聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問13 「創造された状態から」創世記三1~11

2014-07-26 21:10:12 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/07/27 「創造された状態から」創世記3章1~11節
ウェストミンスター小教理問答13

 前回は、人間に対する「特別な摂理」として、善悪の知識の木から取って食べてはならない、という契約が与えられたことを見ました。今日の問13では、その摂理に対して人間が取った行動が取り上げられます。

 「私たちの最初の先祖たちは、彼らが創造された状態にとどまっていましたか。
 答 私たちの最初の先祖たちは、彼ら自身の意志の自由にまかされていたところ、神に対して罪を犯すことによって、彼らが創造された状態から堕落してしまいました。」

 それは、今読みました、創世記三章の出来事です。エデンの園にいたエバに、蛇が語りかけました。

 1「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
 2女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
 3しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」


 そんなことを神様は言われませんでしたが、蛇が最初に否定的な言い方をすることで、エバの返答も、否定的な答になってしまったのでしょう。そこで、蛇は女に言いました。

 4あなたがたは決して死にません。
 5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 蛇は、主の約束のウラには秘密がある(ケチな、意地悪な思い)と囁きかけて、エバに、主への不信を吹き込みました。疑いを芽生えさせました。そして、エバはその木の実を食べてしまい、夫のアダムにも与えて、夫も食べた、とあります。

 今日のところで、肝心なのは、創造された状態から、意志の自由にまかされていたところ、神に対して罪を犯して、創造された状態から堕落してしまいました、という事実です。創造された状態には、罪はありませんでした。アダムとエバの心は、完全ではなかったですし、まして、全知全能であったわけでもありませんが、それでも罪によって汚されてはおらず、きよい心でした。自己中心や欲に負けてしまう、自制心の利かない心ではありませんでした。罪を犯さないことも出来る、正しい人間だったのです。

 そういうきよい心境というのは、私たちには思い描く事が出来ません。ですから、そこでの彼らの心理も十分に想像する事は出来ないのです。でも、私たち以上に誘惑に強いはずの彼らが、エデンの園という素晴らしく恵まれた状況で、たった一本の木の実を食べてはならない、という約束を守らなかったことが、大きな決断だった事は想像できるのではないでしょうか。

 私たちの心には、意志の自由があるようで、実は色々な欲や願望、偏見に染まっています。罪のせいで、私たちのしたいこと自体が、罪に縛られているのです。アルコール中毒の人は、お酒を飲まずにはおれません。端から見れば、お酒の奴隷になっている。お酒から自由になることこそその人が自由になる事だ、と分かりますが、本人は、好きなだけお酒を飲めることが自由なのだとしか思えません。アダムは、アルコール依存症でもなければ、罪人でもありませんでした。木の実を食べたいとか、「ダメだと言われたらますます食べたくなる」というような心ではなかったのです。それでも食べてしまいました。エバも、神様との親しい交わりがあったのに、神様を疑って、木の実を食べても死ぬどころか賢くなると言う蛇の言葉を信じました。蛇に唆された、とは言えるかもしれません。しかし、アダムはエバに勧められた時に断ることも出来たのに、食べてしまいました。それは、「気の迷い」とか「魔が差して」と言い訳することは出来ません。まして、「女がくれたから」「蛇が進めたから」とは言えませんし、「神様がそもそもあんな木を作らなければよかったのに」などと神様のせいにすることも出来ません。アダムが、自分の意志で、選んだ事です。そして、それは歴史上の事実です。それ以降、創造された状態から、堕落してしまい、この世界には罪が入ってきたのです。そして、その歴史の末に、イエス・キリストがこの世においでになり、更にその末に、今、私たちがここにいるのです。

 今でもサタンは、蛇ならぬもっと狡猾な形で、私たちの心に囁きかけています。神様を信じないように、疑いを吹き込みます。御言葉を引きながら、でも、本来の意味から外れた使い方をして、間違わせようとします。そして、心のきよかったアダムをさえ、エバから先に惑わすという戦略で落とす事が出来たのですから、欲に負けやすく、神様を信じる信仰から離れている私たちを誘惑する事なんて、サタンにとっては赤子の手をひねるよりも簡単でしょう。この出来事が抽象的なことではなくて、歴史上の事実であったように、私たちが誘惑に合うのも、毎日の生活の中、日常で起きていることなのです。

 けれども、イエス様は、このアダムの堕落を贖うために、人となって来てくださいました。そして、アダムとエバよりも遥かに厳しい条件で、サタンの誘惑に会われました。四十日の断食の末に、石をパンに変えよと唆されたのです。それが出来たイエス様にとって、どんなに厳しい事だったか、それもまた私たちの想像を超えています! でも、イエス様は私たちと同じ人間として、父への信頼を貫かれて、サタンの誘惑に打ち勝たれました。それも、イエス様お一人が勝利されたのなら当然で終わるかも知れませんが、イエス様は私たちのために、試みに会い、私たちのために、誘惑に勝利してくださったのです。ですから、私たちは今、誘惑に弱い自分を自覚するだけでなく、イエス様の勝利を確信して、希望を持つ事が出来るのです。

 創造された状態からの堕落というこの事実を、私たちは厳粛に心に留めます。でも、そこから贖いだしてくださるお方が、今も私たちの歩みにともにおられて、働いていてくださるという厳かな恵みをも覚えて、御言葉を正しく理解し、信じて歩みたいと願います。

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1 コメント

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ひさしぶりに頑張って読みまする(*´ω`*) (つばさ)
2014-07-28 17:43:26
ひさしぶりに頑張って読みまする(*´ω`*)
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