三十路に手のかかる頃、杉並区荻窪に住んでいた。JR荻窪駅(当時は国鉄だった)の南口から三分ほどのマンションの二階で一人暮らしをしていた。ただ、マンションの隣りの部屋が空き、結婚を約束したばかりの今の妻が引っ越してきていたから、一人暮らしとはいえ、壁を隔てた同棲とでもいえたかもしれない。
彼女の部屋は、僕の部屋で一緒に過ごすことが多かったこともあって、家具などほとんどなく、ガランとしていた。ソファとカラーボックスがいくつか置いてある程度。
それでも時には、何もないから広々とした部屋で、二人でゴロゴロと過ごすこともあった。二人きりで好きなレコードを(CDではない)ポータブルプレーヤーで聴いたり、本を読んだりしていた。
そんなある日、彼女の部屋でその当時飼っていたマルチーズのココと、三人でのんびり過ごしていた。のんびりしたいときに、生活感のない部屋でゴロゴロするのは何よりの贅沢と、その時は思っていた。
いつの間にか夏場の少し汗ばむような、トロンとした夕闇が忍び寄ってきた。部屋の灯りを点けようとソファから立ち上がりかけると、突然ココがパッと跳ね起きた。そして、玄関ドアに向かってうなり声を上げるのだ。やがて何もない部屋の白い壁に向かって数歩進み、今度は尻尾を振り始めたのだ。そして小さくワンと吠える。それは何かを威嚇するような吠え方ではなく、むしろ親愛の情を感じさせた。
だが僕は、部屋に得体の知れない空気が満ちてくるのが分かった。どうやら彼女も同様らしく、玄関から続く壁の、高さ一メートル辺りの部分を凝視している。
僕には「得体の知れない空気」と感じられたものだったが、ココと彼女には別の「実体」が見えていたのだ。
「空気」は、動いている。なにか流れを感じる。玄関から何も置かれていない壁伝いにベランダにゆっくりと風のように抜けていく。僕はベランダのサッシが少し開いていることに気がつき、閉めようとベランダのほうに行きかけた。すると彼女が僕を制止する。
「今は動かないで」
口元に指を当て「シッ」と言った。僕はサッシを開けるでもなく閉めるでもなく、そこに立ち尽くしていた。やがてココが尻尾を振りながらベランダ近くまで来ると、外に向かって「ワン」と鳴いた。彼女は「フウ」と大きく息をつきベランダに出てしばらく外を見ていたが、部屋に戻るとこんな事を言った。
「すごく奇妙な集団。ほとんどが動物なんだけれど中に子供が二人。二人とも裸でおよそ二十頭ほどの犬や牛や豚と、仲良さげに笑顔でゆっくりと玄関からベランダに抜けていったわ」
抜けていったその集団は、二階からなんの矛盾も感じさせず地表に降り立ち、マンションの建つ一角から30mほど離れたところにある四ツ辻で、何かに吸い込まれるように消えていったと、彼女は言った。
それが何なのかは、今もって分らない。ただ近くに生肉屋があったことだけが、なんとなくあの一団が現れた合理的な説明になりそうな気がしたが、それでも二人の子供の意味は不明だ。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より抜粋>
彼女の部屋は、僕の部屋で一緒に過ごすことが多かったこともあって、家具などほとんどなく、ガランとしていた。ソファとカラーボックスがいくつか置いてある程度。
それでも時には、何もないから広々とした部屋で、二人でゴロゴロと過ごすこともあった。二人きりで好きなレコードを(CDではない)ポータブルプレーヤーで聴いたり、本を読んだりしていた。
そんなある日、彼女の部屋でその当時飼っていたマルチーズのココと、三人でのんびり過ごしていた。のんびりしたいときに、生活感のない部屋でゴロゴロするのは何よりの贅沢と、その時は思っていた。
いつの間にか夏場の少し汗ばむような、トロンとした夕闇が忍び寄ってきた。部屋の灯りを点けようとソファから立ち上がりかけると、突然ココがパッと跳ね起きた。そして、玄関ドアに向かってうなり声を上げるのだ。やがて何もない部屋の白い壁に向かって数歩進み、今度は尻尾を振り始めたのだ。そして小さくワンと吠える。それは何かを威嚇するような吠え方ではなく、むしろ親愛の情を感じさせた。
だが僕は、部屋に得体の知れない空気が満ちてくるのが分かった。どうやら彼女も同様らしく、玄関から続く壁の、高さ一メートル辺りの部分を凝視している。
僕には「得体の知れない空気」と感じられたものだったが、ココと彼女には別の「実体」が見えていたのだ。
「空気」は、動いている。なにか流れを感じる。玄関から何も置かれていない壁伝いにベランダにゆっくりと風のように抜けていく。僕はベランダのサッシが少し開いていることに気がつき、閉めようとベランダのほうに行きかけた。すると彼女が僕を制止する。
「今は動かないで」
口元に指を当て「シッ」と言った。僕はサッシを開けるでもなく閉めるでもなく、そこに立ち尽くしていた。やがてココが尻尾を振りながらベランダ近くまで来ると、外に向かって「ワン」と鳴いた。彼女は「フウ」と大きく息をつきベランダに出てしばらく外を見ていたが、部屋に戻るとこんな事を言った。
「すごく奇妙な集団。ほとんどが動物なんだけれど中に子供が二人。二人とも裸でおよそ二十頭ほどの犬や牛や豚と、仲良さげに笑顔でゆっくりと玄関からベランダに抜けていったわ」
抜けていったその集団は、二階からなんの矛盾も感じさせず地表に降り立ち、マンションの建つ一角から30mほど離れたところにある四ツ辻で、何かに吸い込まれるように消えていったと、彼女は言った。
それが何なのかは、今もって分らない。ただ近くに生肉屋があったことだけが、なんとなくあの一団が現れた合理的な説明になりそうな気がしたが、それでも二人の子供の意味は不明だ。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より抜粋>
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