芝居をしていたこともあり、仕事はアルバイト。それこそやった仕事は10や20ではないが、声の仕事が一番金になった。いまでもあるが化学雑巾「サッサ」が出始めた頃にラジオCMのMCをやっていた。街中やスーパーで主婦に声をかけ、「サッサ」の使用感などを聞き、「サッサで一言でした」で締める。その他にもまだ途中休憩のある頃のTVに出たり、アフレコをやったりもした。
新宿の「ぼろん亭」という喫茶店でアルバイトをしていた時に、編集プロダクションの社長と知り合い、雑誌の記者・ライターになった。芝居の資金稼ぎになると思ったのだが、思いのほか忙しかった。いつの間にか芝居から物書きにシフトしていた。
初めての仕事が、「船の旅」という当時出始めたばかりのムック形式の本をほぼ一人で作ることだった。主婦と生活社に入り浸ってほぼ1年がかりで創りあげた。いま思えば、よくやったものだ。その後、なし崩し的に廣済堂がはじめて出す月刊「マネーライフ」の編集者になっていた。
この廣済堂時代に、都合4人の編集長に仕えたが一番お世話になったのは、「マネーライフ」が隔週の「週刊時代」になって編集長になられた川内康範先生だった。なぜか日本の芸能界の重鎮でもあり、韓国とのパイプを持たれ政治的にも大きな存在だった川内先生が、可愛がってくれた。社員旅行で熱海に行ったときには、歌合戦のようなものが催され、ボクは野坂昭如の「黒の舟歌」を歌ってグランプリを頂いた。焼失したホテル・ニュージャパンの事務所によく呼びつけられ怒られたが、当時数少ない海外(といっても韓国、台湾だが)取材はボクが行かせてもらった。
なんの御礼もお返しもできぬまま、一昨年先生は他界された。慙愧に耐えない。
この頃、いくつかのレコード会社のディレクター、音楽雑誌、芸能マスコミ関係者と知り合った。政治的な記事も芸能記事も、十把一絡げで関わっていたから。
そんな中、当時は忙しさも手伝って音楽というよりは、芸能には関わったが、それまで聴いていた若者向けの音楽を聴くことはなかった。歌謡曲、演歌を聴く環境だった。
それが、ヤマハ関係の仲間から、音楽雑誌立ち上げの話が舞い込んできた。編集ができて音楽が好きで詳しい人間がいない、ついては加藤手伝ってやってくれないかという話になった。その話を持ってきてくれたのは、S-kenこと田中唯士だった。渡りに船。そして、それが立東社の「ロッキンf」だったのだ。
新宿の「ぼろん亭」という喫茶店でアルバイトをしていた時に、編集プロダクションの社長と知り合い、雑誌の記者・ライターになった。芝居の資金稼ぎになると思ったのだが、思いのほか忙しかった。いつの間にか芝居から物書きにシフトしていた。
初めての仕事が、「船の旅」という当時出始めたばかりのムック形式の本をほぼ一人で作ることだった。主婦と生活社に入り浸ってほぼ1年がかりで創りあげた。いま思えば、よくやったものだ。その後、なし崩し的に廣済堂がはじめて出す月刊「マネーライフ」の編集者になっていた。
この廣済堂時代に、都合4人の編集長に仕えたが一番お世話になったのは、「マネーライフ」が隔週の「週刊時代」になって編集長になられた川内康範先生だった。なぜか日本の芸能界の重鎮でもあり、韓国とのパイプを持たれ政治的にも大きな存在だった川内先生が、可愛がってくれた。社員旅行で熱海に行ったときには、歌合戦のようなものが催され、ボクは野坂昭如の「黒の舟歌」を歌ってグランプリを頂いた。焼失したホテル・ニュージャパンの事務所によく呼びつけられ怒られたが、当時数少ない海外(といっても韓国、台湾だが)取材はボクが行かせてもらった。
なんの御礼もお返しもできぬまま、一昨年先生は他界された。慙愧に耐えない。
この頃、いくつかのレコード会社のディレクター、音楽雑誌、芸能マスコミ関係者と知り合った。政治的な記事も芸能記事も、十把一絡げで関わっていたから。
そんな中、当時は忙しさも手伝って音楽というよりは、芸能には関わったが、それまで聴いていた若者向けの音楽を聴くことはなかった。歌謡曲、演歌を聴く環境だった。
それが、ヤマハ関係の仲間から、音楽雑誌立ち上げの話が舞い込んできた。編集ができて音楽が好きで詳しい人間がいない、ついては加藤手伝ってやってくれないかという話になった。その話を持ってきてくれたのは、S-kenこと田中唯士だった。渡りに船。そして、それが立東社の「ロッキンf」だったのだ。
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