聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問8 「神は天地を創造し治める」イザヤ書四五18-22

2014-06-23 17:22:00 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/06/1508 「神は天地を創造し治める」イザヤ書45章18-22節
ウェストミンスター小教理問答8

 前回は、神の「聖定」についてお話ししました。

問7 神(の聖定とは、何ですか。
答 神の聖定とは、それによって神が、ご自身の栄光のために、起こってくる一切のことを前もって定めておられる、そのような御心の計らいにしたがった、神の永遠の御計画です。

 その神様の、聖なる永遠のご計画は、どのように実行されるのか、が今日の話です。

 問8 神は彼の聖定を、どのように遂行されますか。
 答 神は、創造と摂理のみわざによって、彼の聖定を遂行されます。


 創造と摂理。そして、ウェストミンスター小教理問答は、次の問9と10で「創造」について、そして、問11と12で「摂理」について教えていく構造になっています。聖定は神様のご計画(いわば、設計図)ですが、それを現実に移したのが、建築とメンテナンス、あるいは、舞台制作と上演にあたる、創造と摂理なのです。ウラを返せば、私たちが生きているこの世界は、丸ごと神様の聖定が形を取ったものなのです。この世界のすべて、一つ一つが、神様の聖定の現れです。私たちは聖定そのものを直接理解することは出来ません(それは永遠であり、宇宙のすべてに渡る途方もないものです)。ただ、この世界を見て、また摂理が実行されていく現実を通して、聖定の断片に触れることが出来るのです。ただし、私たちの側のメガネが罪で曇っているために、ねじ曲げて理解してしまいかねません。ですから、聖書をよく読み、神様の聖定についての基本的なことを知っておくことが大事です。出来事から御心を決めつけるのではなくて、聖書から出来事を見ていくようにすることで、私たちは間違いから守られるのです。

 今日は、創造と摂理の御業によって、と二つを並べています。この事もよくよく心に留めておきましょう。中には、どちらか一方だけにしてしまう人もいるからです。

 たとえば、創造だけ、という人たちの考え方を「理神論」と言います。世界の創造者としては認める。もっとあけすけに言えば、世界がなぜ存在しているのか、その理由を説明するためにだけ、神の存在を持ち出した方が都合が良いので、神の創造を言う。けれどもそれだけです。後は、神は世界を作ったまま、もう関わってはおられない。人格的な方と考える必要も無い。奇蹟だとか摂理や啓示だとかも考えない。この「理神論」という立場は、「時計仕掛けの世界観」とも言われます。精巧な時計を職人が作った。でも、動いてしまえば、時計職人が放っておいても動き続けている。そうやって、神の手を離れて、この宇宙という大きな機械は今も動き続けている、と考えます。でも、私たちはそうは信じません。神が、聖書を通して主張されているように、今に至るまで全てを治めておられ、深く関わっておられ、創造だけでなく摂理をも働かせておられると信じます。もし、神が背を向けてしまわれたら、人間も世界もたちまち存在できなくなるでしょう。何よりも神は、聖書において、世界を作ったご自身との関わりに生きるよう、私たちに叫んでおられるのです。

 同時に、創造を言わずに、摂理だけを考える人たちもいます。何かあると「神様の御心だ、恵みだ、あるいは試練だ。偶然じゃない」と言うけれども、この世界そのものが神の手になるものであることはあまり重視しないのです。信仰というのが、人格的で、個人的なのですが、自然とか社会、政治や世界全体を見る時には、それはそれ、と分けてしまうのです。こういう考えを「二元論」と言います。信仰の世界と現実の世界を分けて考えてしまう。ヘブル書の十二章2節に、

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

とありますが、イエス様は信仰だけでなく、世界の創始者であり、完成者であるのです。そして、世界を創造されるみわざと、完成へと導かれる摂理のみわざは、聖定の遂行です。その聖定のご計画の中に、私たちの救いがあります。私たちに信仰を始められ、この信仰を終わりまで守ってくださるのです。ですから、その創造のみわざは、私たちの救いや信仰を見据えつつ作られた世界であり、摂理もまた、私たちの救い、成長、教会の歩みを益するようにと働いていくのですね。

 私たちは、つい、信仰と生活を切り離してしまいます。そして、信仰が強くなるには、奇蹟とか特別なことが必要だと考えたがります。モチロン、神様はご自身の力を見せるために、偶然では片づけられないことをなさることもあります。でも、忘れないでいたいのは、世界そのものが神様の作品であり、自然法則やこの世界にある普通のこともまた全て、神様が考え抜かれて私たちに用意してくださった舞台だ、という事実です。世界の存在そのものが、神様の御手による奇蹟です。特別な奇蹟だけが、神様の存在を証ししたり、神様の栄光を現したりするのではなく、この世界そのものが、神様の存在を証ししており、神の栄光を現しているのです。そして、私たちの周りに起きる出来事が、困難だったり、戦いだったり、病気や悲しい出来事であったりしても、それが祈っても祈っても変わらなくても、私たちの信仰にとってマイナスにはならない。むしろ、それが私たちの信仰を成長させるのだ、と信じるのです。

 今日のイザヤ書の言葉で、神様は力強く主張しておられます。ご自身が天地を創造された大いなる神である。偶像とは違うのだから、

22わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

本当に力強い宣言です。世界を作り、今も治めておられる方が、私たちに関わり、ご自身を信じて救われるようにと招き、救いと祝福を約束してくださっています。でもそれは、私たちの理解の到底及ばないほど、大きなご計画の中にあります。その確かなご計画の中心には、イエス様がこの世界のまっただ中に飛び込んでこられ、どん底にまで低くなられた十字架があります。そこに私たちの歩みもまた、確かであることが保証されています。すべてのことが私たちの益となるようにしてくださる、との約束は、聖定と創造、摂理という御業に裏付けられています。創造と摂理。今日のポイントとして心に刻みましょう。

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