2021/3/7 マタイ伝17章14~23節「できないことは何もない」
前奏
招詞 イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美 讃美歌12「恵み豊けき主を」①③
*主の祈り (週報裏面参照)
交読 詩篇100篇(24)
賛美 讃美歌527「わが喜び」①②④
聖書 マタイの福音書17章14~23節
説教 「できないことは何もない」古川和男牧師
賛美 讃美歌448「御恵みを」
献金
感謝祈祷
報告
*使徒信条(週報裏面参照)
*頌栄 讃美歌545下「父の御神に」
*祝祷
*後奏
17章の最初には、イエスが三人の弟子だけを連れて、高い山に登られて、輝くお姿に変わるのを見せる出来事がありました。その山から下りてきて、残りの弟子たちの所に行くと、群衆たちが集まっていた、というのが今日の話の始まりです。そこに一人の父親が、息子の病気を癒やしてほしい、と連れて来ました。弟子たちにお願いしたけれど、出来ませんでした、と。
彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、15こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。16そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」
「てんかん」と訳されている言葉は欄外に「直訳「月に打たれて」」とあります。癲癇は、とても苦しく、また理解のされがたい病気で、今でも解明されていない病気です。二千年前は、月と関係するのだろうとか悪霊のせいだろうと思われたりして、そんな言葉遣いが出て来ます。今こんな言い方はしませんが、それでも病気の当事者の苦しみ、それを見て何も出来ないこの父親の悲痛な叫びは、今にも十分に通じます[1]。そして、イエスもそれを聞いて嘆かれます。
17イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか[2]。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
この強い言葉が指す「あなたがた」が、父親も含めた群衆なのか、弟子たちなのか、この時代全体の事なのか、分かりません。大事なのは、その不信仰を踏み越えて、主が
「その子を…連れて来なさい」
と言って癒やされたことです[3]。人の不信仰のただ中で、苦しむ人をあわれみ助けてくださる。ここに、私たちの希望があります。この方を信じるのが私たちの信仰です。
19それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」20イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」
弟子たちは「なぜ私たちには 」と聞きました。自分たちの 能力や資質の問題と考えています。10章1節ではイエスに、病気や悪霊を癒やす権威を与えられて派遣された彼らですが[4]、いつのまにかそれが、イエスのあわれみから出た権威ではなくて、自分たちの 権威、力、プライドとすり替わったのでしょうか。
「私たちには」
と聞くし、
「そっと」
という態度は、恥ずかしさ、つまり裏返したプライドに見えます。イエスは
「あなたがたの信仰が薄い」
と言われます。弟子たちの信仰はいつも「薄い」と言われます[5]。信仰が薄いから出来ない、というより「あなたがたの信仰は薄い。自分が追い出せるとか、なぜ追い出せなかったのかという問題ではない」と言うことでしょう。
「からし種」
とは、当時の慣用句で極々小さいことの譬え。
「山を移す」
も慣用句で、大事業や大変化を指す表現です[6]。ですから「なぜ自分には出来ないのか、もっと信仰があれば悪霊も追い出せる、山に命じても移せるはずだ」ではなく、信仰は芥子種のように小さくても、神を信じる信仰だから力がある。私の力、私の信仰によってではなくて、悪霊よりも強く山々も造られた神を信じる。私たちを憐れみ愛する主への信仰。それこそ、私たちをプライドや無力さを恥じ入る劣等感から救い出してくれます。神には出来ないことはない、と神に信頼することが、目の前の問題が山のように大きくても、希望を与えてくれます。[7]
ですから、この直後、イエスはまたご自分の最後について予告します。
22彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。23人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。
イエスが本当に山に命じれば山も動かせる方、石に命じればパンになり[8]、御使いの軍勢も呼べる方が[9]、渡され、殺され、よみがえる道を行かれたのです。そんな恥ずかしくて苦しい最期を、動かそうと思えば動かせるお方が、その最期へとご自分の道を見定めました。
しかし・・・逆に言えば、イエスは自分のために山を動かすより、遙かに大きな事をなさいます。神である方が人間になり、罪人のために自分を差し出し、苦難と恥の十字架で死に、三日目によみがえる。それが、イエスが選ばれた愛を貫く道でした。愛を貫く道を行く。それに比べたら、山を動かすなんてちっぽけでつまらないことです。
そして、そのイエスの恵みの力が私たちに注がれて、私たちも主イエスが愛してくださったように愛し、主が赦してくださったように赦し、主が歩まれたように私たちも歩む。私たちが恵みで生きるようになる。イエスはそんなことを仰っています。そう仰るイエスを受け入れる「からし種ほどの信仰」を、私たちはいただいています。自分のために「山」を動かしたり人を動かそうとする生き方から、イエスが御父を信頼し私たちを愛し十字架への道を歩まれ、その道に従う信仰です[10]。
イエスは、私という信仰の薄い者をも愛されて、この私をも少しずつでも動かし、私たちには恥とか悲しみ[11]としか思えないことをさえ、恵みに変えてくださる。困難な山の上でこそ栄光を現して、悲惨な死をさえいのちに変えてくださる。そういう御業を、小さな信仰の中で精一杯期待し、信じて、願うよう、私たちを変えてくださるのです。
こども讃美歌に「息することさえも」という歌があります。「あなたがいるからそうなんでも出来る。息することさえも」という歌詞です[12]。そう、神がいなければ山を動かすどころか小さな種も動かせないし、息することも出来ません。神がおられて息も、信仰も罪の赦しも、深い回復も下さいます。それは、神の子イエスが、私たちのために動いてくださったからです。
その主を信じる信仰を、私たちは決してつまらない信仰のように卑下する必要はありません。むしろ、この主への小さな信仰が働く時、神が私たちの思いを遙かに超えて深いことをなしてくださると、信頼させていただけます。その私たちを動かすことこそ、主への信仰の恵みです。
「山々を造り、太陽も宇宙も動かしておられる主よ。あなたの御力を褒め称えます。そして、あなたの力はあなたのあわれみ、自分を捨てた十字架と復活にこそ現れました。どうぞ、その力を私たちにも注いでください。悲しみ、もどかしさに苦しむ私たちを、癒やしてください。私たちの心を動かし、息をすることもあなたを信じたことも、すべてが恵みであると褒め称えさせてください。私たちの小さな願い以上の、あなたの真実な御業に、私たちをお委ねします」
VIDEO
VIDEO
脚注
[1] 聖書にこうあるからと、てんかんが「悪霊」のせいだというのは、「月に打たれた」という言葉遣いを杓子定規に取るのと同じぐらい、筋違いの解釈です。そもそも、この「てんかん」を今の医学の基準で言う「癲癇」と同じだと考えることも不可能です。『広辞苑』には「発作的に痙攣(けいれん)・意識喪失などの症状を現す疾患。脳に外傷・腫瘍などがあって起こる症候性のものと、原因の明らかでない真性癲癇とがある」と解説されています。
[2] 「我慢」アネコマイ 担う、背負う、耐える。原意は、「手で支え続ける」です。マタイではここだけに出て来る言葉です。
[3] 「その子をお叱りになると悪霊は出て行った」とありますが、イエスがその子を叱ったように見えて、実は、その子を癒やされたのです。その子に責めがあるとも、なかったとも言えません。
[4] マタイの福音書10章1節「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」
[5] マタイの福音書6章30節(今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。)、8:26(イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。)、14:31(イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」)、16:8(イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」
[6] マタイ21章21節(イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。」、Ⅰコリント13:2(たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。)
[7] 神に出来ないことはない。これは、特にルカが強調する、私たちの基本的な信仰。マタイ19:26(金持ちの求道「イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」)、ルカの福音書1:37(マリアの処女降誕「神にとって不可能なことは何もありません。」)、ピリピ4:13(私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。)
[8] マタイ4章3-4節「すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」4イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
[9] マタイ26章52-54節「そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。53それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。54しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
[10] 『境界線』の考えでは、自分を制するより他者を制御しようとするのが幼児性で、成熟とは他者を制することから自制するようになっていくことです。万能感からセルフコントロールへ、不満から自立へ、とも言えます。神は、完全に自立したお方です。
[11] 悲しんだ 14:9(王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、)、17:23、18:31(彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。)、19:22(青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。)、26:22(弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。)、26:37(そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。)
[12] 「息することさえも」Every Move I Make, by Hilsong 「あなたがいるからそう なんでもできるJesus息することさえも すべての歩みもそう あなたの一緒Jesus 息することさえも うちよせるこの喜び どこにいてもI see Your face 愛にとらえられ Oh my God Ah すばらしい」https://youtu.be/0hhQYp8upk0 英語の原曲もたくさん動画があります。 https://youtu.be/3G1plc8_vQg
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます