普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

藤圭子さん転落死

2013-08-23 09:20:45 | 音楽にまつわる話<的>な
ショックで言葉もない。

ただただ、ご冥福を祈るだけだ。

ボクの青春のど真ん中にいた歌姫の一人、いや、特別な歌姫だった。

あの歌声は、生涯忘れられない。痛を伴うような深い思いが、最初の一声で突き刺さってくる。

そして、彼女が歌っている間中、身動ぎもしないで聴くしかなかった。

陽気な美空ひばりと、対極にあってバランスを崩さずに居られた唯一の歌姫だと、ボクは今でも思っている。

合掌。


naminoteを聴く。

2013-07-25 23:04:54 | 音楽にまつわる話<的>な
今日は、中目黒の「楽屋」で、naminoteを聴いた。

7月24日にデビュー・アルバム『Blue Vacation』(OMCA-1169 \2000 オーマガトキ)をリリースしたのだが、今日のライブはその発売記念ライブ。

はじめの2曲はアイドリング状態で、本来の姿ではなかったのかな?

それでも徐々に良い感じの緩さが生まれてきて、あたたかなライブだった。

圧巻は中盤のノラ・ジョーンズの「Don't Know Why」とオリジナル「常夏の池間ーIkemaー」。

この2曲はアルバムの中でも出色の2曲。この2曲だけで、充分元が取れるといった感じ。

トロピカル・サウンド、ボッサ、ジャズ……色々言い方もあるし、聴き方もあるが、心が浮き立てばよろしい。

そういう意味では、満点でした。

平沢進先生!

2013-07-03 09:44:24 | 音楽にまつわる話<的>な
久しぶりに、P-MODELの平沢進先生と電話で話した。

ひょっとすると、何十年ぶりといったレベルの、とても穏やかな良い会話だった。

兄貴さんのYOUさんが筑波で店をやっているという。

こちらも懐かしい! ぜひ遊びに行かなくては!

伊吹留香、「月見ル君想フ」完全征服!!

2013-05-23 00:56:45 | 音楽にまつわる話<的>な
伊吹留香!!

4.24『反面教師』(OMCA-1161 \2,800)



発売記念ライブが青山の「月見ル君想フ」で開催された。


レーベル仲間である、アカシアオルケスタを迎えて、のっけからテンション上がって上がって。

こちらも!

3.20『ヒョウリイッタイ』(OMCA-1165 ¥2,500)



を発売したばかり。

アカシアオルケスタは、常にとにかくカッコ良い。そして、オーディエンスと同じように自分たちも楽しむ術を知っているのが、最高のパフォーマンスの基。今日も、素晴らしかったよ!

そして、伊吹留香。

彼女のステージは、小さなライブハウスの弾き語りライブも観て聴いているし、前回4月20日の渋谷「デュオ」クラスのバンドでのステージも観て、聴いている。

で、今日のステージは完璧!

青山「月見ル君想フ」を完全制覇!!

今夜、伊吹留香は完全に脱皮した。その様は、美しかったなぁ~。

余韻に浸って、今日は寝ようっと。


良い音は、良い。

2013-05-11 20:38:00 | 音楽にまつわる話<的>な
いま、カメラマンのN氏の事務所にいます。

彼は音楽に関しては、オーソリティで、良い音源を聞かせてくれます。いま聞いているのは、江利ちえみのテネシーワルツ、美空ひばりのダニーボーイ、Tボーンウォーカーのアルバムなどなど。 

憂歌団の音などを聞いています。

いいな。

いま、アボリジニの音がかかってます。地球上の人間の音ではありません。

日本の歌、的な。

2013-04-22 12:47:24 | 音楽にまつわる話<的>な
二度にわたってここで紹介している、ボクも執筆協力という形で制作に参加させてもらった本。





帝国書院刊
「歌がつむぐ♪日本の地図」
2520円

手前ミソだが、やっぱり面白い、良い本だ。

日本という国が、如何に音楽的に豊かな文化土壌を持ち、そのエッセンスは守りつつ民衆レベルでどう発展させてきたかがよく分かる本にもなっている。

最近、音楽に関わる出版物にも顕著で、決して懐古趣味というのでもなく、「日本の歌」というテーマがよく語られるようになってきている。

以前、2013年の展望のような原稿を書いたが、「歌」の復権というようなことを書いた。

そういう流れがほそぼそとだが、生まれてきている気がする。

その流れの勢いを、この本は煽るほどに面白い。

ぜひ、ご一読を。

アカシアオルケスタも伊吹留香も、最高!

2013-04-20 01:18:21 | 音楽にまつわる話<的>な
どっちも、結構胸ぐら掴みの良いライブ!

オラオラと揺さぶられた。

ただ、これまでにも、時に色々なライブで感じた感覚。それぞれのパフォーマンスは最高! なのに、ボクの五感に雑味が残る。

ボクのアカシア、伊吹への思い入れを差し引いた後に、両者のライブを聴いて体感したボクの心に残ったもの?

それは、具体的に言えばサイズの問題なのかもしれない。

伊吹は遠かったし、アカシアは近かった。

どちらもプロセニアムアーチをはみ出してくるものが、少なかった。

もう一度断っておくけれど、両者とも最高のパフォーマンスだった。

だがサイズがあっていなかったと、ボク個人は感じたというだけのことなんだけどね。

そういう意味では、昨日のあの小屋(渋谷デュオ)のサイズに一番マッチしていたのは、川島敬治だったかもしれない。

ただ、これからアカシアも伊吹もさまざまなステージパフォーマンスをすることになるだろう。

だからそんなことを言ってはいられない。

サイズ感の克服は、意外に簡単で、その小屋の一番遠くの観客に歌いかければいい。

それがその小屋でのテリトリー征服宣言になる。

それにしても。アカシアと伊吹を同じ土俵で書くのは無理があるな。

あらためて思ったけれど、両者ともワンマンがいい。なぜなら、それぞれが希有の個性をもっていて、ステージで創られる世界も、それそれに強烈だから。

いまは、自分たちの世界を張りつめるような感覚で広げている最中に違いないね。

それにしたって、最高!! の一夜だったなぁ!!



今晩、アカシアオルケスタと伊吹留香のライブ!!

2013-04-19 08:27:30 | 音楽にまつわる話<的>な
どっちに行こう? と悩むところだが、なんと! 渋谷のデュオで一緒にやるのさ!

スゴいね。 

ゆうべは伊吹留香さんがUstreamに出演してた。仕事で本編はみられなかったが、スピンオフのような、延長戦のような番組をやっていて、最後までみた。

終盤に、なぜか中島みゆきの曲を弾き語り。

結構はまった。

今晩も楽しみ。

歌がつむぐ♪日本の地図 発刊 -2-

2013-03-29 00:35:44 | 音楽にまつわる話<的>な
再度、ご案内!!

およそ、この2年ほどをかけて帝国書院「歌がつむぐ♪日本の地図」の原稿を書いていたが、ようやく3月15日に発刊された。



全国各地をその地にちなんだ歌で紹介しながら、1都1道2府43県を網羅している。

ボクが書かせてもらったのは冒頭のイントロダクションと、各県版のページに挟み込まれた特集ページ。

ボクが書いた部分の評価は別にして、全体としてみればとても面白い本(地図)になっている。読みどころも満載だ。

当初は、もう少し「今」よりの時代相の中で歌われた歌や音楽、クラシックやロック、ジャズなども含み込んだ内容になる予定で進行していたが、昭和歌謡を中心としたものとなった。

それが、逆にえも言われぬ雰囲気を醸し出して、より一層おもしろさを感じさせるものになっている。

皆さんにとって、地図とはどんな意味を持つものだろう? 単に道をさがすだけの道具だろうか? それとももう少し自分自身にとって意味のある、例えば彼女との思い出につながる道を指し示すものでもあろうか?

そんな中でこの本(地図)は、歌をモチーフに人の時間、空間、思い出を切り取るようにできている。この本を手にした人一人ひとりが、それぞれ全く別の時間、空間、思い出を小脇に抱えることができるのだ。

昭和という時代は長かった。それ故、小脇に抱える時間、空間、思い出に連なるのは、より多くの人々ということにもなろうか。

是非、一冊手にとってみていただきたい。


『歌がつむぐ♪日本の地図』
帝国書院・刊 200p
2,520円(税込)




AKB48は、ローカリズム究極の成功事例1?

2013-01-27 23:26:41 | 音楽にまつわる話<的>な
 東京がすべて。そんな印象がことの外強かったのが音楽関係の仕事。
 およそメジャーレコード会社の99%は東京にあるし、大手のマネージメントオフィスも、いまでもほとんどは東京にある。
 音楽出版社は放送局などが参画している場合もあり地方にもやや存在したが、やはりほぼすべてが東京を中心に動いていた。それらの統括組織(例えばJASRAC)も東京にある。そしてなにより、情報を委ねるメディアや宣伝のための代理店機能も、すべてが東京にあった。結局、地方からはなかなか情報を発信できないし、よしんば情報を発信できたとしても、これまでは末端の情報として大量の情報に埋没してしまうのがオチだった。
 それがこの10年ほどで劇的に変わった。
 まず、レコード会社だが、インディーズ系の会社が今では地方にも多数存在する。そして関連としてマネージメントを担当するセクションも、地方に存在するようになった。著作権管理の音楽出版社はレコード会社と表裏一体であることが多く、やはり地方へと分散し始めている。こうした傾向にシフトした最大の理由は、情報伝達の方法論の変化と、販売チャンネルの変化だ。
 まず情報の伝達手段、経路が変わった。ご存知の通りテレビやラジオ、活字といった情報媒体に代わってインターネットが情報伝達・開示のメインストリームになった。そして音源の売買も、CDなどのストックメディアから、インターネットで売買できるMP3などの音源データでの売買が主流になった。
 まだMP3などではなくCD販売だったが、2001年9月には沖縄のモンゴル800というロックグループがインディーズのチャンネルで発売したアルバム『MESSAGE』が、累計300万枚を越える売り上げを記録した。その3年後の2004年にも、やはり沖縄のロックグループ、オレンジレンジが再び250万枚をインディーズで売り上げた。このことで、音楽販売がメジャー中心でなくとも、売れることが明らかになった。音楽販売のチャンネル、構造が確実に変化したことをしらされたのだ。
 インターネット上には、世界中のどこからでも情報を開示することが可能になり、情報を優劣なく自分の意志のままにまったく他と同等に開示することができるようになった。簡単に言えば、インターネット上には、テレビやラジオ、活字に存在した情報を取捨選択する、例えば編集者・ディレクターのような存在がいない。情報は、発信者から直接かつ平等に受信者に届く。仲介者がいなくなったのだ。言って見れば産地直送のようなものだ。そこには情報の発信地が東京なのか北海道なのか、ロスなのかロンドンなのかといった地政学的な意味は何もなくなった。東京発でなくとも良い。情報の中身が問題とされることになったのだ。
 ただし、そんな中で、情報の特化、特徴づけも当然のように起きてくる。従来のような地政学的な意味はなくなったが、「ローカル」という色付けは、インターネットで意味を持つ。
 これは、ある意味「検索」のタイミングで、最も重要なファクターの一つなのだ。漫然と何十億という情報の海の中に自分の情報を投げ込んでも、浮かび上がってくることはまずない。その情報を浮かび上がらせることのできるファクターの一つが、「ローカル」という選択肢だ。まさに産地直送品のもつ付加価値のようなものだ。
 この十年で、最も価値的なローカル商品となったのは、AKB48だろう。彼女たちのグループ名・AKBが「秋葉原」であることは誰でも知っている。「東京」ではなく「秋葉原」だ。
 秋葉原は「電気街」のイメージから、なぜか「メイド」に代表されるような「アニメ」文化の発信地として世界に認知されるようになった。そこにまったく新しい「アイドル」という秋葉原のイメージ付けをしたのが、AKB48の総合プロデューサー・秋元康だ。
 当初のAKB48は、秋葉原の「ドンキホーテ」ビル6階に、専用劇場を持つ「会いに行けるアイドル」という位置づけで出発した。
 音楽商品も、あらゆるものがデジタル化し、アイドルもヴァーチャル化していく中で、最もアナログな「現場まで足を運ばなければ会えない」アイドルとしてAKB48は出発した。これこそがプロデューサー・秋元の狙いだったのではないだろうか。
 2005年12月8日に劇場の柿落とし公演を行なうが、観客席のおよそ80名の客のうち、有料入場者数はたった7人だったというのは有名な話。だが、AKB48は「会いに行けばいつでも会える」という強みを維持しながら「大人数で没個性ではあるが、まるで点描法のジョルジュ・スーラの絵のように、受け皿としてのAKB48という『像』を皆で描いていく。一人一人は単なる点だが、距離を置いて俯瞰してみると、AKB48という像が浮かび上がる……AKB48は集団として際限なく拡散し「没個性」を目指す」(J-CAST NEWSより)ような展開の中で、トップアイドルに上り詰めた。そこに「秋葉原」というローカルなくくりが大きく寄与したことは確かだ。
 AKB48は、音楽業界でのローカリズムの、究極の成功事例といえるのではないだろうか。
(ある出版物のパイロット版に2012年6月頃に書いた原稿)

音楽の歴史1-2 聴く者の存在2

2012-12-24 17:45:14 | 音楽にまつわる話<的>な
 前回は、急な用事があって中座した感じになってしまった。
 失礼しました。

「聴く者がいなくとも音楽は成立するのか?」と書いた。
 聴く者が存在しなければ、音楽は成立しないとも書いたが、成立する音楽もある。
 当たり前と思われるかもしれないが、こうした設問は成立する。

 音楽の概念は、「音を楽しむ」であれ「楽しい音」であれ、音を聞く、音を出す主体者が設定されている。誰が「音を楽しむ」のか、誰にとって「楽しい音」なのかということだ。それは、聴く者がいなければ音楽は成立しないということではないのか?

 ところが、誰も感得し得ない音楽があるとし、その楽譜を書いた人がいる。ケプラーだ。ケプラーの書いた楽譜は、惑星の奏でる音楽。誰も知りえない音楽が存在していることを、ケプラーは楽譜化し証明してみせたのだ。ただこの時点で、誰にも感得し得ない音楽ではなくなってしまったのだが…。それでも、スルーしたにしても音楽そのものはどこかで成立している。

 こんな屁理屈にも似たことを考える必要もないのかもしれないが、ここに音楽の本質というか、音楽に携わる人間が、常に考え続けなければならない大きなファクターがあるように思うのだ。

 つまり、自分の中で消化してしまうような音楽は音楽とは言えない、音楽は人に届けてなんぼ、という前提が生まれざるを得ないのだ。

 聴く者がいなくとも音楽は成立するが、その音楽は人に届いた瞬間に、音楽となるということなのだ。

 はっきり言って、ウザったいほど屁理屈に近い。だが、考えるべきファクターと思えて仕方ない。

 インターネットという何十億ものデータの海に、自分の音楽を投げ込んだとしよう。しばらく放っておいて見直してみると、0再生だった。この瞬間に音楽は投げ込んだ本人の中から出て行かなかったということになる。これは音楽が音楽として不成立だったということになるのだ。

 正直、面倒くさい感じがする。この先は、考えたい人はそれぞれに考えてください。

音楽の歴史1 聴く者の存在

2012-12-16 23:23:46 | 音楽にまつわる話<的>な
なにも学術的に突き詰めるつもりはないが、音楽の持つ役割、意味、その他もろもろを、歴史なども紐解きながら、考えていきたい。

いつもいつも、音楽を考えるときに真っ先に思うのは、聴く者の存在だ。聴く者がいなくとも音楽は成立するのかという命題が、まず頭に浮かぶ。

結論から言えば、聴く者がいなければ音楽は成立しないということ。

時間が許さず、今日はここまでしか書けないが、引き続き書き続けていくことにする。

桑名正博 合掌 

2012-10-28 22:49:00 | 音楽にまつわる話<的>な
10月26日、桑名正博さんが亡くなった。

今年7月15日に脳幹出血で倒れて以来、意識の戻らぬまま104日に及ぶ集中治療室での病魔との戦いだったが、心不全で帰らぬ人となった。

ボクがまだロッキンFの編集をしていた頃、RCAからソロデビューした76年頃に六本木で取材をした記憶がある。背が高く男前だった。六本木交差点近くのジーンズの店に入ってあれがいいだのこれがいいだのと話したことを思い出した。

取材する前は、東のキャロル、西のファニカンと並び称されたファニーカンパニーの中心メンバーだったということもあり、ある種の高揚感があったのだが、実際に会うと良いところのお坊ちゃんという感じで、拍子抜けしたのを覚えている。だが、取材を進めれば進めるほどに、すこぶる圧力のあるお坊ちゃんだということに気づかされた。なにか怖いものなしという感じの存在感に、迫力があった。

最近は、元々関西の財閥の御曹司だった彼は、家業を継いで音楽活動よりは家業の社長業を中心にしていたようで、あまり見ることもなかったのだが、久しぶりに名前を聞いたのが病魔に倒れた7月のことだった。

なにかどんどんと一時代を築いた「タレント」が世を去っていく。桑名さんなどまだまだ若いはずなのに。

告別式は30日午前11時30分~、大阪市阿倍野区阿倍野筋4-19-115、やすらぎ天空館。告別式終了後には、「御堂筋桑名パレード」と題した“お別れ会”を実施する予定で、午後2時30分に梅田新道近辺を最高級リムジン・リンカーンの霊柩車でスタート、大阪の街の象徴である全長約4kmの並木道を北から南へ走行する。

心からの冥福を祈ります。合掌。

やっぱり異常だと思う。

2012-07-05 23:39:35 | 音楽にまつわる話<的>な
出だしは唐突だが、話はAKBのこと。

どんな音楽でも大抵の場合、毎日毎日聴いている内に、なんだかすごくいい音楽のような気がしてくるもので、AKBも例外ではない。

それでも今の日本の音楽状況は、異常と言わなければならない。突出した音楽があるのは良い。社会現象になるのも良い。だが、「それだけ」ではダメなのだ。

AKBの総選挙などを見ていると、およそメディアというメディアがこぞって取り上げ、どこを向いてもAKBという案配だった。一般紙のトップ記事になりそうな勢いだった。ここがおかしい。

メンバーの懸命さは認める。彼女たちの人一倍の努力は見ていれば伝わってくる。

だが、それとこれとは別なのだ。彼女たちの発するオーラや生命としてのパワー、集団的統率・拡散と言った発展的エネルギーは、それでも残念なことに、音楽創造というベクトルを持たない。クールな論理性、ロジックとは無縁で、どちらかと言えば、ファナティツク。

モーツァルトの「フィガロの結婚」は正式には「ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日)、あるいはフィガロの結婚」というのだが、この「熱狂」という言葉が、AKBを表すに最も適切におもえる。

正直なところ、イメージは悪いかもしれないが、全体主義的熱狂に限りなく近いと言わざるを得ない。

AKB48とその一党は、いつかは分裂し、細分化されてやがて消滅していくのだろうが、その時彼女達にどんな称号が与えられているか、その時に初めて、彼女達の真の価値が明らかになるのだろうと思う。

小林幸子事務所問題について

2012-04-11 13:36:47 | 音楽にまつわる話<的>な
基本的に、芸能マスコミが口出しする問題でもないし、もっと言えば問題でもないことのはずだったろう。

それがなにか大問題ででもあるかのように喧伝されるのは、マスコミの作り上げた幻想に過ぎない。

マスコミの一分を担った人間としては、書きたくもないことだが、こと芸能マスコミに関して言えば、マッチポンプが普通で、普通のこともあらぬところであろうとどこだろうと、乾いた火の着きそうなところには、とりあえず火を着けてみる。

それがなにかの弾みで燃え始めればしめたもので、はじめはそれとはわからない程度に油を注ぎ、ある程度燃え上がれば今度は消しにかかる。

手慣れたもので、まるでマニュアルがあるかのようだ。

よく考えると、まるで言葉通りに放火犯のようだが、犯罪には当たらない。せいぜい人としてどうなのかが問われる程度。本当ならそれが一番問題なんだが、ね。

小林幸子事務所のことは大して知りもしないのだが、前社長のコメントを読んで思った。

これは小林幸子という商品を、老舗の店頭でこれまで通り売るか、新しい意匠を与えて売るようにみせて、老舗の権利を奪おうという新興勢力(亭主)の仕掛けた主導権争い、というに過ぎない。

こんなことはどんな仕事の場でも、日常的に行われていることで、問題にもならない。

ただ火が着きそうなところがあった。それが前社長の心情的な揺らぎだった。

30年以上も一緒に夢を追いかけて来たのに、という思い。
ここに火を着ければ燃える。

前社長としてみれば不満はあっただろうが、訴訟合戦などするつもりはないだろう。

だが、それでは感情に火をつけた手前、マスコミとしてみれば面白くないし、長く引きずれない。引きずった方がオイシい。

マスコミはおそらく担当を振り分けて、両者を煽り続けるだろう。

退っ引きならないところに立ち至ったあたりで、どちらかを悪者に仕立てて、終了だろう。

この勝負では、片方はドラスティックに法律を盾に、もう一方は感情論でということになっているが、勝負はついている。

今の世の中、感情や心などクソの役にも立たないと思っている人々が大半だ。だから結局はそういう流れになるだろう。

なんでこんな原稿を書いたのか、自分でも分からない。

なにかやるせなかっただけなんだが……。