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謎の日本刀「三原」。
備後国の西端、安芸国との境の奥深い10数キロの細い入り江を
戦国時代末期に埋め立てられて三原城は築城された。
それまでは三原城のあった場所はただの山間が海にせり出して
屹立した海辺の寒村である。
隣りの尾道は太古の昔から出雲街道が通じ、また海路としても
交通の要衝だった。
だが、現在の三原の地は、三方を山に囲まれて閉ざされ、海が
広がる土地であり、古代および中世には交通の利便性は著しく
低く、天然の要害のような場所だった。
日本刀界には、古刀三原の刀=古三原の製作場所について不明
な点が多い。この場合の不明とは、行方不明の不明ではなく、
道理に昏(くら)いという意味の不明だ。
その特徴的なことは、三原の地が天正頃に開発されて人工的に造ら
れた新興軍事都市であることを弁えない見解が多く、南北朝時代の
「古三原」とされる刀剣についても、毛利一族の小早川家が新規に
開発して海を埋め立てて作った三原の地で作刀されたとするような
あり得ない所見がまかり通っているのである。
一部の見識ある人たちからは、刀剣界でも「古三原の鍛刀地はどこ
であるかは不明」という正論が説かれていたが、「古三原は現在の
広島県三原の地で作刀され」といった類の説明を現在でもまだ多く
見る。
海の上で刀は作れない。
「古三原」と命名したのは後代のことであり、そもそも古三原の
祖とされる刀工正家は「備州正家」と作品に銘切ることはあって
も、三原と切ったことはない。
また、後代の「貝三原」と銘に切った備後刀工群の作刀地は三原
城が後に出現した場所で作刀したのではないことだけは確かだ。
それは年紀からして「存在しない場所」での作刀であるからだ。
それは、喩えるならば「天保元年 於江戸月島作之」などという
刀は存在しない(し得ない)ことと同列にある。
三原の地は交通の利便性が非常に悪い。
主たる路は船舶を使った海路が明治以前はメインだった。
この日記でも何度か紹介しているが、三原の地は現在においても
東方尾道に抜けるには陸路ではつい近現代までは車が離合できない
ような非常に通行困難な難所を通らなければならなかった。
海沿いの道路が整備されたのは戦後であり、国道が整備敷設された
のは昭和30年代だ。
また北方の現在の山陽自動車道(古代山陽道のルートに重なる)の
三原久井インターチェンジ方面に抜けるにも、急峻なつづら折れの
山道を抜けなければならない。
また、西方に向かう陸路も、平地の無い海沿いの三原(明治以降は
埋め立て干拓が進み、住宅地や平地が出現した。昭和50年代末期
までは三原市郊外は広大な農地として利用されていた。現在はすべ
て住宅街)から西に抜けるには、山越えをしなければならなかった。
東・北・西が山に囲まれ、前面の南側は海である。
交通の利便性は著しく低いが、これが返って戦国時代には軍港とし
て恰好の天然要塞として利用できたのだった。
そこに目をつけた毛利一族の小早川隆景は、高山城、新高山城
(現在の三原から広島空港に向かう途中の中世当時の入江奥の
渟田-ぬた-川の河口付近)から湾の入り口に新たに軍都を築いた
のだった。
従って、武士も町人も、三原の住人はすべて全員が他の土地から
の移住者で構成されているといっても過言ではないだろう。
理由は刀鍛冶がそこに存在できなかったのと同じで、海の中では
人は住めないからだ。
三原城(慶應年間の絵図)
南東から見た復元鳥瞰図。城郭部分は城内・城下の街だが、全域が
埋め立てにより造られた。
2018年から451年前の年に初めて杭打ちがされ、海上の大小の小島
を繋ぎ浅瀬を埋め立てることで、後世の長崎出島や幕末の江戸お台
場のような石垣が海上にそびえ建つような作りとなっているのが三
原城だ。別名浮城(うきしろ)。
南西から見た復元CG。
手前の海の突端が西之築出(にしのつきだし)と呼ばれる武家住宅
地で、ここには作事奉行所や藩校や各種武芸師範家の屋敷があった。
中央の海に面した部分が本丸で、江戸期には広島藩家老の屋敷があ
った。
一番右の東端の出島が東之築出と呼ばれ、講武所や馬場があった。
東之築出と本丸の間には軍船を引き入れる舟入が奥深く建造されて
いた。
城郭の各曲輪(くるわ)を取り囲む石垣と塀の角や中央には二層の
櫓が建築されていた。櫓の数は全部で32、城門は14あった。江戸期
の福島正則が広島に入城後に築城整備が進められて完全完成したが、
福島氏は無断城郭改修の濡れ衣を着せられて幕府により改易処分を
くらっている。
海上から見た三原城西之築出の古写真(明治40年-1907年)。
南西海上から撮影。
舟入櫓跡を南東海上から撮影。明治43年(1910年)。
まさに海に浮かんでいるようだ。
これは復元された広島城の二重櫓(太鼓櫓)だが、広島城と
三原城の櫓建築はまったく同じとの記録があるので、福島氏
により建築整備された三原城の櫓もこのようなものだったと
思われる。
こうした復元広島城の景観は、もろに三原城もこの様式そのまま
だったことだろう。
こちらは明治36年(1903年)の桜山頂上から撮影した三原城と城下。
城郭の殆どが維新新時代に「不要な物」とされて破壊されている。
地面がない場所だからといって、城の本丸の真上に鉄道を敷設させて
いる。沖合の新たな埋め立て地は塩田だ。現在は三菱重工と帝人の
工場がある。西之築出の武家地住居は明治9年に居住者に強制退去
が命じられた。維新後からそれまでは本丸御殿跡地も含めて、狭い
土地で耕作等をして士族は食いつないでいた。西之築出には専売局
が建設されるため、維新直後に破壊された櫓と共に作事奉行所や旧
武士たちの屋敷はすべて解体され、石垣の石や建材などは一般に
競売(けいばい)に出された。武士の屋敷は農民の農地や家建物の
ような個人所有ではなく、すべて「官舎」であるので、主君や新政
府の上意によりいつでも「召し上げ」られたのである。
明治期の士族の生活は、旧禄の大小に関係なく、一様に辛酸をなめた。
武士とは現代風にいうならば軍人であり政治家であり官僚で
あったので、現代産業のような商業活動を専門とする職種で
は無かった。従って、武士が作った町というのはあくまで軍事
都市であったが、その軍都に城下町を設けて商業人口を誘致
して産業育成により経済的基礎を固めるアイデアは織田信長
が日本で初めて敢行実行した。
現在の日本の都道府県の県庁所在地のほとんどが旧藩の
主たる城郭が存在した軍事主要都市となっているが、商業
エリアを人工的に建設することにより都市部が栄えているのは
戦国末期の信長の考案した手法と、江戸幕藩体制での徳川家
による国内の都市造りの方法を踏襲しているといえる。
三原城図(幕末慶應年間の図の現代模写のため横書きは左
からの漢字並びとなっている)
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江戸初期の図。まだ武家住宅地で未建築部分も多い。
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これは現在のところ三原城を撮影した現存する最古の写真とされる一葉。
明治10年-1877年に本丸跡を西側から撮影。
櫓は解体されているが、江戸期の本丸の様子をよく伝える写真だ。
1877年はアメリカでは西部開拓時代の末期で、アウトローたちが
暗躍して犯罪多発の時代だった。
日本では日本最後(今後起きないとすれば)の内戦である士族の
大叛乱決起の西南戦争が起きた年である。
この前年に、城郭内武家住宅地から順次旧武士=士族たちは強制
撤去を新政府により命じられていた。
維新を革命とするならば、どの国にもある革命後の反動抑圧体制の
手が体制側内部にも加えられ初め、体制成立の矛盾が噴出し始める
時期の写真がこの一枚が撮影された頃である。
九州を中心として戊辰戦争での旧「官」軍=西軍側内部に士族の
乱が頻発した。
そして、維新の主役の一局であった薩摩=鹿児島県士族が西南戦争
で新政府に対し敢然と決起し、そして死んで行った。
西南戦争では、10年前の戊辰戦争での日本国内東西合戦で、薩摩
の西軍に苦戦し敗北した旧幕府軍の士族たちは新政府に戦闘員と
して雇用された。
元々幕府側だったのに裏切って長州倒幕派と結んだ旧薩摩藩に対し
恨み骨髄の旧幕臣たちは、死を恐れずに警視庁に抜刀隊として組織
され、西南戦争では銃弾をかいくぐって抜刀斬り込みのゲリラ戦を
しかけて戦果を挙げている。
ただ、そうしたことも、実はその後現在に至るまでこの日本を支配
し続ける長州閥の手の中で転がされていただけ、という目を逸らす
ことができない現実があったことだろう。
長州の戦略は、単に関ケ原で徳川に敗北した恨みを260年後に
維新で果たした、などという単純なものではなく、表の歴史には決
して出てこない、長州閥が拵えた現代国定教科書などには絶対に記
載されない、とんでもない大逆事件を以て謀略の限りを尽くしてこ
の「日本」の幕末戊辰戦争と維新前後の行動を形成している。
武士が政治屋であるとするならば、その最頂点を極めたのが長州閥
の武士たちだったことだろう。無論、大逆謀略は彼らだけでは為し
得ず、君側の奸たる天皇側近の力ある公家が黒幕の一人となって暗
躍していたことは想像に難くない。同じ公家でも中山家などはすべ
ての事実を「日記」という形で書き残している。「奇兵隊の天皇に
なってしまった」と。
ケネディ大統領暗殺でもそうだが、いつの時代も政治とは洋の東西、
時代の新旧を問わず、謀略を実行する者が支配力というパワーを
有することを見る思いがする。
武士という存在が、政治と軍事を司る支配者である限り、そこの中
心幹に流れるものは、「清く正しく美しく」とはまるで無縁の汚さ
の限りを尽くす謀略に次ぐ謀略であることは間違いない。
武士という存在が綺麗なものであるとか、カッコいいものであると
か、素晴らしいとするのは、それは世の中の歴史と武士の実体や実
相を知らない武士と無縁の位置にいる人が勝手に思い込んで美化し
ているだけであり、政治と軍事と経済を掌握して自在に統制力を行
使できる「支配者」というものの本質を見る事ができない能天気に
外ならない。
支配者というものは、歴史の新旧、世界の国の如何を問わず、いう
ならば「悪魔に魂を売った者たち」でないと支配者稼業などはやって
いられないのが現実なのだ。
三原城の城内散歩をCGで再現。
三原城の復元
後東門のところが坂になっていなかったり等の不十分さはあるが、
CGは江戸期の三原城内の様子がよく分かる映像作り込みになって
いる。
城内の様子と江戸期の我が家の屋敷もCGでは写っているが、これ
は建築物の記録は絵図しか残っていないので、勿論復元CGはあく
までその絵図に基づいた想像図ということになる。
三原城西ノ築出の江戸期慶應年間の城内とその写し
(姓名の通称名部分は省略)
南端の吾往館は三原城内の藩校である。現代では国道が通って
いる。
広島銀行があった場所だが、数年前に撤去し、現在はコンビニの
敷地となっている。
西之築出の武家地エリアのことを私の父は「御作事場」と呼んで
いた。昔ながらの旧来の呼称なのかも知れない。今では町名も
異なるが、一時期「御作事町」と呼ばれていて、町内会の名称では
それがまだ残っている。隣接する西側の城下の町人町(現港町)は
「船入町」という旧町名の町内会館がある(JRの鉄道高架線下)。
武家屋敷の敷地(拝領)内には城壁に面して城の櫓があった。
城郭の櫓というものは備蓄倉庫であると同時に物見櫓でもあり、
それが三原城のように同敷地内に居住している者の土地を通り
抜けないと櫓に行けないという構造である場合、どういう扱いに
なっていたのだろうか。
それについての家伝も存せず、また学術史料上も私は未見なの
でよく知らない。
うちと同じく槍術師範家の佐分利さんのお宅の敷地端にも城郭
最南端の海に面した角に櫓があり、この櫓に役務で赴くために
は佐分利さんのお宅の敷地を通らないと櫓に到達しない。
要するに、江戸期は自宅は塀で囲っていて家の門があったと
しても、プライベートは公務の前には捨象されるということなの
だろう。あるいは、その屋敷に隣接した櫓についての管理は藩の
専門職ではなく、その敷地内の武士の家が委託を命じられていた
ということも考えられるが、こうしたことは学術史料に依らない
と単なる想像で事実を捏造や創作してしまいかねないので注意を
要する。
昨日の三原城。城の本丸北側から本丸石垣跡(城址公園)を望む。
右の青いしまなみ信用金庫の看板の場所が三原城西之築出の
酉ノ御門の跡地である。
備後国三原城についての現地実地検証については、こちらの
サイトが非常に興味深い。
踏破して調べるということはとても大切で、こうした現地実地
調査をしてレポートしているという報告は、インターネットの
極めて正しい情報伝達の使い方だと私は思料する。
それに読んでいても、そのブログを見ているだけで楽しい。
古都三原。
しかし、日本刀「古三原」がこの戦国末期の新興軍事都市で製作
されたのではないことだけは揺るぎない事実である。
三原は長崎出島や東京月島や江戸期のお台場のように、海上を
埋め立てて16世紀末に人工的に造られた当時の新興都市だった
からである。
中世戦国時代や南北朝時代、鎌倉時代、平安の遥か昔には、この
場所に地面は存在せず、一面海面(うなも)だったのだ。
日本刀を観る所見としては、よく三原物の刀剣は大和伝とされて
いるが、大和本国のいわゆる大和伝とはかなり異なるように私に
は見える。
三原物を作風の部分的類似性からのみ「大和の影響」とする刀剣
界の説明は多いが、私はそれには全面的に首肯はできず、多くの
パーセンテージの比率で疑問を持っている。
作風の類似でいうならば、三原に似ている備前鵜飼(宇甘)派も
備中青江派も「大和伝」というのか。否である。まして備前一文字
の流れにあるとの古い時代の記録もある備後国分寺助国などは法華
一乗と並んで三原物の一部と作風が非常に似ているのだが、助国を
大和伝物とは呼ばない。(三原物は備中青江のように大別して二種
類に分別できる作柄の分岐がある)
末三原と作風が酷似している周防国二王については「大和風」とい
う表現も多く使われるが、私はこれも安直に過ぎる何らかの危険性
を感知している。
実は二王と末三原は極めて酷似しており、三原の地と二王の地
(岩国)の鍛刀地の中間にある安芸国大山鍛冶(宗重を中心と
する戦国末期の刀工群)の作柄は銘を隠したらどちらがどれだか
判別がつかない程に酷似しているのだ。
三原の刀は権威主義的刀剣界では「脇物」の典型例の扱いであり、
刀剣王国備前よりも数段格下に置こうとする作為があるので、鑑定
の際には、無銘で直刃で肌物で作者が判らなかったらとりあえず
三原に入札しておけ、という「三原逃げ」ということが行なわれ
ていたりするのである。
だが、実は、二王や大山宗重の作でも、健全ではなく疲れた個体
は無銘ゆえ三原に「落とされて」いる作品が非常に多いのではな
かろうか。
現実問題として「三原」なる刀鍛冶の鍛刀地は、私個人は古代山陽
道に沿った駅家(うまや)があった場所であろうと推測している。
その馬家も三原市八幡町垣内(かいち)に確実にあった筈なのに、
山陽道古代史の最大の謎として、駅家名も場所も、一切記録から
抹消されているのである。
なぜ抹消されていることが判るかというと、律令制の厳格な規定に
より、駅家は駅間の距離が定められ、また駅事に置く馬の疋数も定
められていたことが挙げられる。駅名不明の三原北部の駅家の東側
隣りと西側隣りの駅間の間に駅がないということは、あり得ないの
である。
私はその付近が大元の「柞原=みはら=みわら」であろうと推測し
ている。
木炭や鉄資源の流通にも適した位置にある土地だからだ。辺鄙な
海辺の人の住まぬ場所では、物流に完成刀を乗せることも、人自
身が住むこともできない。
刀鍛冶の「三原」の作刀地は現在のところ確定的に比定されては
いない。
今後の研究により少しずつ将来的には解明されて行くことだろう。
捏造や科学的根拠のない断定決めつけをするという刀剣界の悪し
き傾向を除去する自浄作用を刀剣界が持とうという気持ちがある
ならば、きっと現段階では不明である事柄の多くも、研究が進み、
歴史の真実が明らかになっていくことだろう。
私は人心の中のそうした嘘無き真実の共有こそが、人の世の健全
さを最大限に担保することだと思っている。
少なくとも、私個人は、私自身は謀略や捏造による自己利益や権
益の確保に腐心する立ち位置とは無縁でありたいと考えているの
である。
戦国末期に築城以前の三原(想像図)
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