【北辺は約72m、低い南側に向かって幅が拡大】
奈良県明日香村の小山田古墳(7世紀中頃築造)が飛鳥時代最大の方墳である可能性が高まり、発掘調査を進める県立橿原考古学研究所による現地説明会が3日開かれた。これまでの調査で墳丘は一辺約70mとみられていたが、昨年12月から進めてきた第10次調査で南辺の長さは80mを上回ることが判明した。北辺は「計算上約72mに復元可能」としており、古墳が正方形ではなく裾部が南側に向かってやや広がっていることが分かった。
同古墳は飛鳥時代に権勢を誇った蘇我蝦夷・入鹿の邸宅があった甘樫丘の南側に位置し、県立明日香養護学校の敷地内にある。第10次調査は墳丘西辺の構造や範囲の確認を目的に、墳丘の南西角とみられる場所から少し北側の部分を対象に行った。その結果、地表下3m付近から砂質土と粘質土で盛土された斜面が検出された。墳丘側からの流入土には北辺に敷かれた板石と同じ室生安山岩と結晶片岩の破片も大量に含まれていた。板石は7世紀後半頃までに取り外されたとみられる。また7世紀後半~8世紀初頭に埋納されたとみられる土器棺も出土した。
墳丘の中軸線から今回の盛土裾部までの距離は39.7m。これに板石積みなどの墳丘外表施設の分を加えると東西幅は80mを超える。また北辺の板石積みの基底の標高が約115mなのに対し、今回の調査区の盛土裾部の標高は約113mで、北から南に向かって低くなり、墳丘裾部も南に向かってやや広がっていることが判明した。このため「墳丘南辺の規模は80mを上回ることが確実になった」としている。これまで飛鳥時代最大の方墳は千葉県栄町の龍角寺岩屋古墳(一辺約78m)とされていた。
小山田古墳はその規模から被葬者が当時大きな権勢を誇った人物であるのは間違いない。専門家の間では舒明天皇(593~641)説と蘇我蝦夷(?~645)説の2つに大きく分かれる。舒明天皇は蝦夷の推挙で天皇に擁立され、崩御後には「滑谷岡(なめはざまのおか)」に埋葬され、その後押坂(現在の桜井市忍阪)に改葬された。舒明説では初葬墓の滑谷岡がこの場所に当たるとみる。一方、蝦夷説では日本書紀の記事に見える蝦夷・入鹿親子の双墓のうち「大陵(おおみささぎ)」に当たるのがこの場所で、すぐそばの菖蒲池古墳(国史跡、一辺約30mの方墳)を入鹿の「小陵」ではないかとみる。今後の調査が待たれる。