観といった記憶ではなく、もっと個人的な記憶しか持てないのではないだろうか?

 前2作は楽しく観た。「ALWAYS三丁目の夕日'64」はどんな気分にしてくれるのだろう? 正直なところ、映画もいいのだが、ビッグコミックオリジナルに連載されていた西岸良平さんの漫画にこそ、ボクの「三丁目の夕日」は輝き続けているのだが…。

名曲喫茶!

2011-11-08 22:46:47 | 東京「昔むかしの」百物語
 日本中どんな町にも、クラシック、ジャズのレコードを聴かせる「名曲喫茶」があった。
 渋谷の百軒店にあったジャズ喫茶「ありんこ」などにも思いは深い。1960年代の後半よく通った。アビー・リンカーンの「ウィ・インシスト」を馬鹿の一つ覚えのようにいつもリクエストしていた。
 「音楽喫茶」は、明らかに文化だった。音楽を聴くという文化の発露としての場「喫茶店」。そこで自分の居場所すら決めることができた。「その席はボクの席です」と、臆面もなく言えた。
 そこで音楽だけ聴いているようで、実は周囲の自分と同じような客と、微妙なコンタクトを取っていた。そして、別の場所で会って話をしたりもした。立派な社交場だった。そこで結ばれるカップルもいたりした。
 いま喫茶店は、ほとんどない。どこにもない。コーヒーを飲ませるのは大規模チェーン店だけ。だから店を切り盛りする人の姿形もまったく見えない。人がいない。だから、そこに文化などが生まれようはずもない。
 「音楽喫茶」という文化を失って久しい。とても安上がりでありながら緊密な人間関係を生み出した「音楽喫茶」。なによりも、良い音楽を聞かせてくれた。
 もう一度あのリアルな空間を取り戻したいと思ってしまう。

都電もあったが、トロリーバスでしょ、やっぱり!

2011-07-21 22:06:22 | 東京「昔むかしの」百物語
 昭和30年代(本当は漢数字で書く方がしっくりくるな)、東京の空はカオスだった。

 ボクが島根県松江市から家族で上京したのは、昭和28年。当時4歳だった。
 トレーラーバスという、運転席と客席がセパレートになっている大型バスで松江の駅まで出た覚えがある。当時、松江市内を走っていたバスの主力は、このトレーラーバスだった。カッコイイなと思っていた。
 松江から一度北陸路を辿り、新潟県の糸魚川近くの鬼舞に向かった。そこは母の母方の実家だった。半年ほどそこに滞在したような記憶がある。夏に着いて冬に東京へと向かったと思う。
 だから、東京に辿りついたのは昭和29年になっていたかもしれない。
 新潟からどう経巡ってきたのかわからないが、東京駅に着いた時に駅構内は黒山の人だかりだった。街頭テレビで、力道山のプロレス試合をやっていたのだ。それを見た記憶がある。
 電信柱のような柱の上に箱が載っていて、その中で映画のように人が動いていた。おそらくあまりの人だかりで父が肩車をしてくれたのだろう。子供のボクはおそらく大人達のケツの辺りしか見られなかっただろうから。
 住むところも決まっていなかったらしく、その時は代々木に住んでいた母の姉の元に転がり込んだ。昭和29年中は、そこで世話になっていた。

 昭和30年、富坂(小石川のお隣)のアパートに引っ越した。そこには1年足らずしか住まなかったが、その間に後楽園遊園地が完成し、地下鉄の丸の内線も一部完成していたと思う。できたばかりの後楽園まで坂を下って歩いて見物に行った。ジェットコースターがあったが、恐ろしげであった。
 後楽園から家に向かって富坂を上り、右手を見ると時計台が見えた。それが学校だと聞いて「アソコに入る」と言ったらしいが、残念ながらそこは東大で、勉強嫌いのボクが入学することはなかった。
 やがて上板橋のボロ長屋に転居する。ここには昭和33年までの3年間住んだ。たった3年間だったが、不思議と思い出が詰まっている。おいおい書こうと思う。

 そんな時代、省線と都電と、もう一つ東京に住む者にとって重要な脚だったのが「トロリーバス」だ。
 松江のあのトレーラーバスよりカッコ良いバスが、東京にはあったのだ。
 空に張り巡らした架線からトロリーボールという集電装置で得た電気を動力にして走るバス。クリーンな乗り物だった。
 池袋から新宿を経て渋谷まで、東京の3大歓楽地をこのトロリーバスはつないでいた。だから、都電の架線もあいまって、明治通りの空は、のべつまくなしくもの巣に覆われているような景色だった。なにか猥雑な感じさえした。だが、たわんだ架線の作り出す景色は間違いなく東京の風景だった。
 東武東上線・上板橋に住んでいたから土地勘もあり東上線の基点である池袋は庭のようなもので、西武デパートの大食堂にはよく行った。渋谷は叔母が代々木、原宿と移り住んでいて、年の近い従兄弟と遊ぶために毎週末出かけていたから、こちらも馴染みがあった。東急のプラネタリウムが懐かしい。そして新宿は昭和33年以降、荻窪が住処となり新宿がターミナルのようなもので、のべつ遊びに出ていた。
 だからトロリーバスは重宝だった。確かではないが昭和42~3年までは、確実に都内を走り回っていた。
 ところが。都電もそうだが、トロリーバスもある日パタッとなくなった。おそらく物流の時代が来て、大型のトラックが走るにはあの架線が邪魔になったのだろう。交通量も瞬く間に増加した。そうなればノタノタと走る都電もトロリーバスも、邪魔者扱いされるのは目に見えていた。
 そうはいっても、あの頃の光景は忘れがたい。
 冒頭に「昭和30年代、東京の空はカオスだった」と書いたが、本当に架線が縦横に張り巡らされた、あのワサワサとした感じは、まさにカオスで、たまらなく好きだった。

新宿大ガード付近

2011-07-20 18:01:02 | 東京「昔むかしの」百物語
 全然無関係なのだが、カテゴリー→ジャンルを探していたが、「歴史」というジャンルがない。びっくりだね。

 昭和33年の冬、それまで住んでいた上板橋のハモニカ長屋から、荻窪の公団住宅に引っ越した。これは画期的な出来事だった。

 当時僕は小学校三年生で、板橋から文京区立窪町小学校に越境入学していた。越境入学の理由は、今は筑波大学となっているが、当時の東京教育大学附属小学校の入学試験に落ち、しゃくにさわって隣にあった窪町小学校に通うことにした、ということになっていた。本当のところは不明。
 確か季節は冬。ニ学期の終業式当日だったような……。
 上板橋から窪町小学校に出向き、帰りは荻窪に帰った。よく考えれば、10歳の小学校3年生にはかなり無謀な行程だったような気がする。なにしろ荻窪なんぞは、行ったことも聞いたこともなかったから。
 当日の朝、帰りは荻窪まで来るようにと言われ、心細いなんてものではなくて、当時の学友に先生(中村先生!)に促されてサヨナラの挨拶をし帰路についたが、心此処にあらず的な浮き足立った感覚を覚えている。
 営団地下鉄丸の内線の茗荷谷が学校への下車駅だった。いまの感覚で行けば、それなら茗荷谷から荻窪まで一本じゃないか、と言いたいところだろうが、丸の内線、当時はまだ荻窪まで開通していなかった。池袋から霞が関までしか開業していなかったと思う。
 どんな行程で茗荷谷から荻窪まで行ったのか定かではないが、その夜にはきちんと荻窪で食事をした記憶があるから、ちゃんと行けているわけだ。
 いろいろな方法があった思うが、おそらく、茗荷谷から池袋(2駅)へ出て、省線(と昔は言ったのだよ)に乗って新宿へ出て、当時は高尾ではなく浅川行きといった中央線に乗って行ったのか、あるいは、新宿で降りて淀橋方面に向かって大ガードを抜けて歩き、都電に乗っていったか、いずれかだろうが、そこのところの記憶は曖昧だ。
 どちらかと言えば、都電で行った公算が大きい。というのも、4歳年上の姉が、当時まだあった淀橋浄水場近くの精華女学園中等部に通っていて、記憶にはないのだが、彼女と待ち合わせて帰ったと考えるのが最も妥当だ。そうなれば都電で帰るのが最も自然だ。

 当時、都電は東京を縦横に走り回っていた。ボクがやはり最も馴染んでいたのは杉並線で、新宿の大ガードを超えたすぐの所に、熊の胃の宣伝だったか何か(ジンギスカン料理屋!?)で大きな熊の絵だったか彫刻だったかがあって、その前辺りに停車場があった。それに乗れば、終点の荻窪駅近くまで連れていってくれた。
 都電荻窪駅は、新宿から向かえば荻窪陸橋を越えた北口側にあった。
 ただ、営団の丸の内線が荻窪まで乗り入れた昭和37年の翌38年には廃線になった。だからボクが乗ったのも、約4年間程度だったという計算になる。

 そういえば、当時の東京の交通事情を、次回は書き残そう。なんだかカオスだったのだよ。面白かったというべきか。





絵画館前 「かっぱ天国」…だったかな?

2011-07-17 13:03:47 | 東京「昔むかしの」百物語
 おそらく、覚えている人もほとんどいないのじゃないかという、だれが企画し実行したのか、大東京のど真ん中であった真夏の子供たちへのプレゼント企画!

 と言っても、「なんのこっちゃ?」と言う方がほとんどだろう。
 確かボクが10歳ころ(50年以上前!)の、都合2~3年間だけ行われた、名称は「かっぱ天国」だったような記憶がある。

 いまは黄葉(イチョウ並木!)の名所になっていて、秋には若いカップルの散歩道になっている、青山、外苑前の絵画館周辺。
 絵画館前の広場は、昔はなにもない、人々の集合するスペースとして、皇居前広場のような役割をもっていたに違いなかったが、いまではほとんどのスペースが駐車場として使われている。

 その一角に、噴水施設などのある池があるのだが、その池がいまから50年程前に、子供たちの水遊び用に開放されていたのだ。記憶違いかもしれないが「かっぱ天国」と名称されていた記憶がある。そして、それはわずか2~3年で終了してしまった。

 なにをきっかけに始まり、なにを契機に終了したのかは子供のボクには知る由もないけれど、そのプールとも水たまりともつかない遊び場は、最高に夏を満喫出来る場だったのは確かだ。
 水深もそれなりにあった。当時のボクは多分身長130cm程度だったろうが、すっかりと水没する程度の深さだった。だから、雄叫びを上げながら飛び込んだりしたものだ。
 親子連れなどほとんどいない。皆子供同士で遊びにきていた。

 一度、たいして泳げもしないくせに、泳げるようなフリをして脚が攣り、溺れそうになったこともある。
 必死で、自力で壁までたどり着いたが、そこはプールでもなんでもない池だから、とりすがるものもなく、壁伝いに何ヶ所か設置してあった出入り用の階段までたどり着いて助かった、などということもあった。
 それでも楽しかった。一シーズンのうちに、5~6回は通っていたと思う。

 クソ暑い夏の盛りに、ふと思い出す思い出の一つ。こんな思い出を共有できる人って、まだどこかにいるんだろうか? そして、管理された環境の中で、はみ出すことに怯えながら入るプールしか知らないいまの子供たちには、こんな思い出はないのだろうなとも、思った。

 あの「かっぱ天国」を企画し主催したのは、誰なのだろう? 可能性としては、絵画館、東京都、渋谷区といったところか……。
 どこでもいいけれど、いい思い出をありがとうと、この場を借りてお礼しておきたい。

あの頃 原宿

2011-07-16 00:49:55 | 東京「昔むかしの」百物語
 本当なら写真で残せていたならなと思うのだが、文字で残すのも悪くはない。
 今回は、最近歩く機会のあった原宿を描いてみよう。

 昭和50年代になって、原宿は今の原宿と大差のない賑わいの街になったけれど、それ以前は、本当に静かな明治神宮の参道だった。
 昭和20年代後半~30年代前半当時、叔母が表参道から横丁に10mほど入った、ちょうどオリエンタルバザールの裏手にあたる辺に住んでいて、歳が2才しか離れていない従兄弟がいたこともあり、それこそ毎週のように遊びに行っていた。

 オシャレでモダンな印象の街・原宿の原点は、代々木公園にある。
 元々は「代々木練兵場」と呼ばれる軍の施設だったが、敗戦に伴い連合国軍に接収され「ワシントンハイツ」というアメリカ軍の宿舎敷地となった。その影響で、表参道にスーベニアショップが誕生した。その代表格が2店舗。
 いまでも残る「オリエンタルバザール」と「キディランド」だ。いまから50年も前に、「キディランド」にはおもちゃとは思えないアメリカ製(日本製かもしれない?)のウェスタン銃が並んでいて当時の子供たちはこぞって買いに走った。ウェスタンは大流行りで、誰も彼もがコルトやS&Wなんてな銃メーカーの名前を知っていて、おもちゃの銃を一丁は持っていた。
 かく言う我が手元にも、銀色で把手が赤の銃がいまでも一挺残っている。

 当時、その2軒の店舗があるだけでもハイカラな印象の街だったが、歩行者天国実施前には、それほどの賑わいはなかった。ただ一年に二度だけ、どこからこれほどの人が湧き出るのかという日があった。

 まずは、初詣。これは今も変わらないが、押しつぶされそうな賑わいだった。原宿駅が臨時の改札を作り、天皇陛下の御召列車の発着スペースに出入りできたような記憶がある。これは記憶違いかもしれない。
 もう一日は、11月3日=文化の日だが、前夜から表参道を夜店が埋め尽くした。いま思いつくあらゆる夜店が立ち並び、半端ない人の波で溢れた。
 前夜祭とでも言うべき11月2日の夜は、時間の経つのも忘れ走り回り、大人たちも大目に見てくれた。代々木側の北参道には、当時の祭りに欠かせないジンタと共にサーカスがテントを張って人々を呼び込んでいた。一番印象に残っているのは網目状の球形の中をオートバイが天地左右を厭わず疾駆するアトラクションだった。猫娘もいた。大イタチもあった。そこはかとなくイカガワシイような、ワクワクドキドキ胸の高鳴る一夜だった。野外映画の映写会もあったような記憶がある。

 昭和36年に、東京オリンピック開催もあって米軍による接収が解除され、オリンピック選手村を経て現在の代々木公園となった。
 原宿が、お洒落な街として賑わうようになったきっかけは、同潤会青山アパートメントにクリエイティブなアーティストが居を構えて「プライベートブランド」ショップを立ち上げたことがひとつある。また歩行者天国が実施され、新宿や渋谷ほど人がおらず、広々とした道(参道!)で自由な表現ができたこともあるだろう。その一つが竹の子族などだった。
 
 いまとなっては当時のことを知る人も少なくなっているのだろうが、目をつぶると当時の光景が鮮明に思い浮かぶ。
 なにか本当にいい時代だったな。
 人が人としてきちんと生きていられたような気がする。

 竹下通り側はまた別の機会に。
 
 次回は意外な場所、外苑の絵画館前。これがまた意外な歴史があったのだよ。