渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

豊後高田刀

2016年03月08日 | open

(豊後国高田-現大分市鶴崎)


九州の刀工群に、古刀期から新刀期まで続いた豊後高田鍛冶がいます。
古刀期の作は便宜上平高田と呼ばれ、新刀期の高田刀は藤原高田と
呼ばれています。

豊後高田というと現在の豊後高田市を想像しがちですが、それは誤りです。
かつて現在の豊後高田市の場所は豊前国領であり、豊後国ではありません。
こうしたことは、事実に照らし合わせて精査しないと、「古三原とは現在の
広島県
三原の地で作刀した刀工正家が・・・」などというのと同じ大間違いを
犯します。
三原鍛冶については、多くの刀剣商さえも不勉強ゆえ、「鎌倉南北朝時代に
現在の三原に刀鍛冶がいた」と思い込んで、地形的な歴史を確かめもせずに、
これまで刀剣界中央で云われてきたことを盲目的に反復して言うばかりです。
地面が存在しない場所に刀鍛冶がいた、というもので、誤認が甚だしい。

鎌倉南北朝の頃に現在の三原の地はありません。地でなくそこは海です。
現在の三原エリアに地面が登場したのは、戦国最末期の天正年間に
海上の小島をつないで埋め立てた「三原城」が築城されて以降のことです。
同時に戦国末期になぜか一気に河川の土砂が堆積してデルタ地帯を構成
しはじめますが、これについては学術界は言及していません。私個人は
鉄穴流しの土砂堆積により、戦国期に一気に河川河口部にデルタ地域が
形成されたのではと読んでいます。

豊後高田鍛冶が鍛刀した場所は、やはり広島や三原と同じ河川の河口付近
のデルタ地帯の中州で、現在は鶴崎と呼ばれる地域です。
ここらあたりが、かつては海岸線領域だったのではないでしょうか。

豊後刀は刀剣界では「脇物」と呼ばれ、備前刀などよりは二段も三段も格下に
みられがちです。

しかし、確かに備前刀には名刀も多いながら、こうしたピラミッド的な見方は
五箇伝第一主義に基づくもので、時の権威者によって意図的に「造られた」
概念です。
現在の美術刀剣鑑定の視点からしても、豊後刀にも見るべき作品はかなり
多く、備前刀と比べても見劣りしない物も存在します。

また、備前刀と美濃刀が夥しい戦国期の軍需に応えたように、豊後刀も
肥後菊池同田貫派と並んで戦国武用刀を多く作った鍛冶集団でした。
戦国期の戦国大名(大友氏)と密接な関係にあったためか、つとめて実用的
な刀剣を多く作っていたのが豊後高田刀です。
勇猛で名を馳せた加藤氏が肥後菊池同田貫を備え刀とし、臣下の差料にも同田貫
を用意して同田貫軍団としたように、豊後高田鍛冶も戦国武将の求めに応じて
真に時代に即した刀剣を作った鍛冶たちでした。

こうした脇物については、肥後同田貫、豊後高田、周防二王、備後三原、
越前、加賀、武州下原、奥州物等々がありますが、いずれも武人たちの
要求を充分に満たす戦場刀でした。
だからでしょうか。新刀期に入っても、新刀特伝系の新興都市部の刀鍛冶
とは違った古刀風味を色濃く残す作品が脇物と呼ばれる鍛冶の新刀期の作
には
多くみられるようです。
つまり、脇物は、タイムスリップした古刀のような作域を新刀期の作においても
見ることができ、画一的に「慶長以前を古刀、慶長以降を新刀」とする視点(これ
も後年「造られた」概念)にとらわれず、日本刀の歴史の複雑さ、不思議さに
触れて刀剣を楽しむことができます。


これらの「脇物」は刀剣界では「郷土刀」と呼ばれておりますが、ご自身の
お住まいの
地域の刀ということだけでなく、別地域の方も、是非とも「脇物」と
して邪見に
されている刀に目をやってください。
かなり、見ても触れても(じかに触ってはだめですが)楽しめる日本刀に
出会うことができるかと思います。
現状の日本刀の世界では「安物」として見下されている「脇物」ですが、
富豪ではない私のようなごく一般的な庶民でも入手しやすく、とても楽しめ
ます。作風も面白い作が多く、いくら眺めても見飽きない観賞に耐える作
も多くあります。
どうか、郷土刀と多く触れ合ってください。
もし縁があって入手される機会がありましたら、どうぞ大切になさってください。