普通な生活 普通な人々

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国家

2011-06-04 18:03:14 | 普通な人々<的>な
 小泉純一郎という元首相を、大いにもてはやす人々がいまでもいる。
 当時からボクは、どうしても小泉首相を日本のリーダーとは認めがたかった。その理由は、所謂小泉改革といわれる郵政をはじめとする改革のほとんどが、種々の案件にあって国家としての管理管轄権をはじめとする責任を放棄し、民間への委託を、さも社会的必然であったり、合理的であったりという理由で押し進めたことによる。それも結局はアメリカの意向を汲んだだけの、オリジナルでもなんでもない政策だった。
 簡単にいえば、「自己責任」などという言葉で十羽一からげにし、国家が自らの責任を放擲し、多くの本来であれば国家的規模、国家的範疇で語られ対策されなければならないことも放棄されたからなのだ。その最たるものが郵政であり、介護保険法(これはまた別の意味があるのだが)だった。
 今回の東日本大震災にあって、その弊害が顕著に現れていると思えて仕方がない。個々の案件に対してもそうだが、むしろ日本人の心のひだにそうした考え方を植えつけてしまったと思えるのだ。
 民主党内閣は、いち早く東電に賠償責任を押し付けた。もちろん東電はその責から逃れることはできないのだが、世界に責任を負わなければならない国難に当たって、一企業に「お前が悪いんだから自分でなんとかしろ」という国家というものはあるのだろうか? しかも原発事業を推進してきたのは日本という国家ではなかったのか? 東電は有体に言えばその事業化を委託されたに過ぎない。
 「自己責任」という考え方を国が多用すれば、この国は行き場を失いおっつけ崩壊するだろう。それも近い将来に。
 国は国民に対して大きな責務を負っている。それは憲法にも明記されている。それは例えば菅が「最小不幸」などといった時点で糾弾されなければならない質のものだ。例え最小といえども「不幸」を口にする国家指導者は、バカである。
 国は国民から税金という資金援助を受け、資金提供者である国民の最大最高の幸福を、国家的責務において模索しなければならないはずだ。国家は、その責務から逃れることはできないのだ。それが今時の国と国民の関係だと思う。
 テレビで多くの評論家が(かつて小泉を、合理的精神の持ち主として賞賛した人々も多い)、今の難局は国家的規模で対策しなければならないと言う。だがどう考えてもいまさらことの本質を語る上での言葉、思考の選別は替えようがない。我々程度の年齢の者は、例えば「護送船団方式」という言葉の意味やニュアンスを知っているし理解できる。だが、今の40歳代前半までの若い世代に「国家的」という言葉が理解されるまでには、相当の時間がかかるだろう。
 まあ、政治家は概ね無責任なものだが、ここのところの政治家の愚かさ、バカさ、無能さには辟易させられる。責任を自覚した上での無責任ならまだ犯罪として理解も出来るが、無自覚な連中ばかりだから責任能力を問えない。だから犯罪を構成しもしない。むしろ自分以外に責任があると他人を詰ったりする。二重に度し難い。
 いつの間に国に対してこんなことしか言えなくなってしまったのだろうと、涙が出る。