久し振りに来たら入り口に閉店のお知らせが貼ってあった。この店は昭和6年の開業というから90年の歴史がある。食堂といっても丼物の店で、親子丼と肉丼が絶品だった。小皿に二切れの沢庵漬けがつく。
店内は昭和の佇まいで灰色にくすんでいた。古びた木のテーブルにつくと、お婆さんがお茶の入ったアルマイト製の小さな薬缶を持ってきてくれる。奥の三和土には竈があり、大きな羽釜で飯を炊いていた。グルメにはよく知られた名店であった。ただ値段が東京並みで最近は営業時間も短くなり、この10年ほどは足が遠ざかっていた。
ここはお城に近く、明治22年に市制施行した時からの古い市街地である。そのこともあって、辺りには昔からの老舗が点在している。その老舗がここ数年、相次いで店を閉じてしまった。文化年間創業の粟おこし屋、明治から続いていた眼鏡店、藩主の入城に付き従い久留米に来て、藩の御用達を勤めていた和菓子屋。
大きいところでは江戸末期創業の書肆である菊竹金文堂がある。暖簾分けで九州の書店界に大きな影響を与えた。今でも「金」と名がつく本屋が各地にある。大正末に建築の3階建ての本店は威容を誇っていて、高校生の時は、重厚な大理石の階段を上って教科書売り場に行ったものである。経営不振で小さな店舗に移転していて、2年前に閉店した。
下の写真は7年前のもの。本店はレストランになっていたが、いまは取り壊されてマンションが建っている。
先ほどの食堂からすぐ東の先に文化街がある。飲食ビルが立ち並び、200メートル四方に数百のバーやスナック、料理屋が密集する一大飲食街である。文化街といえば筑後地方では歓楽街の代名詞となっているが、もともとはアーケードの「文化街商店街」という看板から向こうの一筋の通りの名称であった。
大正6年創業の「光華楼」という大きな中華料理屋が、戦後になってこの通りに数軒の映画館を開設した。その一つの「文化會堂」が文化街の名前のルーツである。光華楼は一時、プールやボウリング場なども経営し、久留米の文化・スポーツに足跡を残した。
近年は店舗を整理して、駅ビルにこじんまりとした店を構えていた。その店もこの8月をもって閉店し、104年の歴史に幕を閉じた。理由は高齢化である。90歳になる3代目の当主は、後継ぎもなく店は自分の代で終わりと言っているそうである。
文化街のそばを流れる池町川。汚れていたが筑後川から導水して綺麗になり、鯉が放流されている。「池町川ブルース」というご当地ソングがある。
文化街のすぐ近く、六ツ門交差点に出る。江戸時代はここに城下町を警護する門があり、明け六つ、暮れ六つに開閉していた。
店じまいした老舗の中には馴染みの店もあり、まこと世の盛衰はうたかたの感がある。時の流れは早いもので、明治百年を間近にした高校時代のある日、金文堂で紀元節論争を特集した雑誌を立ち読みしていた記憶がつい先日のことのように思われる。
最近ニュースで見ましたがお菓子屋さん(福岡で
有名なお菓子屋さんも明太子屋さんに買収❓)されて
いたように思います。書籍も小さな店はなくなっています。クエスト積文館も彼方こちらに出店されていますが閉店のところもあります。
当店は小倉店の書籍の中にあるので今のところ
お仕事がやりやすいのですよ。
魚町銀天街の中には有名店がたくさん閉店しています。
長く続いてきた店がなくなるのは寂しい気もしますが、時の流れには逆らえません。
金文堂は青春時代にずいぶん世話になったので、残念な気がしています。
最近の町なか野変化は、スピードが速く何日かの間に店がなくなっている事がたくさんあります。
食堂、ラーメン屋さん、そして何より少なくなったのが、本屋さんです。
本を読まなくなったという事ですが、なんだか寂しい限りです。
住宅街に近い近隣商店街にも町の本屋さんがありました。
いまは個人経営の小さな本屋さんはごく少なくなりました。
私も本を買うのは、もっぱらショッピングモールにある大手の書店です。
個人商店が成り立たず、商店街が寂れてしまいました。