普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

最近の地震報道

2013-01-29 17:44:42 | 普通な人々<的>な
古い話だが、2012年10月にイタリアで、7人の地震学者が「2009年の地震予知を外し309名の人命が失われた」として、過失致死罪で有罪判決を受け禁錮6年を言い渡された。ことの是非はともかく、こうした判断はこれから先いつでもどこでもくだされる可能性があるということだ。

地震国日本でも大々的に取り上げられたが、日本の地震予知はなにかあらぬ方向に向かっているような印象を受ける。

というのも、3.11以前も地震は確かに喫緊の災害としてメディアなどでも取り上げられていたし、その災害の大きさにも言及されていたが、どちらかといえば不安を煽ることは避けるというスタンスで、むしろ被害も小さめに想定していたような気がする。

それが最近の地震予知というか地震研究は、東南海地震の研究に顕著なように、地震の規模が嵩ましに大きくなって、とうとう東南海地震での被災者は1000万人超と言うことになった。東京の直下型地震研究でも同様だし、東京周辺に顕在している地震研究のほとんどはM、震度をより大きく、被害想定も可能な限り大きくしている印象だ。

これは一体どういうことなのかと、久しぶりに頭をひねってみた。中身がはみ出しそうになったが、これは、地震研究に責任ある連中の、責任回避策だという結論に達した。

要するに被害などの想定値を大きくしておけば、実際に地震が起きて被害を受けた場合、想定より小さければ被害が少なくて済んだ印象を与えることができる。それに、被害が小さければ「良かった」ということになる。よしんば被害が想定に近くとも、予想通りだと胸を張れる。ある意味責任回避ができる。要するに、これ以上は想定できない想定地を出しておけば、万事丸く収まり、イタリアの地震学者のような目には合わずに済み、責任回避ができるということだ。

ちょっと穿った見方かもしれないが、頭をひねってみた結論はこれしかなかった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮沢賢治……東北人のアイデンティティ

2013-01-29 00:08:04 | こんなことを考えた
 2011年3月11日。未曾有の東日本大震災が東北地方の太平洋岸を襲った。余りにも巨大な災厄ではあったけれど、時間が経つにつれ、少しずつ少しずつ復興への道筋が見え、被災した方々も着実に生活を取り戻しつつあるようにみえる。
 東北の皆さんは、昔から厳しい自然の中で根気強く生活を切り開いてきた歴史がある。それは本当にコツコツと着実にという言葉がぴったりの歴史と言っていい。
 そしてその東北には、東北人の心で東北人にしか描けない世界観を描いたいく人もの作家があった。
 中でも、最もポピュラーな存在が宮沢賢治(1896.8.27~1933.9.21)である。
 賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」が発生して岩手県沿岸部に多くの災厄をもたらした。また賢治の誕生から5日後の8月31日には、秋田県東部を震源とする「陸羽地震」が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡が甚大な被害を被った。そればかりではない。賢治の生きた時代にも東北は、冷害に悩まされ飢饉に襲われることが度々だった。
 そうした背景もあってか、賢治の作品の中に、まるで将来に起こる大きな災厄を予見するような作品が残されている。それが「イーハトーブ」という架空の土地を舞台にした「グスコーブドリの伝記」という作品だ。
 「イーハトーブの森」で木こりの家に生まれたグスコーブドリは、冷害による一家離散や火山噴火、干魃などの苦難を経験して育つ。やがてイーハトーブ火山局の技師となったブドリは、火山噴火被害の軽減、人工降雨を利用した施肥などを実現させる。ある年の破滅的な冷害の解決法として、ブドリは火山を人工的に爆発させ、二酸化炭素の温室効果で暖めることを提案する。だが、その計画を成功させるためには、誰か一人が最後まで火山に残らなければならない。年老いたペンネン技師が最後の一人になろうとするが、ブドリは彼を避難させ、一人残り火山を爆発させる……。
 宮沢賢治という作家には、童話、詩など、それぞれにすぐれた作品が残されているのだが、そのほとんどが東北を舞台としたものである。「春と修羅」、「セロ弾きのゴーシュ」、「注文の多い料理店」、「雨ニモマケズ」、「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」……。
 それぞれの作品に「イーハトーブ」という固有名詞は出てこない(別の言葉では出てくる)が、「グスコーブドリの伝記」の舞台となった「イーハトーブ」が、ほとんどの作品の舞台であることは明らかだ。
 「イーハトーブ」とは「岩手」の読みを変化させた賢治の造語だという。自分の生まれ育った土地をそのまま架空の舞台にすることで、理想郷としての故郷を描き出して見せたのだ。
 意外に知られていないのだが、賢治は農学校教師時代に「演劇や音楽、ダンスなどを教育の一環として取り入れていた」(宮澤賢治生誕百年記念レポート/こととね)という。賢治の生活に音楽は切り離せないファクターだった。「花巻一のレコード収集家」として知られてもいたという。クラシックばかりでなく、浅草オペラにも興味を示していたらしい。
 童話『セロ弾きのゴーシュ』で町の音楽会のために練習をしていた『第六交響曲』とはベートーヴェンの交響曲第6番『田園』であったとされ、賢治が最も気に入っていた音楽だったという。賢治は「IHATOV FARMER'S SONG」(日本語題は「ポラーノの広場のうた」となっている)と題された楽譜を書き残している。これは「賛美歌#448」を転写したものだが、一部にアレンジなのか転写ミスなのか、相違があるという。いずれにしても賢治の頭の中で、「イーハトーブ」のイメージが音になっていたということが分かる。
 宮沢賢治の描いた「イーハトーブ」の世界は、いまでも東北、ことに岩手の人々の心の中で生き続けているのだ。
(ある出版物のパイロット版に2012年4月頃に書いた原稿)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする