普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昭和な」百物語<その9> 荻窪付近

2016-01-03 01:23:37 | 東京「昔むかしの」百物語
2012年の3月に、このブログで荻窪のことを書きました。
それを、多少手を入れて再録することにします。


 小学3年の冬休みに、上板橋から荻窪に移り住んだ。
 昭和33年頃の荻窪は、まだまだ住宅街として成立するほどのものではなかった。むしろ今の軽井沢的な、避暑地然とした佇まいだったような記憶がある。
 もちろん駅周辺には商店街もあれば、飲み屋もあった。だが、どこか普通の町という感じではなかった。

 当時の中央線は、まだローカル線の域を超えず、まだ通勤電車という趣はなかった。今は「高尾行」というが、当時は「浅川行」だった。どこかの区間は単線だったような記憶もあるが、間違いかもしれない。
 ボクが引っ越した頃には、まだ荻窪に丸ノ内線は乗り入れていなかったが、それから4年ほどで丸ノ内線が全線開通、荻窪は新宿や銀座に出かける恰好のターミナル駅になっていた。この頃から、中央線は通勤路線に変貌し始めていた。

 荻窪駅南口駅前は、ある不動産屋が駅前の再開発に応ぜず立ち退きを拒否、つい10年ほど前まで昔と変わらない雰囲気を醸し出していた。
 北口は、いまはなくなってしまったがほぼ立ち飲みの一杯飲み屋が階段を上った直ぐ右側で繁盛していた。駅を背にした右手には小さな店がひしめき合う一画があってラーメン屋やこちらも一杯飲み屋が、軒を連ねていた。その北側を甲州街道が東西に走っているが、昭和33年当時は、都電杉並線(高円寺-荻窪間は荻窪線と呼称)の終着駅があった。都電は、地下鉄丸ノ内線の開業の、翌昭和38年には廃線となった。

荻窪駅北口の左手一帯は、市場のような風情がある一角だった。やがて、西友がビルを建てる。
 
 昭和33年当時、南口を出て駅から5分ほど歩いたところにはスケートリンクがあった。それもローラースケートリンク。リンク自体の営業をしていたかどうかは記憶にないが、そこにはクラブハウスもあり、中央軒という美味しいレストランまで併設されていた。
 ボクは中央軒が大好きで、本当にハンバーグをよく食べた。デミグラスソースの美味さは半端なかった。なにを食べても美味しかった。そこそこ大人になってからの一時、本当に毎日のように食べに行って、あっという間に10㎏太り、少々足が遠のいた。
 その後、場所を移動して営業していたが、いまではもうない。もう一度あのデミソースを味わいたい。
 そこへいくまでの途中には、ピンク映画の常設館まであった。

 要するに、避暑地っぽかったのだ。それもそのはずで、戦前から近衛家の別荘「荻外荘」(てきがいそう)があり、今は公園になっている音楽評論の草分け・大田黒元雄の別宅などがあった。ボクの住んでいた近くには、角川書店の角川一族の居宅もあった。
 やれ「せんべい屋」の社長のお妾サンが住んでる家だの、ヤクザだったか右翼だったかの大物の別邸などが散在していた。
 荻窪から阿佐ヶ谷にかけての一帯は、作家の井伏鱒二などが住まい「文人村」とも呼ばれていた。
 早い話が、ちょっと文化の香りの漂う町であったのだ。北口の喫茶店「邪宗門」、中古レコード店「月光社」、南口の名曲喫茶「ミニヨン」……そうそう、ライブハウスの草分け「ロフト」も、荻窪の南口から始まったはずだ。ロフトの名物、若かりし頃の平野社長がコーヒーを落としたり酒をついでくれたりしたものだ。
 一番記憶にあるライブは矢野顕子のライブかな。

 荻窪での記憶は色々ある。青春のベースになったのがこの町だったから。
 数年前までお世話になっていた音楽ショップ「新星堂」も、1974年頃から本社機能は荻窪にある。店舗はもっと前から今の本社敷地にあった記憶があるが、間違いかもしれない。

 一時期荻窪はラーメンのうまい町として全国に知られたが、舌の肥えた文化人が多かったのは確かで、中央軒にも触れたが、荻窪に住まっていた頃に食に関して不足を感じたことは一度もない。
 ことにラーメンは、やはり抜きん出ていて、春木屋、丸福、丸信はベスト3だった。ボクは切れのある魚介系出汁の丸信がことの他好きだった。この丸信ラーメン、実はあの昨年亡くなった山岸の親父さんが世に広めた東池袋のつけ麺「大勝軒」と、親戚関係にあるラーメンだったと、最近知った。うまいはずだな。
 南口からちょっと外れたところには、「三ちゃん」という名物の焼きそば(そばではなくヴィジュアルはうどん)がうまい店があり、今でもあるようで、時々無性に行きたくなる。それこそ毎日のようにあっさりした細麺の中華そばか焼きそばを食べていた。

 中でも忘れられないのが、非常にしょうもないことだが、北口の阿佐ヶ谷よりにあったパチンコ屋。中央線から店が見えるのだが、昼間の看板は「パチンコカモメ」と読めるのだが夜蛍光管に光が入ると「パ」と「カ」が切れていて読めず、口には出しにくい店名となっていた。それは、ボクが中学生から高校生になってもそのままだった。本当にかなり長い間放置されたままだった。お蔭で少年だったボクと仲間の笑いと話題のネタは尽きなかった。
 
 荻窪は、ボクにとっては三分の一程度ではあるが、明らかに人生の原点になっている。

以上。

東京「昭和な}百物語<その8> 新宿ゴールデン街

2015-10-27 23:31:46 | 東京「昔むかしの」百物語
話は、少し飛ぶ。

昭和40年代に入り、ボクは新宿へ遊びに出掛けるようになった。簡単に言えば映画を観に行くようになったのだ。

もちろんそれまでにも映画は観に行っていた。ただし観に行く映画館は決まっていた。上板橋東映だ。当然東映の時代劇。時代劇とはとても思えない和製ミュージカル、美空ひばりの「七変化狸御殿」シリーズなんてのを観たのも、上板橋東映だった。

いつも3本立てで、中村錦之助、月形龍之介、片岡千恵蔵、市川歌右衛門、東千代之介、大友柳太朗、大川橋蔵なんてスターたちの映画を、3年間ほぼ毎週見ていたと思う。

だが10歳の冬に荻窪へ引っ越し、東映時代劇を観る機会がなくなった。荻窪にも映画館はあったが、ピンク映画の常設館だった(それも北口のピンク映画館は珍しい大蔵映画の常設館だった記憶がある。南口にあった映画館もピンク映画専門館だった。どんだけよ!)。近間では、洋画の阿佐ヶ谷のオデオン座辺りへはよく行った。

だがロードショーは、新宿だった。それも歌舞伎町のど真ん中。新宿コマ劇場周辺だった。だから、一人ではいかない。3、4人で徒党を組み出かけた。

高校時代になると、一人で行くようになった。当時は高校演劇に入れ込んでいて(1年の時には高校演劇で全国制覇し、2年の時には自分の作品で東京都大会で2位になったが、全国大会には行けなかった)、映画を観るのは当然の通過儀礼のようなものだった。

やがて芝居の世界にどっぷりつかり、政治の嵐の真っただ中で撃沈し、気が付けば毎晩のようにゴールデン街で飲んでいた。色々ここには書けないようなディープな世界もあったが、ゴールデン街で飲むのが好きで、歩いて帰れる富久町に家を借りて住んだりもした。

ゴールデン街は、都電の引き込み線があった。季節ごとにうらぶれた風景を見せてくれて大好きだった。

そのうち、気が付けば雑誌の編集者になっていて、編集部が区役所通りと職安通りのぶつかる少し手前にあったものだから、ゴールデン街を卒業できなかった。

ボクがゴールデン街を卒業したのは、30歳ごろ。1980年に入り、ロック雑誌の編集者を辞してフリーになって仕事が忙しくなり、足が遠のいた。

一番面白い時代に、一番面白いゴールデン街で、一番面白い人たちと同じ空気を吸っていた。それがボクにはたまらなく嬉しい。

あの狭い魔窟を這い廻るかのような道を思い出すと、今でも心がときめく。

二度とは戻れない時代の、二度とは通えない、あの道。

負のモノが負のモノとして価値を持ち、人を引き付けた時代の、あの道。

東京「昭和な」百物語<その7> 上板橋2

2015-06-13 15:12:16 | 東京「昔むかしの」百物語
上板橋に住まっていたのは、およそ4年間だったろうか。以前にも書いたが、典型的なハモニカ長屋に住んでいた。6畳一間にキッチンのついた(水盤はあったが、水はトイレの横にあった井戸水だった)、風呂もトイレもない(トイレは共同のボッチャントイレ、風呂は近くの共同浴場に通っていた)部屋が片側にずらりとおよそ6部屋くらい並び、廊下を挟んで反対側には4畳半で同じ条件の部屋が、8部屋くらい並んでいて、加藤家は、6畳と4畳半を一部屋ずつ借りていた。
廊下は一直線に表から裏に筒抜け状態で、いま思えば本当になんとも言いようのない佇まいだった。
余談だが、ボクはこの廊下を端から端まで勢いをつけて走り、出入り口を抜けたとたんに空へ飛び立つという夢を、ほとんど週1ペースで見ていた記憶がある。あの浮遊感は今でも忘れない。さすがに30歳を過ぎてからは見ていない。

ここでの暮らしは、皆さんが想像するくらいには楽しかった。月に一度は停電したし、雨の季節には部屋の壁をナメクジが這い回り、夜になると彼らの歩いた軌跡がキラキラと輝いていた。台風の時はそりゃもうワクワクした。雨戸を閉めて上から父がバッテンに材木を打ち付けるのを、自分もやりたいと思いながら、みていた。

風呂は近所に共同浴場があって、一風呂浴びて外に出ると紙芝居屋のおじさんが一席打っていた。あの頃の紙芝居屋のおじさんは、まさに一席打つ、という表現が適切な、プロ、語りのプロだった。きっと役者になりたかったとか、弁士になりたかったというような過去がある人たちだったのかもしれないな。
その紙芝居の出し物の中で、いまだに忘れられない話がある。「笑い虫」という、今でいえばホラー物。良い家に入った女中さん(この言葉は差別的な用語だと言われてきたが、とうとう意味の分かる人もほとんどいなくなってしまったから、ニュアンスとして使う)が、夜な夜な廊下を笑いながら歩くという、なんと言うこともないのだが、そこはかとなく怖い話だった。家の主人に格別の恨みでもあったのだろう、その理由は覚えていないが、確か主人は恐れおののいていたように思う。紙芝居だから絵があるわけだが、その女中さんの絵はオカメ&ひょっとこのオカメさんのようだった。
そのせいか、ボクはオカメさんのお面をみると背筋に冷たいものが走る。それはいまでも。オカメさんが紙芝居で見せたあの笑顔の裏に潜む、誰にということもない怨念のありようが、いまでも怖いのだ。
ソースせんべいを5円で買って、手に力が入りせんべえが割れるほど、ちょっと怖い紙芝居を見ていた子供時代、というわけだ。
断っておくと、この時代、まだどの家庭にもTVはない。あるのはラジオ。NHKで夕方放送していた「新諸国物語」が楽しみだった時代。ボクが聞いていたのは「笛吹き童子」「紅クジャク」「オテナの塔」あたり。「紅孔雀」は中村錦之助主演で映画にもなったはずだ。ボクは観たもの。
「ヤン坊ニン坊トン坊」という番組もあった。黒柳徹子さんが末っ子のトン坊の声を担当していた。

わかるかなぁ! わかんねぇだろうなぁ! イェーイ!

2015-04-25 00:27:42 | 東京「昔むかしの」百物語
久しぶりです。ほとんど毎日、午前様状態。
原稿一つも書けませんでした。

さて、タイトルの、この言葉を知っている人は、最早それほど多くもないかな?
ショカクヤチトセ(松鶴家チとせ)という落語家(名前はそれ風でも、単なるピン芸人だったかもしれない)の生み出した、1970年代に一世を風靡した流行語。
なぜこの言葉をここで選んだのかというと、この言葉の持つ、深い哲学的な側面をみたからだ。
ポイントは、はじめから「わかるはずがない」と決めつけていることで、「イェーイ!」でダメを押している。
要するに、俺の話が分かる奴はいるはずがない、という意味合いを、少しだけオブラートでくるんで断定しているという言葉。
当時も今も、これほど相手に対して断定的にものを言っている言葉は、そうない。
正直、当時、あか抜けない田舎の兄ちゃん然とした松鶴家チとせを、鼻で笑っているようなところもあったが、今となっては、ひれ伏すのみ。

要は、人を小ばかにしたようなこの言葉も、今となってはとても人に対して優しい言葉と受け取られるのではないかと、ちょいと思ったりするのだ。
ボクとしては、言葉は生き物で、いつ何時豹変するかもしれず、いつ何時色を失うことがあるやもしれず、いつ何時思いもよらず人の心を打つこともあるかもしれないということが、言いたいだけなのだ。

たったひとつの言葉が、まるでカメレオンのように意味も、姿も変える。
これは面白いことなのかもしれないと、最近思い始めているのだ。

久しぶりの原稿が、こんな話?

この回路でしか頭が回らないのよ、今日は。



東京「昭和な」百物語<その6> 上板橋1

2015-04-05 23:50:16 | 東京「昔むかしの」百物語
小石川から、上板橋に引っ越した。たぶん6歳になっていたはずだ。
東武東上線の上板橋は、池袋からおよそ12~3分だったと思う。今から考えればそれほど遠くもないのだが、当時は相当に遠かった。

緑ヶ丘幼稚園という幼稚園に転園した。ふと思い出したが、小石川で通っていた幼稚園は大山とかなんとか、そんな感じの名前だったような……。残念だが、まだ曖昧だ。

緑ヶ丘幼稚園には、半年くらいしか行っていない記憶だが、どうだったか……。

ボクが上板橋に引っ越した当時は、自治体が汚物を回収するのに、まだ牛の曳く大八車に肥桶をつんで各家庭をめぐっていた時代。それは直ぐに車での回収に代わり、バキュームカーにとって代わられたのだが、確かにまだ大八車だった。そのうちに、クロガネの三輪車やミゼット(ミゼットには肥桶は積めないけどね)などが登場してくる。

車と言えば、タクシーはルノーだらけだった。なぜフランス車だったのか? なんでだろう?

小学校は文京区立窪町小学校に入学した。越境入学というヤツだ。姉も同じ窪町小学校に通っていた。

小学生のボクは、革靴を履いて、制服などなかったが、まるで制服のように立派なテイラードの上下を着て、毎朝通勤客で満員の東上線から池袋で乗り換えて、できたばかりで淡路町くらいまでしか行かなかった丸ノ内線で茗荷谷まで通っていた。

窪町小学校の一番の思い出は、地下一階のコークス貯蔵エリアだ。冬のダルマストーブ用の燃料を、子供たちがバケツを下げて地下まで取りに行くのだ。そのエリアはほとんど灯りも無いような薄暗いスペースで、子供たちにとっては一種の肝試しのようなものだった。

まだ、あのコークスの乾いたような臭いを忘れない。二人組で行くのだが、恐る恐る出かけて行っては、コークスで一杯の重たいバケツをぶら下げて、逃げるように早足で階段を上った。

学校には基本電車で行くのだが、実はボクは電車で行くうちに気分が悪くなっていった。耐えられない日もあって、そんなときはバスで池袋まで出た。このバスも壮絶で、乗降口の扉が閉まらない状態で、ステップにしがみつくようにして乗った記憶もある。

通勤ラッシュが始まりかけた時代。それは凄まじいもので、無理やり客の尻を押し込んで、閉まらない扉を無理に閉めるという荒業が、毎日行われていた。

その中に身長110㎝位の子供も一緒に押し込まれる。降りたくても降りられないなどという子も大勢いた。幸いボクは終点だったから、そんな憂目には合わずに済んだ。

茗荷谷から地下鉄に乗るのが嫌で、歩いて帰ったこともある。池袋から上板橋まで歩いたこともある。電車で帰るよりは、はるかに気分が良かったのだ。

<続く>


東京「昭和な」百物語<その5> 小石川

2015-03-01 23:26:47 | 東京「昔むかしの」百物語
小石川という地名に、なにか切ないほどの郷愁を感じる。

取り立てて深い思い出があるわけではない。ボクが4歳から6歳になるかならないか、約1年と少し暮らした土地というだけだ。

だが、多くの思い出はある。神社の名前は忘れたが、秋祭りに山車を引いた記憶がある。しかも、鼻の筋に白い化粧を施された。

当時通っていた幼稚園(なぜかボクは転園して2か所の幼稚園に通っている。その最初の幼稚園で、お寺さんの経営する幼稚園だった。名前は忘れたが今該当するのは福聚院というお寺さんの経営する福寿幼稚園かな?)で、楽器演奏があり、大太鼓を担当した記憶もある。考えてみればもう60年も前のことで、すっかり姿形を変えていることだろう。

住んでいたのは、春日通りの後楽園遊園地の裏側に面した、冨坂の中腹あたりの路地を入ったところだった。周辺は製本工場が連なっていて、リズミカルなガチャコンガチャコンという機械音が、朝から晩まで聞こえていた。

ある日遊んでいて、野良犬にお尻(右の太ももに近かった)を噛まれた。

断片的だが、なにか思い出すと甘酸っぱいものがこみあげてくる、そんな場所だ。

数年前に、仕事が早く終わり、まだ明るかったこともあって、自分の住まっていた辺りを歩いたことがある。全く様相は変わっていて、ほとんど何も発見できはしなかったのだが、ただ一つ、冨坂警察署だけは、同じ場所にあるような記憶がある。

記憶というのは、全くいい加減なものだが、それでも何よりのガイドにはなる。

薄れかけた記憶を頼りに、冨坂周辺をもう一度散策してみたいなとは思う。

東京「昭和な」百物語<その4> ガード下の靴みがき

2015-02-16 01:20:40 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの母は、すでに亡くなっている。今から5年前に93歳という高齢で亡くなった。
大正5年生まれで、とてもハイカラな女性だったように思う。

昭和11年に起きた2.26事件の時は勧銀にタイプライターとして務めていて、事件の真っただ中にいた。雪の中を、当時住んでいた中野まで歩いて帰ったという話を聞いたことがある。

やがて、戦争が始まると勧銀でボルネオ勤務のタイプライター募集があり、即座に応募し昭和18年頃にはボルネオにいたという。そこで詳細は知らないが、軍属と恋に落ち、昭和20年の終戦前に帰国(といってもすんなりと帰国できたわけもなく、彼女の乗る船以外はすべて撃沈され、九死に一生を得て帰国している)、軍属との間にできた私生児である娘(ボクの姉である)を産んでいる。

戦後、父と結婚し松江に住み、ボクを産む。

彼女は、ボクを連れて映画や芝居、歌の舞台などに足しげく通った。そうした思い出の中で、最も鮮明に覚えているのが、なに劇場かは覚えていないが、銀座にあった劇場で観た宮城まり子さんの「ガード下の靴みがき」のステージだ。記憶の中ではNHKの公開放送かなにかのステージだったような気がする。おそらく昭和30年頃のことだ。

今で言うオーバーオールにハンチングを被った宮城まり子さんが、夕焼けに染まるガードの書き割りの前で歌う姿を、昨日のことのように思いだす。

そしてその宮城まり子さんの姿と、なぜか「道」というイタリア映画(ずっと後にフェデリコ・フェリーニの作品だと知るのだが)のヒロイン=ジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナと被って記憶の中に残っているのだ。

ひょっとすると、「道」の主題歌の「オー・ジェルソミーナ」(ひょっとしたら違う題名だったかもしれない)を、宮城まり子さんが歌っていたのかもしれない。

そして、この記憶はボクの中で、最良の、そして最高の記憶として今もある。「道」も母が連れて行ってくれたのだと思う。よもやボクが一人で観に行ったわけもないし……。

「ガード下の靴みがき」を、もう一度聴きたい、「道」を観たい、「オー・ジェルソミーナ」を聴きたいと、心の底から思う。鮮明に残っているボクの記憶の中のすべてを、もう一度トレースしたくてたまらない。

あの当時はまだ傷痍軍人の姿があちこちで見られた。上野の地下道には溢れていたし、新宿の東口と西口をつなぐ地下道にも大勢いた。澁谷にも池袋にももちろんいた。当時の傷痍軍人さんは、本当の帰還兵だった。

やがて、宮城まり子さんは肢体不自由児療護施設ねむの木学園を設立し、芸能活動から身を引くのだが、なにか傷痍軍人の記憶とねむの木学園創立の記憶もまた、ボクの中では重なっている。なにか、不思議な感覚として残っている。

こんな記憶も、実は母が残してくれたものだと、最近改めて感謝している。なにがどうということもない記憶なのだが、昭和中期の記憶としてボクの中でこれから先も残り続けるのだろう。

東京「昭和な」百物語<その3> 原宿界隈-1-

2015-01-25 20:42:16 | 東京「昔むかしの」百物語
代々木に住んでいた叔母一家が、原宿に引っ越し、代々木での思い出は原宿の思い出へとシフトした。

昭和30年代前半の原宿は、もろに明治神宮の表参道「然」とした、静かな町だった。今のような喧噪も、若者の姿もまったくなかった。

青山通りから原宿駅にかけての、道の広さや起伏は、まったく変わらない。

ただ、青山通りへ向かう左手には、古色蒼然といった感じの「同潤会アパート」が建ち、その斜め向かい辺りに、いまも当時の面影そのままの「オリエンタルバザール」があり、そこから明治通りまで下る中間あたりには「キディーランド」があった。

当時、とてもモダンな印象を受けたこの3つのランドマークは、どうしたわけか神宮の参道というおよそ似つかわしくない場所に建ちながら、だがとてもしっくりと街に溶け込んでいた。もっというと、ランドマークと言いはしたが、これしかなかったと言って良い。いまのラ・フォーレ原宿の場所は教会だった記憶があるくらいだ。

同潤会アパートは別にして、「オリエンタルバザール」と「キディーランド」は、原宿の参道沿いに建つ理由があった。それというのも、昭和20年8月15日の敗戦によって、進駐軍が日本中に基地を作り、駐留軍属の住居スペースを日本から接収していたが、原宿の明治神宮の裏手、いまの代々木公園、国立代々木競技場、国立オリンピック記念青少年総合センター、NHK放送センターなどを含みこむ広大な土地は、ワシントンハイツという在日アメリカ軍の中級軍属用住居施設があったところなのだ。それもわずか800数10戸の。

「オリエンタルバザール」は、その駐留軍属のためのスーベニーショップとして。「キディーランド」は軍属の子供たちのためにあったといって良いのだ。

ボクがまだ小学校の高学年か、中学1年頃にキディーランドで買ったオモチャが、まだ手元にある。

当時日本の子供たちの間でも(大人もだった!)一大ウエスタンブームが巻き起こっていた。それはテレビドラマの「ララミー牧場」や「ローハイド」、「拳銃無宿」などといった西部劇ドラマの影響もあったが、なによりアメリカという国への憧れがそうさせたのだと思う。

ということで、その手元にあるオモチャとは拳銃である。当時1,000円だったと思う。相当な金額だったが、お年玉をためてあったお金で買った。これである。



なにが凄いといって、弾である。もちろんオモチャなのだが、鉛でできている。

いまではメッキも剥げてしまっているが、本体はダイキャスト製で、そこそこの重量感がある。ウエスタン・ファンはリアルなコルト45などをアメ横の中田商店などの専門ショップで手に入れていたが、ボクはそれほどのファンでもなかったので、これで充分だった。(もし欲しい方がいればお譲りします!)

やがて、ワシントンハイツは1964年の東京オリンピック開催を機に日本に返還され、選手村となり、現在のような代々木公園、競技場などの点在するスペースになった。(ちなみに戦前は練兵場だった)

原宿はお召列車の発着場でもあった。現在もそうなのかは判然としないが、都内でもなにか特別な一帯だった。その特別感は、明治神宮に足を踏み入れれば、いまでもわずかに感じることはできる。

忘れていたが、いまの明治神宮の本殿の屋根瓦には、ボクの名前の刻まれた瓦がある。父親が、戦災で焼失した本殿の再建に寄付をしたことで、そういうことになったらしい。

そいつが本当かどうか、一枚一枚瓦の裏を確認するわけにもいかないので、わからない。



労働の価値

2015-01-19 00:34:20 | 東京「昔むかしの」百物語
労働の価値は、こんなに低いものだったのかと、改めて認識した。

昭和という時代の労働は、いまの合理主義、効率主義の産み落とす労働価値と比較すると、ほとんどただ怠けていたというしかない。

一方で、その怠けていたという側面にも、本当のところ十分な価値はある。労働という範疇には入らないのだろうが、モノ=価値を作り出すという側面から見れば、充分な価値を持つ。

そこがないがしろにされている感は、否めない。

21世紀に入って、音を立てて価値の転換が起こった。そのことに、昭和を生きた人間は、意外にも気付かなかった。

気付いた人もいるのだろうが、多くは気付かなかった。

ボクも気付かなかった一人。

いま、そのことを知り、敢えてきついがその価値基準を学んでみようと思い始めている。

良いのか悪いのか、実際にやってみなければわからないというところだ。


東京「昭和な」百物語<その2> 代々木

2015-01-11 15:11:38 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和20年代後半から昭和40年代の後半まで、代々木駅とその周辺はほとんど変化もなかったと思う。

4歳だったボクが家族と共に、山陰の古都・松江から上京したのは、昭和28年の暮れか、29年の初めだったと思う。
確かめようにも、父も母もいない。二人の兄たちは当時すでに「大人」で、別行動だった。先に東京に出ていたのではなかったかと思う。姉はボクと4歳違いだったが、記憶は定かでないという。

上京したボクら家族には、住まうところがなかった。真っ先に転がり込んだのは母の姉の暮らす、代々木にあったとある有名企業の二階建ての社宅(というより社屋に生活スペースが隣接している、いかにも昭和な佇まいの建物)だった。住まいが決まるまでのつなぎで「居候」ということになったようだ。

その居候先は、今でもある。JR・山手線の代々木駅を渋谷方面に向かうと、建物としては新しく立派なビルになっているが当時と同じ社名の看板が線路脇左にすぐ見える。

明治神宮の北参道を降りてきたところで、半年ほどの居候中、遊び場はもっぱら明治神宮だった。

代々木駅も、現在は地下鉄なども乗り入れて、なかなか複雑な構造になっているが、昔は原宿寄りの改札口一つだけだった。ずっと長い間不思議だったのだが、4番線の総武線ホームと1番線の山手線ホームをつなぐアンダーパスは、当時から存在していた。なんのためにあったんだろう? 駅前の雰囲気も、駅を取り巻く建物は高層のビルディングになってはいるが、駅前の交差点の醸し出す雰囲気は、昔とあまり変わりない。

いまはないが、駅を降りて線路沿いに原宿方面に歩くと、「お城」(ボクの記憶では……)というお好み焼き屋があった。ボクらが居候していた頃にすでにあったか否かは判然としないが、造りがお城のような外観で、3階か4階建てだった。記憶にある店はそれだけ。少し大人になって2、3度行ったことがあるが、いつの間にかなくなっていた。

線路を挟んでやはり原宿方向に向かって歩くと、共産党の本部が当時からあった。

喧噪の新宿から一駅離れただけで、なにか鄙びた駅という印象が長く残った。

代々木がことさらににぎわいを見せ始めたのは、1959年以降「代々木ゼミナール」が開校してから。60年以降は、叔母の家族が原宿に転居していたので、代々木にはあまり行かなくなっていた。

当時のことを考えるだけで、鮮明に蘇る思い出がいくつかある。

別の機会に書くが、一つは明治神宮北参道周辺に現れたサーカス一座の話(以前にも何度か書いているが…)、一つは鳩小屋の話、そして5寸釘の話。

ここでは、5寸釘の話を書いておこう。

昭和30年前後の子供の遊びといえば、アクティブな女の子はゴムダンや縄跳び、おとなしめの子はママゴトや着せ替え人形遊び、お手玉、綾取りくらいのもの。男は鬼ごっこ(何種類かあった)、Sケン、水雷艦長、ビー玉にメンコ、ベーゴマ、おとなしめの子は軍人将棋なんてところだった。

その中に、的当てのような遊びがあった。ぺったんこにした5寸釘を手裏剣代わりに、砂山などで作った的に当てる。ただそれだけなのだが、5寸釘をぺったんこにするやり方が、いまでは考えられない方法だった。これは時効だと思うから書く。

実は、居候していた先の代々木の建物は本当に線路に隣接していて、子供のボクでも崖をよじ登って線路に立てた(当時5~6歳!!)。フェンスや壁など何もなかった。だから線路の上に、5寸釘を真っ直ぐ線路に寝かせて置きさえすれば、電車の行き過ぎた後に、ペッちゃんこになった5寸釘が光り輝いて残されていた。

悪くすれば、自分がペッちゃんこになっていただろうが、そんなことにはお構いなしで、何本もぺったんこ5寸釘を作った。

思えば恐ろしく危険なことなのだが、当時はまだ分刻みの運行スケジュールではなかったからできた芸当なのだろう。

後に、友達に聞いたところによれば、多くの男の子は都電の線路で作成していたらしい。

山手線での作成者は、ボクと従兄弟とおそらく数名だっただろう。

なにか胸の内が、もやっとする代々木の思い出。

東京「昭和な」百物語<その1>

2014-12-22 01:00:25 | 東京「昔むかしの」百物語
はじめに

 いまの東京という町は、変化の激しい落ち着かない町だ。

 ボクはいま60歳代の半ばだが、4歳の時に家族と共に、山陰の古都・松江から移り住んだ。父の仕事の都合もあったが、後々書くが、ボクの存在が大きなファクターだった。
 そんなわけで、すでに60年以上を東京で過ごしていることになるが、ボクが20歳前後だから昭和45年頃だろうか、東京はそれまでの戦後四半世紀以上、さほど変化をしてこなかった町の相貌を、突如変化させ始めた。
 それは美しい嫋やかな女性が、嫉妬と憤怒で鬼=夜叉に変貌するかのごとき変わりようだった。

 昭和33年に東京タワーが完成し、東京オリンピックという画期的なイベント開催が決まり、昭和36年頃から新幹線にまつわる工事が進捗し、首都高速道路が縦横にめぐらされ、近代都市のイメージを作り上げ急激な変化を遂げたようには見えた。
 だが、実際のところさほど町の本質は変わっていなかった。そこで生きる人々の息使いが変わらなかったと言って良いかもしれない。

 東京の変貌は、自らに「本質的に変わらなければならない」と義務付けた時から始まったと、ボクには思えてならない。それまでは、戦後を引きずっていたという言い方ができるだろうか。実際に戦争に赴いた人々、戦中の「負」の生活を余儀なくされた銃後の人々の意識が、東京という町にも充満していたように思えるのだ。要は、日本人全体が戦争という「経験」から抜け出せずにいたのだ。

 それが、戦後世代、ことに団塊の世代(こう一括りに言われるのは釈然としないのだが…)と言われるボクも含まれる世代が、社会に少しずつその影響力を強め、実際に社会参加し始めた頃に、東京は劇的に変化し始めたのだ。

 その変化に転じた一瞬を、ボクは記憶している。もちろんそれはボク個人の「意見」であり「認識」だと断っておくが、それは、1968年10月21日だった。世に言う「新宿騒擾事件」こそが、東京という町の劇的な変化の始まりだった。「新宿騒擾事件」が、変化の引鉄をひいたのだ。

 第二次世界大戦を引きずり続ける「旧世代」に、「反戦」という、まったく異なる価値観を武器に「新世代」が「仕掛け」たのだ。「旧世代」と「新世代」という言い方を言い換えると、「秩序」と「無秩序」とでも言えそうだ。

 この頃、新宿の「小便横丁」(いまでは「思い出横丁」などと言っている)にあった軍隊酒場が消えた。

 なんとも象徴的なことだった。

 そんなこんなで、話は始まる。

ここで書きます。「東京『昭和な』百物語」

2014-12-18 14:08:50 | 東京「昔むかしの」百物語
ここで、「東京『昭和な』百物語」と題して、エッセイを書くことにしました。

昭和の東京の風景を、ボクなりに切り取って綴ります。すでに同様のコンセプトで書いているものはそのままカテゴリー「東京『昭和な』百物語」に移行します。

「百物語」といっても、おどろおどろの幽霊話を書くわけではありません。

本当に活気に満ちていた、アナログの時代の記憶を書き留めていこうと思います。

これまでの経験から、「途中下車」も考えられますが、そうはならぬよう、心してまいります。

楽しみにして待っていていただければ……。

芝居! 演りたくなってきた!①

2014-10-03 00:20:25 | 東京「昔むかしの」百物語
ちょっと長くなるけれど、書いておかないとなと思ったので、何回かに分けて書く。

中学を卒業する間際、もうじき高校入試という年の瀬。

東京12CHが、開局準備の試験放送のような形(確かまだ本放送は開始していなかったと記憶している)で、その年の高校演劇コンクール東京都大会・優勝校=東京都立杉並高等学校演劇部の「教室」を放送した。

ボクはそいつを見てしまった。衝撃だった。「この高校に入りたい」と、舞台放映を見終わった瞬間にそう思った。

同じ都立のT高校を受けるつもりで準備していたのだが、杉並高校受験に切り換えた。私立のW高等学校受験も準備していたが、こちらは親には申し訳ないが答案を白紙で出した。背水の陣とでも気取ったのかと、今では思う。

実は、当時親と進路で話し合いをしていた。ボクは中学卒業と同時に子役というか芝居の世界に入りたかった。だが親は「せめて高校は卒業して(大学入試の時も「せめて大学に入るだけでも入って」といっていたな)」という。それが、高校に入っても、充分自分の芝居に対する思いを充足させることのできる環境がある! と思ったわけだ。

結局、ボクは杉並高校に入学、脇目も振らずに演劇部に入部した。

1年の夏には、新幹線で岡山まで高校演劇コンクール全国大会に東京都代表として出かけ、12CHで見た「教室」で全国優勝を果たした。もちろんその時は裏方。忘れもしない岡山駅前の天満屋というローカルデパートのステージだった。

2年になって、今度は自分で脚本を書いて、東京都大会に出場。「現代の戦い」というちょっとシュールな脚本だったが、どうした加減か東京都で2位となった。だが、残念ながら全国大会行きは果たせなかった。

この段階で、ボクは芝居の世界で生きると決めた。

だから大学は「入るだけ」と言う約束で、W大学の第二文学部演劇科に入学した。同時に「三期会」というブレヒト劇団に研究生として入った。

なにか、楽しい日々の始まりを予感させたのだが、そうは問屋がおろさなかった。

続きはまた次回。

自衛隊の思い出。災害救助、頑張ってください。

2014-08-23 15:31:00 | 東京「昔むかしの」百物語
広島のみならず、全国各地の水害による被災者の皆さん、救助活動をされている皆さんに心より祈りとエールを送ります。

ボクの父は、そこそこに名の知られた人だったのか、ボク自身は幼かったこともあって詳しくは覚えていないが、政治家先生の選挙などにもそれなりに力を貸したりしていたようだ。

父の口から聞かされた記憶のある、関わりのある政治家の名前といえば、島根の竹下登、岩手の志賀健次郎、志賀節・父子、青森の津島雄二などと言った代議士の名前だった。

ボクがよく覚えているのは、志賀健次郎。彼は昭和37年7月~38年7月に防衛大臣を務めた。そしてその任期中の自衛隊観閲式に父と一緒に参加したことだ。

敗戦後まだ17~8年の頃の軍事装備を、小学生だったか中学生だったかのボクは、きっとキラキラと目を輝かせて見ていたに違いない。

そして問題はその観閲式の場所だ。おそらく今では朝霞などの自衛隊駐屯地で行われているのだろうが、ボクの記憶が間違いでなければ、昭和37年の自衛隊のパレード、観閲式は千駄ヶ谷の絵画館前だった。

今ではデート・スポットとして有名な絵画館前を、軍隊と呼べない軍隊が当時の最新装備を誇らしげに掲げながら、パレードしていたのだ。おそらく、戦後初の陸自最高装備と謳われた国産61式戦車なども、そこで実物を見たかもしれない。

その自衛隊というキーワードで、一つ思い出す苦い思い出。

それは昭和37年の観閲式を遡ることさらに5年、ボクが小学校2年のこと。当時は板橋区上板橋に住んでいた。小学校は文京区立窪町小学校に通っていたから、学校が終わり地下鉄の茗荷谷から池袋経由で東上線の上板橋下車、商店街を抜け、川越街道を渡って家にたどり着く。

だが、その日は学校からの帰り道、お腹が痛くなった。それでも家まではもう5分も歩けば辿り着く、と思った。

トイレに行きたいのを我慢して、もうじき家に着くその前に、川越街道を渡らなければならない。渡れば1分もかからない。

信号などという洒落たものなどまだそれほどなく、交通量もそれほどではない時代。普通に川越街道を渡れれば、なんということもなくトイレに駆け込めるはずだった。

それが!

あろうことか川越街道を大挙して戦車部隊が移動しているではないか! 自走砲やら装甲車の類まで、延々と東京の都心方向に移動していく。ボクのお腹は、残念ながら10分耐えるのが精いっぱいだった。おもらし。悲しくて惨めで、しばらく立ち上がれなかった。

ようやく川越街道を渡れたのは、おそらく20分ほど経ってからだったろう。

泣きながら帰宅したボクの有様を見て、母は「あらま」と言っただけで井戸端できれいに洗ってくれた。何も言われなかったことが、本当に救いだった記憶がある。

思うに、あの戦車の隊列は、間違いなく観閲式に向かうものだったに違いない。

そんなこんなで、広島の救助活動などを見ていて、思い出した、自衛隊のこと。




夜の小学校 校庭

2014-07-24 22:59:01 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和35年頃まで、娯楽の王様は映画だった。

他の所でも書いたが、時代劇の東映、文芸路線の松竹、エンタメの東宝と大映、活劇の日活、そしてちょっとエッチな新東宝という布陣で、日本映画は破竹の進撃を続けていた。

そうした商業映画とは違ったチャンネルの映画も存在した。多くは教育というカテゴリーに収められた映画。その中で、忘れられない映画がある。

昭和30年代の前半、まだTVが一般家庭に普及していない時代、小学校巡回映画会というものがあった。

おそらく年に2~3本だろう、夜の校庭に巨大なシーツを縫い合わせたような白い幕を張ってスクリーン代わりにし、映写会が行われたのだ。夏休みのことだったような気もするし、秋口だったような気もするが、記憶は定かでない。

風の強い日の映写会は、映画を見る楽しさはあるのだが、また別のスリルと興奮と楽しみを与えてくれた。もちろん必要以上の強風下では映写会も中止になったと思うが、開催時の風に煽られバタバタと音を立てて翻るスクリーンに映し出される映画の歪みも、映画の内容以上にわくわくドキドキの大きなファクターだった。

おそらく何本もの映画を見ているはずなのだが、覚えているのは1本だけ。

なぜか「風の又三郎」。宮沢賢治の童話の映画化版だ。

確か、一般の映画館でも見た記憶があるのだが、微妙に違う映画だったような気もする。

どうやらそれもそのはずで、別作品がいくつかあった。昭和15年に日活が制作した『風の又三郎』(監督:島耕二)をボクは何かの折に映画館で見た(きっと島根で見たに違いない)が、見たという記憶だけが残っているに過ぎない。ところが巡回映画で見たのは、おそらく昭和32年に東映教育映画部(村山新治監督)が制作した作品ということのようだ。この映像を鮮明に覚えている。

そして前にも書いたが、元旦の初詣以外に明治神宮が唯一賑わいを見せた11月3日「文化の日」(表参道はたくさんの屋台が出て大賑わいだったさ!)の前夜祭のような11月2日の夜(この記憶も間違っていないとは思うが……)に、代々木側、北参道口の入り口近く、たくさんの見世物小屋の並ぶ一角で、この映画「風の又三郎」を観た、と思う。

夜の校庭で観たのと同じように、シーツを何枚か縫い合わせたような白いスクリーンだった。

こんな記憶も、すでにボクの記憶の中にしか存在せず、ほんのわずかな人としか共通の話題にもなり得なくなっている。

つらつら考えてみるに、これはいかにも悲しく、恐ろしいことではないか!? と思って、書きとめておく。