普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昭和な」百物語<その28>音楽を聴く2

2017-06-15 22:43:08 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの稚拙な音楽体験の中でも、エポックメイキング(古!)な出来事はいくつもあった。

小学校の低学年の頃、第一回のレコード大賞曲、水原弘の「黒い花びら」を親戚の宴会で歌い大好評だった。

中学高校時代に、当時日本の若者の心をきっちりと虜にしていたアメリカのキャンパス・フォークの雄、キングストン・トリオのコピーバンドを演っていた。ローファーズ。大学生のバンドは、ニューフロンティアーズ、フロッギーズ、キャッスル&ゲイツ、ザ・リガニーズなどなど、後のグループサウンズなどに連なるバンドが幾つもあったけれど、中坊のバンド、高校生のバンドはボクらぐらいだった。地元では人気があった。

それからしばらくして、ボクは芝居の世界にのめり込んだが、その中で歌が大きなファクターになる芝居があった。日野原幼紀という作曲・アレンジャーが曲を作った。その芝居でボクはほとんどの歌を歌い、芝居を紡いだ。その芝居が縁で、レコードを出さないかという話になった。レコード会社は当時できたばかりのテレビ局傘下の〇〇レコード。その打ち合わせに何度か赤坂に出向いたが、突然プッツリと連絡がなくなった。潰れていた。

S-Ken(当時、ボクは「ただし」と呼んでいた)の結婚式で、アニマルズの「朝日の当たる家」をYAMAHAに連なる音楽関係者を前に熱唱した。好評だった。

編集者になって廣済堂で雑誌を作っていた時、川内康範先生が編集長になってこられた。その時に社員旅行があって、歌合戦のようなものが大宴会場で繰り広げられた。ボクは野坂昭如の「黒の舟歌」を歌った。そして康範先生から「グランプリ」を頂いた。そして「歌ってみるか」と言われたが断った。

すべては昭和という時代だからこその、ゆるさゆえに巻き起こった話の数々。

変な話、ある日突然歌手になるなんてことが、普通にあった時代だったのだよ。

まあボクは、なに一つ成就することはなかったけれどね!

東京「昭和な」百物語<その27>音楽を聴く

2017-06-15 00:30:27 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和を通して、音楽は、自分の意志で聴くものではなかった。

ことにボクが少年の頃は、ラジオから流れてくる音に耳を傾ける……。それが音楽を聴くということだった。

もちろん蓄音機を持っていた裕福な人たちもいたのだろうが、少なくともボクは、音楽はラジオから流れてくるものだと思っていた。

だから、誰がその音楽を選び、ラジオの電波に乗せるのかは、とても大事なことだった。新しい音を聴かせる奴、流行りの音ばかり聴かせる奴、意味を持った音楽を聴かせる奴、楽しきゃいいじゃんと音を聴かせる奴、そして気に入らない音ばかりを聴かせる奴と、さまざまな奴がいた。

彼らはいつの間にか、音楽のスペシャリストとしてDJと呼ばれたり、パーソナリティと呼ばれたり、はたまた音楽評論家などと呼ばれ始める。そしてそれが職業になりさえした。もともとはラジオ放送局の職員だったはずの人間が、プロとしてもてはやされたりもした。

音楽は、誰かにリードされて聴くものだった。だから、流行がありその流行は誰かが作ったモノだった。

それは音楽を伝える媒体がテレビに移ってもしばらくは同じだった。音楽番組も隆盛を極めた。

音楽が、誰のものでもない、ただ聴く個々の人々の営為であると捉えられ始めたのは、昭和も末の末、1980年代後半の事だった。

音源がレコードからCDに代わり、ウォークマンなどのパーソナルな再生機が誕生し、その傾向は一気に加速した。そして、音楽評論家も職業として廃れた。

聴かされる音楽から、主体的に聴く音楽へ。それが昭和から平成への大きな転換のキーワードだった。

そしてそこでは、音楽を聴く喜びの質さへも変化した。

簡単に言えば、選択肢が5つしかない中から自分に最もマッチした音源を、誰かに選んでもらって聴いていたのが、何十何百という中から、自分の好みでチョイスして聴くという姿勢に、大転換した。

だけど本当はね、昭和の頃の方が音楽は面白かった。平成に移行し自分で聴く音楽を選ぶようになって、逆に画一化が始まったといっても良い。その理由は、昭和の頃の評論家ほどには、誰も音楽に対して成熟もしていないし他の誰かに伝えられるほどにはエキスパートでもないということによる。単なる好き嫌いというレベルの音楽の選別は、音楽を育てはしない。

(この続きはまた…)