巣ごもり状態の冬は、閉ざされた感が半端なく。
それが当たり前の東北の冬だ。朝の目覚めも遅く、同じ時間でもカーテンを開けるとまだ暗かったり。
目覚めが遅いのはきっと冬眠のクマと同じなのだろう。わたしも母も冬の間は朝が遅かった。
四月に入り、日を追うたびに朝のカーテン越しの光が眩しくなった。
朝の準備もそれと同時に早くなる。冬中、朝の準備をするキッチンの何かしらの音を聞きながら、母は二度寝(三度寝?)する。まな板に当る包丁の音、水を流す音、お湯が沸く音、それらが眠りを誘うらしい。うとうとする母を見ながら、まだ眠らせておこう、夜中に何度もトイレに立ったから眠りが浅かっただろうし、と思ったりする。
最近はそんな母の二度寝が無くなった。早い時間に起き出す。あるいはわたしがキッチンに立つ気配を察するのか、目を覚したままのことが多くなった。
カーテンを開けると飛び込んでくる朝の光は眩しすぎるほどだ。
「明るくなったなあ」と目を細める母がいる。
ソファに座り、汗をかいた肌着やその中に入れているガーゼやタオルを取り替える。背中の汗を拭いてあげ、背中に手作りの長いガーゼを入れると、気持ちよさそうにする。
着替えするのも一苦労で、時間がとてもかかる。でも急がせてはだめ。
気持ちが焦るとそれが疲れに繋がるようで、へとへと感が半端でない。だから、母のペースに付き合う。これもわたしが仕事を持っていないから出来ることだねと話している。仕事をしているとこんな悠長なことは出来ないからだ。ふたりの年金で細々と暮らしていても、こういうのんびりというか、母に合わせたペースでゆっくりすることが出来るのは嬉しい誤算? なのだと感じる。仕事があれば、生活はもっと潤うかもしれない。でも、わたしに時間の余裕が無くなる。母に急がせることになるだろう。
あるいは、わたしが急ぐから母のことを全部わたしがやってしまうだろう。
今は少しだけ手助けして自分で時間をかけてもやろうとする気持ちがあるから、見守っていきたい。そばで見ていれば安心。
それが出来るのは仕事を持っていないから。
これもまた良し。
ふたりでのんびり。
冬の閉ざされた世界から、あっという間に光が差し込み、ふたりの世界は春になった。そして春はかなり早い駆け足で過ぎていく。桜の咲くのも早かったが、散るのも早かった。
暑くなるのか、そうでもないのか。
ここの春は目覚めるのも早く、さよならするのも早いのだ。
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画像の桜はすっかり葉桜になっている。