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「不二」の概念

2019-07-01 09:52:36 | ちょっと宗教<的>な
久しぶりの宗教的アプローチ。

今回は「不二」という仏法の概念を再確認します。この維摩経に登場する法門に対しては、それこそ哲学者、仏法者がこぞって自説を展開しています。そのいずれもが、各々の境涯に即して「正しい」と思われます。誤解も甚だしい意見なぞ、ほぼありません。

「不二」という言葉は、なにも難しい言葉ではありません。「二つとない」という意味もありますが、むしろ「二つではなく、一つ」「別のものに見えても、一緒のもの」という意味ととらえた方が良いと思います。

色心不二、依正不二などが良く登場しますが、最も良く使われるのは「生死不二」という言葉でしょうか。

「生と死は生命のまったく正反対の状態を指しているように思えるが、実は全く切り離せない、同じ意味合いを持つ生命の状態」ということになるでしょうか。

この言葉のもっとも現代的な説明を試みればそれは量子論の「量子もつれ」ということになりそうです。

「量子もつれ」は、中国の道教の「太極図」を思い返すと、わかりやすいかもしれません。



「太極図」の白黒の巴は、それぞれに陰陽を表しているわけですが「陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず」と言うように、片方が白であればもう片方は黒となる、陰と陽が対になって世界の相貌があるわけです。

「量子もつれ」も簡単に言えば、対の粒子の片方がプラスの方向性を持てば、もう片方はどこに居ようがマイナスの方向性を持つ、という性質を持っているという意味合いのようです。

厳密に言えばニュアンスは異なるのでしょうが、意味合いはなんとなく似ています。

陰陽そろって初めて、一つの何事かを形成するということです。

量子論、道教、仏法はその思考の深さには雲泥の隔たりがありますが、わかりやすく言えばこんな感じ、ということです。

思うに「不二」という概念は、日々の生活の中で、どんな具体的な在りようを示すのでしょうか?

朝起きて、漫然と顔を洗い歯を磨き、大あくびをして着替える……というボクに、不二の法門はどんな在りようを示してくれるのでしょうか?

ボクは仏法者ですが、良くわかりません。

ただ、朝起きた瞬間に、浮き立つような心があれば一切の抵抗がなく起きることができます。顔に掛かる水が気持ちよければ、大きく深呼吸して気を整える気にもなります。口腔が気持ちよければ爽やかに出かけられるというものです。大あくびは体の中に新鮮な酸素を摂り入れることでもあり、頭もスッキリします。着替えは気分を変えてくれます……というわけで、色心不二という概念は日々の生活に密着しています。

まあ、本当のところそれほど簡単な話ではないんですが……。

話は変わりますが、名門洋菓子屋さんの「不二家」さんは、二つとないという意味合いでつけられた屋号なんでしょうかね? 

ちょっと調べたら「二つとない」という意味合いもありますが、創業者の「藤井姓にちなむと共に、日本のシンボル富士山を意識」とHPにありました!

藤井さん=富士山=不二山=不二家さん、ということでしょうか?

そう言えば富士山には不二山の他にも、仏法的な表現があります。

その話は次回ということで。

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