2012年の3月に、このブログで荻窪のことを書きました。
それを、多少手を入れて再録することにします。
小学3年の冬休みに、上板橋から荻窪に移り住んだ。
昭和33年頃の荻窪は、まだまだ住宅街として成立するほどのものではなかった。むしろ今の軽井沢的な、避暑地然とした佇まいだったような記憶がある。
もちろん駅周辺には商店街もあれば、飲み屋もあった。だが、どこか普通の町という感じではなかった。
当時の中央線は、まだローカル線の域を超えず、まだ通勤電車という趣はなかった。今は「高尾行」というが、当時は「浅川行」だった。どこかの区間は単線だったような記憶もあるが、間違いかもしれない。
ボクが引っ越した頃には、まだ荻窪に丸ノ内線は乗り入れていなかったが、それから4年ほどで丸ノ内線が全線開通、荻窪は新宿や銀座に出かける恰好のターミナル駅になっていた。この頃から、中央線は通勤路線に変貌し始めていた。
荻窪駅南口駅前は、ある不動産屋が駅前の再開発に応ぜず立ち退きを拒否、つい10年ほど前まで昔と変わらない雰囲気を醸し出していた。
北口は、いまはなくなってしまったがほぼ立ち飲みの一杯飲み屋が階段を上った直ぐ右側で繁盛していた。駅を背にした右手には小さな店がひしめき合う一画があってラーメン屋やこちらも一杯飲み屋が、軒を連ねていた。その北側を甲州街道が東西に走っているが、昭和33年当時は、都電杉並線(高円寺-荻窪間は荻窪線と呼称)の終着駅があった。都電は、地下鉄丸ノ内線の開業の、翌昭和38年には廃線となった。
荻窪駅北口の左手一帯は、市場のような風情がある一角だった。やがて、西友がビルを建てる。
昭和33年当時、南口を出て駅から5分ほど歩いたところにはスケートリンクがあった。それもローラースケートリンク。リンク自体の営業をしていたかどうかは記憶にないが、そこにはクラブハウスもあり、中央軒という美味しいレストランまで併設されていた。
ボクは中央軒が大好きで、本当にハンバーグをよく食べた。デミグラスソースの美味さは半端なかった。なにを食べても美味しかった。そこそこ大人になってからの一時、本当に毎日のように食べに行って、あっという間に10㎏太り、少々足が遠のいた。
その後、場所を移動して営業していたが、いまではもうない。もう一度あのデミソースを味わいたい。
そこへいくまでの途中には、ピンク映画の常設館まであった。
要するに、避暑地っぽかったのだ。それもそのはずで、戦前から近衛家の別荘「荻外荘」(てきがいそう)があり、今は公園になっている音楽評論の草分け・大田黒元雄の別宅などがあった。ボクの住んでいた近くには、角川書店の角川一族の居宅もあった。
やれ「せんべい屋」の社長のお妾サンが住んでる家だの、ヤクザだったか右翼だったかの大物の別邸などが散在していた。
荻窪から阿佐ヶ谷にかけての一帯は、作家の井伏鱒二などが住まい「文人村」とも呼ばれていた。
早い話が、ちょっと文化の香りの漂う町であったのだ。北口の喫茶店「邪宗門」、中古レコード店「月光社」、南口の名曲喫茶「ミニヨン」……そうそう、ライブハウスの草分け「ロフト」も、荻窪の南口から始まったはずだ。ロフトの名物、若かりし頃の平野社長がコーヒーを落としたり酒をついでくれたりしたものだ。
一番記憶にあるライブは矢野顕子のライブかな。
荻窪での記憶は色々ある。青春のベースになったのがこの町だったから。
数年前までお世話になっていた音楽ショップ「新星堂」も、1974年頃から本社機能は荻窪にある。店舗はもっと前から今の本社敷地にあった記憶があるが、間違いかもしれない。
一時期荻窪はラーメンのうまい町として全国に知られたが、舌の肥えた文化人が多かったのは確かで、中央軒にも触れたが、荻窪に住まっていた頃に食に関して不足を感じたことは一度もない。
ことにラーメンは、やはり抜きん出ていて、春木屋、丸福、丸信はベスト3だった。ボクは切れのある魚介系出汁の丸信がことの他好きだった。この丸信ラーメン、実はあの昨年亡くなった山岸の親父さんが世に広めた東池袋のつけ麺「大勝軒」と、親戚関係にあるラーメンだったと、最近知った。うまいはずだな。
南口からちょっと外れたところには、「三ちゃん」という名物の焼きそば(そばではなくヴィジュアルはうどん)がうまい店があり、今でもあるようで、時々無性に行きたくなる。それこそ毎日のようにあっさりした細麺の中華そばか焼きそばを食べていた。
中でも忘れられないのが、非常にしょうもないことだが、北口の阿佐ヶ谷よりにあったパチンコ屋。中央線から店が見えるのだが、昼間の看板は「パチンコカモメ」と読めるのだが夜蛍光管に光が入ると「パ」と「カ」が切れていて読めず、口には出しにくい店名となっていた。それは、ボクが中学生から高校生になってもそのままだった。本当にかなり長い間放置されたままだった。お蔭で少年だったボクと仲間の笑いと話題のネタは尽きなかった。
荻窪は、ボクにとっては三分の一程度ではあるが、明らかに人生の原点になっている。
以上。
それを、多少手を入れて再録することにします。
小学3年の冬休みに、上板橋から荻窪に移り住んだ。
昭和33年頃の荻窪は、まだまだ住宅街として成立するほどのものではなかった。むしろ今の軽井沢的な、避暑地然とした佇まいだったような記憶がある。
もちろん駅周辺には商店街もあれば、飲み屋もあった。だが、どこか普通の町という感じではなかった。
当時の中央線は、まだローカル線の域を超えず、まだ通勤電車という趣はなかった。今は「高尾行」というが、当時は「浅川行」だった。どこかの区間は単線だったような記憶もあるが、間違いかもしれない。
ボクが引っ越した頃には、まだ荻窪に丸ノ内線は乗り入れていなかったが、それから4年ほどで丸ノ内線が全線開通、荻窪は新宿や銀座に出かける恰好のターミナル駅になっていた。この頃から、中央線は通勤路線に変貌し始めていた。
荻窪駅南口駅前は、ある不動産屋が駅前の再開発に応ぜず立ち退きを拒否、つい10年ほど前まで昔と変わらない雰囲気を醸し出していた。
北口は、いまはなくなってしまったがほぼ立ち飲みの一杯飲み屋が階段を上った直ぐ右側で繁盛していた。駅を背にした右手には小さな店がひしめき合う一画があってラーメン屋やこちらも一杯飲み屋が、軒を連ねていた。その北側を甲州街道が東西に走っているが、昭和33年当時は、都電杉並線(高円寺-荻窪間は荻窪線と呼称)の終着駅があった。都電は、地下鉄丸ノ内線の開業の、翌昭和38年には廃線となった。
荻窪駅北口の左手一帯は、市場のような風情がある一角だった。やがて、西友がビルを建てる。
昭和33年当時、南口を出て駅から5分ほど歩いたところにはスケートリンクがあった。それもローラースケートリンク。リンク自体の営業をしていたかどうかは記憶にないが、そこにはクラブハウスもあり、中央軒という美味しいレストランまで併設されていた。
ボクは中央軒が大好きで、本当にハンバーグをよく食べた。デミグラスソースの美味さは半端なかった。なにを食べても美味しかった。そこそこ大人になってからの一時、本当に毎日のように食べに行って、あっという間に10㎏太り、少々足が遠のいた。
その後、場所を移動して営業していたが、いまではもうない。もう一度あのデミソースを味わいたい。
そこへいくまでの途中には、ピンク映画の常設館まであった。
要するに、避暑地っぽかったのだ。それもそのはずで、戦前から近衛家の別荘「荻外荘」(てきがいそう)があり、今は公園になっている音楽評論の草分け・大田黒元雄の別宅などがあった。ボクの住んでいた近くには、角川書店の角川一族の居宅もあった。
やれ「せんべい屋」の社長のお妾サンが住んでる家だの、ヤクザだったか右翼だったかの大物の別邸などが散在していた。
荻窪から阿佐ヶ谷にかけての一帯は、作家の井伏鱒二などが住まい「文人村」とも呼ばれていた。
早い話が、ちょっと文化の香りの漂う町であったのだ。北口の喫茶店「邪宗門」、中古レコード店「月光社」、南口の名曲喫茶「ミニヨン」……そうそう、ライブハウスの草分け「ロフト」も、荻窪の南口から始まったはずだ。ロフトの名物、若かりし頃の平野社長がコーヒーを落としたり酒をついでくれたりしたものだ。
一番記憶にあるライブは矢野顕子のライブかな。
荻窪での記憶は色々ある。青春のベースになったのがこの町だったから。
数年前までお世話になっていた音楽ショップ「新星堂」も、1974年頃から本社機能は荻窪にある。店舗はもっと前から今の本社敷地にあった記憶があるが、間違いかもしれない。
一時期荻窪はラーメンのうまい町として全国に知られたが、舌の肥えた文化人が多かったのは確かで、中央軒にも触れたが、荻窪に住まっていた頃に食に関して不足を感じたことは一度もない。
ことにラーメンは、やはり抜きん出ていて、春木屋、丸福、丸信はベスト3だった。ボクは切れのある魚介系出汁の丸信がことの他好きだった。この丸信ラーメン、実はあの昨年亡くなった山岸の親父さんが世に広めた東池袋のつけ麺「大勝軒」と、親戚関係にあるラーメンだったと、最近知った。うまいはずだな。
南口からちょっと外れたところには、「三ちゃん」という名物の焼きそば(そばではなくヴィジュアルはうどん)がうまい店があり、今でもあるようで、時々無性に行きたくなる。それこそ毎日のようにあっさりした細麺の中華そばか焼きそばを食べていた。
中でも忘れられないのが、非常にしょうもないことだが、北口の阿佐ヶ谷よりにあったパチンコ屋。中央線から店が見えるのだが、昼間の看板は「パチンコカモメ」と読めるのだが夜蛍光管に光が入ると「パ」と「カ」が切れていて読めず、口には出しにくい店名となっていた。それは、ボクが中学生から高校生になってもそのままだった。本当にかなり長い間放置されたままだった。お蔭で少年だったボクと仲間の笑いと話題のネタは尽きなかった。
荻窪は、ボクにとっては三分の一程度ではあるが、明らかに人生の原点になっている。
以上。