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東京「昭和な」百物語<その22>唄 序

2017-02-23 00:37:24 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和は「歌」の時代だったかもしれない。

「音楽」ではない、「歌」の時代。

あの時ボクは「演歌」を拒否した。ロックやらフォークやら「音楽」を志向したから、演歌は古臭く、情緒不安定な音楽のように感じた。

だが、今考えれば演歌も含め昭和の音楽は紛れもなく「歌」だった。

そして、今のバカバカしいほどのポジティブな音楽の、それこそ「真裏」にあるようなネガティブな「歌」が、限りなく聞かれた。

なぜか? 誰もが「哲学」してたんだよ!

今のように、何かを考えることなど拒否し倒すような感性が充満している時代とは、それこそ180度違う世界があったのだ。

はっきり言って今の「音楽」は、評論できない。なぜなら評論を拒否しているから。

評論を拒否するとはどう言う意味か?

すべてがプライベートの範疇に囲い込まれ、パブリックな視点が持てないということさ。

歌ってるのは「元気」だの「前向き」だのだけれど、広がりはない。

「15、16、17と、私の人生暗かった」と藤圭子が歌った「歌」には、奥深い人々の心の奥をつなぐ通奏低音があった。

昭和の「歌」を、いつかもっとしっかりと、研究しちゃるけんのぅ!